そういうミステリー・解決編
ジョセフは一人、自室で難しい顔をしていた。
兄弟子と抱き合ってしまった翌日である。ゆうべ、赤い顔をして肌をびっしょりと汗で濡らすシーザーに手を伸ばしたのは純粋に彼を心配する気持ちからだったのだが、結果としてとんでもないことになってしまった。体力を使いきるまでどろどろのセックスにふけり、おかげで今日の修行は惨憺たるものだった。呼吸矯正マスクを外していた罰としていつもの倍の距離の遠泳を課され、ただでさえ疲れきった体はばらばらになりそうなほどの疲労を訴えている。しかし、今のジョセフには肉体の叫びを気にするだけの余裕はない。彼の頭を占めるのはただ、シーザーに触れていた数時間だ。
実のところ、初めてのセックスだった。男相手に童貞を卒業した、と明確に言葉にすると思わず頭を抱えて「オーノー!」と叫びたくなる。いやいやノーカンだ、行き過ぎた自慰みたいなもんだし、と薄っぺらい自己弁護を並べても、あのとき確かに興奮していたという事実の前では簡単に吹き飛ばされた。
男が乱れる姿に興奮したなどとは認めたくないが、そうでなければ性交は成立しない。なