貧民街というのはあくまで通称だ。治安が悪く、飢えた連中がごろごろしている地域をそう呼ぶだけで、どこからどこまでというような明確な線引きや、看板のたぐいがあるわけではない。
 それでもそういった場所というのは一見してわかるもので、まともな暮らしをしている者は周辺に寄りつきもしない。とくに、カモになりうるような風采ならばなおのことだ。

 だというのに、上等な仕立てに身を包んだ男は今日もシーザーの前に現れた。

「なあ、いつまでこうしてるつもりだよ? おまえにはこんなとこ、似合わねえって言ってんだろ」
「……おれは消えろと言ったはずだが」

 問いかけには答えず低い声だけを返す。この界隈ではそれなりに恐れられているシーザーが睨んだにも関わらず、男は肩をすくめただけだった。

 このやりとりを繰り返して、もう十日になるだろうか。
 ある日、建物の陰で浅い眠りについていたシーザーは頬に触れられる感触で目を覚ました。まぶたを開けば目の前には大きな壁が立ちふさがり、それが人間の体だと気づくには数秒が必要だった。
 貧民街と呼ばれるようなところで暮らしているのだ、見知らぬ相手に触れられて警戒するべきなのになぜか動けない。シーザーの頬を撫でる大男は奇妙にこわばった表情をしていたが、彼が目を開けたのを見て泣きそうに笑った。

 それ以来、ジョセフと名乗った男はシーザーにつきまとっては先ほどのような妄言を繰り返す。おまえにこんなところは似合わない、とまっすぐな瞳で訴えられるたび、彼は何も知らないのだと思い知らされた。
 家も家族もすでになく、稼ぐ手段も持たないシーザーがほかの場所で生きていけるはずがない。いつも磨かれた靴を履く男には縁遠い世界だろう。

 ジョセフに声をかけられて目を覚ましたが、時刻はすでに昼を過ぎている。夜に寝てしまうことほど危険なことはないから、日が昇るころ眠りにつくのが常だ。だれにも気どられないよう寝床を変えているのに、この男は必ずシーザーを見つけ出す。
 はじめは食べ物や金を渡そうとしてきたが、手下になった覚えはないと突き放したところシーザーの誇りを察したのか、それ以上続けることはなかった。回転の速さは好ましく思うが、それだけだ。今日もついてくるつもりらしいジョセフをどう撒くか、考えながら立ち上がる。
 シーザーの生き方は決して褒められたものではない。ろくな苦労をしていないおぼっちゃんからは遠ざけておきたかった。

「――おれと一緒に来い。絶対、悪いようにはしないから」

 シーザーの思惟に割り込む声にため息をつく。悪いようにしないだなんて、わかりやすいほどに詐欺師のせりふだ。ジョセフにどんな企みがあるのか知れないが、うまい話には裏があるのが世の中というものだ。騙されてついていった先で体や臓器を売らされては取り返しがつかない。熱く握られた手を振り払い、背を向けて歩き出した。

「毎日毎日くだらねえこと言って、無駄だと思わないのか。だいたい、学校はどうした」
「シーザーちゃんったら、おれのこと心配してくれてるのォ? もう18だぜ、とっくに卒業しましたァン!」

 嫌味をぶつけたつもりがおどけた返事が返る。渋い表情を作りながら18か、と考えた。体格から考えてジョセフの方が年上であることは間違いなかったが、そんな話をしたのは初めてだった。18歳といえば、体が大人になりきらないシーザーから見ればずいぶん大人に思える。ふと、名乗った覚えのない名前をなぜ知っているのか疑問が浮かんだ。

 細い路地が入り組んだ貧民街の中で人を撒くのはそれほど難しくない。ジョセフとてそこまで愚かではないはずだから、シーザーの姿を見失ったあとは身の危険が及ぶ前にこのあたりから離れているはずだ。
 それなのに、シーザーが目を覚ますときには必ずジョセフがそばにいる。今日のように起こされることもあったし、黙ったまま横に座り込んでパニーニをかじっていることもあった。身ぐるみ剥がれる前に帰れと言うのだが、シーザーの忠告を聞いたふりもしない。ただ毎日現れては「一緒に来て」と繰り返すだけだった。

 当然、シーザーにまとわりつく大男はまわりの噂になっている。中には露骨に「惚れられてるんじゃねえの」と揶揄する者もあったが、機嫌を損ねたシーザーによってめった打ちにされていた。こんな子どもに執着するジョセフの考えはわからないが、告白だとか懸想めいたそぶりはない。ただ、なにかに急かされているような必死さが気になった。

「そういや、前ガラの悪そうなやつらと一緒にいたことあったよな。あいつらなに? おともだち?」
「馬鹿にしてんのか。んなわけねえだろ」
「じゃ、仲間? それとも舎弟?」
「……そんなんじゃねえよ」

 ジョセフが言うのが誰なのかはすぐにわかった。ときおりシーザーのうしろにくっついては分け前にあずかろうとしている連中だ。シーザーはこの街でグループを築いているわけではないから、舎弟というのも外れている。彼らはシーザーを慕っているわけではなく、自分に都合のいい相手からたかろうとしているだけだ。
 今はシーザーに媚びてみせているが、油断した瞬間に寝首をかこうと狙っているような連中である。当然仲間どころか味方でもない。シーザーの方でも軽蔑しているくらいだった。

「ここに仲間なんていない。周りはみんな、敵ばかりだ」

 吐き捨てたのは紛れもない実感だが、育ちのよさそうなお坊ちゃんに通じただろうか。二人分の足音が途切れ、シーザーのものしか聞こえなくなる。数歩分先に行ったところで後ろから声が聞こえた。

「さびしくねえの?」
「……はあ?」

 関わりあいになるなと思うのに、つい振り返ってしまう。少し離れた場所に立つジョセフはなぜだか情けない顔をしていた。

「おれは、そういうのさびしいと思うんだけど。ひとりぼっちって、悲しいだろ」
「…………お前、何言ってるんだ」

 妙なことを言い出したジョセフにシーザーはそう返した。甘ったれたことを、と呆れ返る思いだ。寂しいだなんて感じたことはない。強がりではなく、そんな感情そのものを忘れてきたような気がする。ナポリのあのあたたかい家に、と考えたところで小さく頭を振った。
 家族で過ごしたおだやかな時間は戻ってこない。おそらく、もう二度と。それでなくても、さまざまな犯罪に手を染めたシーザーに平穏な幸せを望む権利があるとは思えなかった。

 過去の重さにひきずられるように視線をうつむけたシーザーは近づいてくる影に気づけなかった。宙ぶらりんの手を掴まれてはじかれたように顔を上げる。ほとんど密着した大男の顔を見るには顎を上げなくてはならなかった。

「なに考えてるのか知らねーけど、子どもが無理すんなよ。さびしいときはさびしいって言っていいんだぜ」
「……うるせえ!」

 怒声とともに掴まれた手を振り払う。「子ども扱いするな」と「さびしくなんかない」のどちらも言ってやりたかったが、とっさに声にならなかった。代わりに、今度こそジョセフを置いて歩き出す。どう見ても怒っているシーザーの背中を飽きず追いかける男にますます苛立ちがつのった。

「ま、おともだちじゃないんなら安心したぜ。あいつらと一緒にいたら教育に悪そうだもんな」
「…………」
「シーザーって、人とつるむの苦手なタイプ? ツンケンしてるし、せっかく女ウケしそうな顔して」
「ついてくるんじゃあねえ!」

 だらだらと話しかけてくるジョセフに一喝すると男はあばら屋の陰に隠れた。そこからはみ出ている巨体に舌打ちしたシーザーは無言で歩き出す。路地の合間から向けられる好奇の目を睨みつければ、ぶしつけな視線はするすると消えた。
 つくづく最低なところだ。それでも、今のシーザーにはほかに居場所がなかった。



 耳を疑う情報が飛び込んできたのはその日の晩だった。何度も取引のある情報屋から聞かされたそれに、シーザーは一瞬自分が立っている場所を忘れた。何度も真偽を問ううち、情報屋は音を上げたように「裏路地で話してるのを聞いただけだよ、それ以上は知らねえ!」と叫んで逃げていく。情報料を要求しないあたり、どれほど信用できるものかが知れる気がした。
 しかし、聞いてしまったシーザーはもうそのことしか考えられない。ほとんどうつろな頭で数歩進み、すすけた壁にもたれて深呼吸した。

 ――父の居場所がわかるかもしれない。
 ごろつきらしい男たちがマリオ・ツェペリという名前を口にしていたそうで、聞きつけた情報屋がそれを教えてくれたのだ。貧民街と呼ばれるようなところにいたのも、すべては父のためだ。四方に手をつくして探していたものの、なかなか見つからず焦っていたシーザーにとって大きな手がかりになるだろう。高揚に体が熱くなるのを感じながら、つとめて冷静になるよう息を吐いた。

 この近辺にマリオその人が現れたわけではない。どこで見たのか、あるいは話したのか、情報源を突き止めて聞き出す必要がある。マリオの名前を聞いたという場所まで足を運ぶが、あたりは浮浪者のような濁った目つきの男たちが寝ているだけだった。一人ひとりを蹴起こしてみたもののみな一様に知らないと繰り返す。諦めたシーザーはあてもなく細い道をさまよった。
 昼間つきまとっていたジョセフはもういない。彼はシーザーが父を探していることだって知らないだろう。なにもかもをさらけ出せるほどの関係ではないのだから当然だ。

 さびしくねえのと聞いた男の顔を思い出す。さびしくはない。この身に生まれる不思議な力をわかってくれる相手なんて、一人もいなかった。

 マリオの名を口にしたという男を突き止められたのは深更になってからだった。あと1、2時間で日が昇るだろう。通りの向こうに立つ男の顔は見えないが、たばこの火を受けて帽子のおもてが細く光る。相手の背格好も着ているものも聞いた話と同じだし、あとは人違いでないことを祈るばかりだ。シーザーにとって、マリオ・ツェペリの情報は喉から手が出るほど欲しい。
 視線を離れた男に固定したまま、身をひそめていた路地から一歩出る。次の瞬間に起こったできごとをシーザーはほとんど認識できなかった。

「――な…………」

 頭が熱い。ひょっとしたら痛いのかもしれなかった。死角に隠れていた誰かに思い切り殴りつけられ、シーザーの意識は黒く侵食されていく。
 いつもならこんなへまは決して犯さないのに、気がはやるばかりに警戒を怠ってしまった。ちくしょう、と悔しさが渦巻く。父に至る手がかりがあったというのに。シーザーの視界に最後に映ったのは通りを横切って悠々と近づいてくるつま先だった。



 ひどい痛みにシーザーは目を覚ました。真っ暗な路上ということは、時間も場所もさきほどから大きな変化はないようだ。視界のほとんどが地面で、どうやら拘束されたうえで転がされているらしかった。後ろ手に縛り上げられた両手はことのほかきつく戒められ、左手の感覚がなくなり始めている。両足は言わずもがなで、逃げ出すのは骨が折れそうだった。

「てめえ……なん、っのつもりで」

 うつ向けに絞りだした言葉は割れるような頭痛に途切れる。触って確かめることはできないが、そこから血が流れているのだろう。髪が貼りつく感触と鉄の匂いが不快だった。

「もう目ェ覚ましたのか。しぶといガキだぜ」

 落ちた声に無理やり視線を上向ける。地面にうつぶせになっている状態では限界があったが、なんとか相手をみとめてシーザーは目を見開いた。彼の鼻先に立って見下ろしているのは、マリオにつながる手がかりを持っているはずの男だ。
 その瞬間にはめられたことを悟ったシーザーは強く唇を噛む。すべて、計算ずくだったのだ。マリオ・ツェペリという餌におびき寄せられ、こんなふうに縛り上げられてしまった。シーザーが誰かを探していることはすでに知られていたし、罠であることも予想してしかるべきだったのだ。悔やんでも時間は戻らず、シーザーは芋虫のように路地に転がっている。男の後ろにはまだ数人のごろつきが控えていた。

「いい格好だなぁ。なあシーザー、俺のこと覚えてるか?」
「…………」

 視線を合わせるようにしゃがみこんだ男の顔が近づく。数秒ののち、シーザーはいつかの記憶を取り戻していた。姓を名乗らないシーザーをからかい、仕返しに手ひどく痛めつけてやった男だ。顔の左側に長く残る傷跡でやっと思い出せたが、今の今まで忘れていたような相手だ。試すようにこちらをうかがう男に「……思い出した」と答えた。

「そりゃあ話が早ぇや。あんときは世話になったな。俺たちはずっとテメーを探してたんだ、こんな罠でのこのこ出てきてくれるとは思わなかったがな」

 言いながら男は立ち上がる。聞き間違いでなければ、俺たちと言ったはずだ。後ろからこちらを眺めている連中もこの男と同じく、シーザーに恨みがあるのだろうか。心当たりが多すぎてとっさには思い出せない。少なくとも、拘束されたシーザーに同情しているような視線は感じられなかった。

「……子ども相手に、たいそうなこった」
「ただのガキじゃあねえくせに、よく言うぜ。テメーに殴られるとヘンに痺れるんだってな、どんな魔法だか知らねえが厄介なもんだ。もっとも、そんな格好じゃ妙な真似はできねえだろうがな」

 そう言った男は勝ち誇っているらしかった。確かに、シーザーの拳には不思議な力があった。触れるだけで相手を痺れさせることができる。手以外からでも操れればと思い試みたこともあったが、いかんせん原理がわからないのだから応用もできない。シーザー自身にとっても謎の多い力は、こんなところで生き抜くには役立った。そうでなければ、まだ幼いといえるシーザーはたちまちに食いものになっていただろう。
 立ち上がることもできないのだから抵抗もかなわない。それでも瞳に火を宿したシーザーは目の前の靴に唾を吐きかけてやった。

「……っの、クソガキがァッ!」

 思いきり頭を蹴られ、シーザーの視界が一瞬真っ赤になる。ぐらぐらする視界でも脳震盪を起こさなかったのは相手の狙いなのだろうか。口の中からあふれる血をそのままに強い視線で射抜く。明け始めた空を受け、地面に流れる自分の血が見えた。

「おらぁッ!」
「ぁぐっ!」

 後ろから駆け寄ってきた男がシーザーの肩口を鈍器で殴る。衝撃で体が弓なりに反った。息をつく間もなく、別の相手に背骨のあたりを踏み抜かれる。体重の乗った一撃に廃墟の隙間で悲鳴が響いた。
 シーザーに恨みを持つ人間は多くいれど、肩を貸してくれるような相手は誰一人いない。そういう風に生きてきたのだ。それを悔いるわけではなかったが、たとえ彼がどんなに叫んだところで助けは来ないと知っている。衝撃のたびに上げる悲鳴が血の混じった声音になるころ、朦朧とした意識の中で別の絶叫を聞いたような気がした。

「――なんだ、てめえ!?」
「誰だか知らねえが、早いとこ消え――うげぁっ!?」

 耳をつけた地面を伝って逃げ惑うような足音と濁った悲鳴が聞こえる。体を動かすだけの気力もないシーザーは視線を持ち上げたが、空が白むころだというのに血で汚れた視界はぼんやりと暗い。なにが起こったのかも把握できないまま、いくつかの足音が走り去ったのを聞いた。
 突然訪れた静寂に疑問符が浮かぶが、先ほどまで響いていた下衆な笑い声が途絶えているということはこれ以上の受難はまぬがれたようだ。少しだけ息をついたシーザーの体に何かが触れる。それがひとの手だと気づいたシーザーは途端に体をこわばらせた。

「シーザーちゃん、寝ちゃったの? おめーの王子様が助けに来てやったぜ」
「……なっ、ん……」

 次いで聞こえたのは間違えようもない、ジョセフの飄々とした声だった。反射的に身を起こそうとするが縛られた体ではそれもできない。鼻歌を口ずさむ男に戒めをほどかれてやっとシーザーは自由になった。
 どこが痛むとはっきり言えないほど傷ついた体をやさしく抱き起こされ、脱力したシーザーの体がふらふらと傾く。拘束された形で固まった両腕をさすられるだけでじわりと涙が浮かんだ。自分はこの男に助けられたのだ。嬉しさと同時に悔しさと情けなさ、それに羞恥を覚えた。こんなみっともないところは、彼にだけは知られたくなかったのに。正面から抱きとめる男に向かって重たい唇を動かした。

「……んで……、……ここ……」
「おしゃべりはあとでな。じっとしてろよ」

 当然だろう疑問は言い切る前に軽くいなされた。思うように動かない舌を諦め、ジョセフの言葉に従ってされるがままになる。自然とまぶたが落ちた。

 ――殺されると思った。相手はきっとそのつもりだっただろう。怨恨が動機なのだから、ひと思いに楽にするのではなくじわじわとなぶる魂胆だったに違いない。思えば、あいつらは刃物のたぐいを持っていなかった。ひたすらにシーザーを痛めつけることが目的で、あっさりと死なれてはむしろ困るといったところか。そうして獲物をいたぶるうちにジョセフが現れ、シーザーを救ってくれたのだ。――なぜ、どうやって?

 途切れ途切れの思考がそこまで辿ったところで疑問に突き当たった。浮かんだそれがはっきりとした形をとる前に別の違和感が胸をノックする。今しがたまでむちゃくちゃな暴行を受け、体を突き破るほどの痛みに苛まれていたはずなのに、気づけばその大部分が消えていた。あまりの苦痛に脳が麻痺したのかとも思ったが、わずかに指を動かした途端に皮膚が切れていたらしい些細な痛みが走る。生きている証とも言えるその小さな刺激を受け取る余裕があるのだから、彼の頭はまだイカレていないらしい。まさか天国に来たわけではないだろうと思いながら下ろしたまぶたをゆっくりと持ち上げた。

 もちろん目の前に花の咲き乱れる草原が広がっているわけもなく、目を閉じる前と同じように冷えた路上で抱きかかえられているだけだ。服の濡れた感触に手を伸ばせば、朝日を受けて指先に赤い液体がまとわりつく。関節が外れただろうと思っていた肩が動いたことと、脇腹からの出血が止まっていることにシーザーは二重の驚きを受けた。
 先ほどまでのできごとが嘘かのように軽く動く体に思わずまたたきを繰り返すが、手の先に残る血液は間違いなくシーザーを構成していた一部だ。改めて、自身に抱きつくように座り込むジョセフを見上げる。これほど密着して見上げる大男はまるでシーザーを庇護しているかのような錯覚を起こさせた。

 シーザーの頭を抱え込み、両手を彼の背中に回すジョセフの格好は人型の拘束具のようだ。肌を揺らして伝わる心音も、背中から感じる手のひらの温度も幼いころの記憶を思わせる。故郷を離れてからというもの、ひとの体温にやすらいだことはなかった。言うべき言葉を見つけられないシーザーの視線に気づいたのか、ジョセフの鮮やかな瞳がこちらを向く。こわばった表情がわずかに目尻を下げるのに奇妙な既視感を抱いた。

 ジョセフの手が背を離れ、二人の体の間に隙間ができたかと思うと入り込んだ右手がシーザーの胸をするすると撫でる。左胸のあたりで止まったそれを視線だけで問えば空いた手で頭を撫でられた。シーザーの意図が伝わっているのかは疑問だが、今は唇を動かすのだって億劫だった。血と一緒に気力も流れてしまったのではないかと思える。されるがままに体重をあずけていると、胸に置かれたジョセフの手がわずかに光ったような気がした。

「――、な……?」

 細い路地にも太陽の光が差し込み、さきほどまで閉ざしていた視界ではいささかまぶしい。それでも見間違いではないはずだ。手のひらを中心に小さな稲光のような筋が瞬間に生まれ、まばたきする前に消えた。まるでその光がシーザーの体に沈み込んだように、手のひらの当たる場所がぴりぴりと痺れる。それは不快なうずきではなく、たとえるなら生命エネルギーがはじけるようなこころよい刺激だった。
 同時に、肩口の皮膚が裂けた痛みを感じなくなっていることに気づく。視線を落として自分の体を眺め回したシーザーはジョセフを問いただすために勢いよく頭を上げた。

「……ッ、ぅ……」
「あーほら、動くなっての」

 それだけの動きで一瞬意識が遠くなり、自分を支えるたくましい体に倒れ込む。一時的な貧血症状に陥っているのだろう、あれだけ血を流したのだから当然だ。鼻先に乾いた服の感触と、それから濡れたものを感じてシーザーはまぶたを持ち上げた。かろうじて認められる視界ににじむのはジョセフの体から流れる血だ。その事実に一気に頭が冷える。
 シーザーがこうして路地裏でリンチにあうのは今までの行いが招いたのだから恨むべきは己だが、ジョセフにはなんの咎もない。シーザーを助けるために彼が怪我を負ったのだとしたら、シーザーが傷つけたのも同然だった。

「お前、怪我して……!」
「ん? こんなもんかすっただけだっての。シーザーのほうがよっぽど重傷だぜ」
「そうじゃあない! おれはいい、でもお前は……」
「るせえなあ、怪我人は黙ってろよ」

 短気にそう言ったジョセフの手がシーザーの唇に触れる。それだけでなぜかとてつもない睡魔に襲われてシーザーはとっさにもがいた。その抵抗もなんなく封じ込めたジョセフが彼の体を横抱きにして立ち上がる。女子供にするような格好は恥ずかしいばかりだが、それに不平を言えるだけの体力も気力も残っていなかった。
 聞きたいことはいくらでもある。どうやってここを嗅ぎつけたのか、触れられているだけで痛みが消える気がするのはなんなのか、どうしてシーザーを助けてくれるのか。それらを口にすることもできないまま意識だけがぬかるみの底に沈んでいく。見上げる視界に黒髪が透け、鮮烈な光を浴びて立つ姿は作り話のヒーローのようだと思わずにはいられなかった。



 それからというもの、シーザーとジョセフは急速に接近した。
 とはいえ、まともな生活を送っているはずのジョセフがこんな怪しげな界隈を出歩くのは日中だけで、日が落ちる前にシーザーが追い出してしまう。ジョセフは毎度それに不満げな顔をするが、シーザーは頑として譲らなかった。命の恩人である彼を危険な目にあわせるわけにはいかない。その一方で顔を見ないとそわそわしてしまうのだから、理に合わないことを言っていると自覚していた。

 貧民街で暮らすものはたいてい、日のあるうちは悪徳警官に見つからないよう身をひそめている。犯罪でしか日銭を稼げない身にとって太陽はわずらわしいものでしかなかった。一人でうずくまるだけのシーザーの時間はジョセフによって書き換えられ、二人で物陰に隠れて小声でやりとりするのが日常になる。はじめは並んで座るだけだったのが、日に日にその距離が縮まり今では彼の膝の上がシーザーの定位置になっていた。自分よりも大きな相手にすっぽり包まれる安心感に泣きそうになる。ジョセフには言えないが、背中から感じる体温に遠い日の父を重ねた。

「それで、なんであのとき傷がすぐに治ったんだ。後遺症もないなんて、どう考えてもおかしいだろう」
「んー……そうだな、実はぼくちゃん魔法使いでしたァン! なんちゃっ、イテっ!」
「ごまかすんじゃあない!」

 あぐらをかいた長い足の間におさまったまま、後ろの巨体を殴りつける。シーザーが殺されかけたあの日のできごとはいくつもの謎が重なっていた。そのすべてを解き明かせるはずのジョセフははぐらかしてばかりで、あれから2週間近く経つというのになにひとつ肝心なことを教えてもらっていない。


 あのときは眠っている間に体の傷がほとんどふさがり、清潔な布で体を清められているころにやっと目を覚ませた。短い間に頬の腫れすらみごとに消えうせていたのだから人智を超えているとしか言いようがない。破れた服やわずかに残る傷跡を見てはじめて、それまでのできごとが夢でないと思えたほどだ。

「――助けられなくてごめん。もっと早く、見つけられてたら……」
「……? なに言ってるんだ、おれはお前に助けられたのに」

 いつもの飄々とした仮面はどこに落としてきたのか、悲痛な面持ちでシーザーの傷口を撫でるジョセフに怪訝な声音を返した。ジョセフに助けられたと思っているシーザーには彼の言葉は納得できない。そのころにはいつもどおり会話ができるほどには回復していた。

「そうじゃあねえ。おれは……」

 言いかけたきり押し黙るジョセフを見上げれば、シーザーを横たわらせた隣でその瞳が潤んでいた。大男の浮かべる涙にぎょっとする思いだったが、それよりも心配がまさって血に汚れた手を伸ばす。無意識のその行動を自覚して慌てて引っ込めようとしたところを見計らったように手をとられ、手のひらに厚い唇の感触を知った。祈るように瞑目したジョセフの目尻から小さな光が流れるのを見た覚えがある。

 するすると昇る日を知らないように、シーザーとジョセフが並ぶ空間は薄暗かった。万一のために身を隠せる場所を選んだのだろうが、静寂に閉ざされた中で自分の鼓動がやけに大きく聞こえる気がする。再び開かれたジョセフの瞳は常と変わらぬ色で、シーザーはそのことに安堵する自身を見いだした。

「……ここ、あとが残るかもな」

 傷の具合を確かめるようにシーザーの体を検分していたジョセフの手がふと止まる。彼の左手が示すのはシーザーの右足、内ももの付け根に近い部分だ。どんな風にしてその傷がついたのかもうわからないが、見れば確かに服が切れて皮膚が裂けたあとがある。肌に残る血は流れ続けるものではなく、乾きかけてこびりついたものだった。
 体にあとが残ろうが構わない、それよりもジョセフが触れるだけで傷が癒える理由を問いただそうとして開きかけたシーザーの唇はその途中で動きを止めた。右膝が持ち上げられ、件の傷あとのところにジョセフが顔を寄せる。露出した皮膚に濡れた感触が這い、シーザーは思わず体を震わせた。

「……ってめえ、なにしてやがる!」
「なにって、消毒だぜ? シーザーちゃんたら何考えてるのォ〜?」

 ジョセフの信じられない行動に、シーザーは両手足を振り回して抗議を示すが彼は笑うばかりだった。えっち、とふざける声にからかわれているだけだとわかっていても勝手に顔が熱くなる。内ももにキスしながら上目遣いで見上げるジョセフの姿を今でも思い出せた。


「……お前は恩人だ。おれにできることならなんでもしたい」

 ジョセフに窮地を救われて2週間近く、毎日繰り返す言葉を今日も口にする。傷を治した不思議な力を教えてもらえないのならそれでもいい。しかしシーザーの性分として、受けた恩は必ずどこかで返したいと強く考えていた。シーザーの命を救った彼に対してできることなどたかが知れているだろうが、なんとかして礼を尽くしたいと思っている。それなのにジョセフはいつも困ったように視線をめぐらせ、あいまいな言葉で濁すのだ。

「あー…………まあ、気持ちだけ受け取っておくぜ」
「それじゃあおれが嫌なんだ。なにかほしいもの……は無理かもしれないが、おれは」

 体のいい言葉で逃げるジョセフを振り返って言い募れば人差し指で続く言葉を封じられる。子ども扱いされていると思う一方で、ジョセフの体温のほうがよっぽど子どもっぽいのがおかしかった。

「なんでもするなんて、簡単に言わない方がいいぜ。悪い大人に騙されちまう」
「お前は悪い大人じゃあないだろう。……それに」

 諭すような口調に、唇に乗せられた指を振り払って答える。「お前になら騙されてもいい」と続ける言葉はさすがに恥ずかしく思えて語尾が消えた。それでも密着した距離で耳にしたらしいジョセフがなにごとか呻くのが聞こえる。早口のそれを聞き返したかったが、黒髪の間からのぞく彼の耳が赤くなっているのに気を取られてついタイミングを逃してしまった。

「……オメーが恩返ししたいって思うのは嬉しいけどよ、本当に、いいんだ。見返りがほしかったわけじゃねえし、こうしてちゃんとシーザーが生きてくれてるだけでおれは嬉しい」
「…………だが……」

 それではシーザーの気がすまないのだ。ジョセフがもたらす優しさは確かにシーザーを喜ばせるが、同じくらい自分も彼を幸せにしたい。かといってその方法も思いつかないシーザーはジョセフに抱きかかえられながらそっと視線を落とした。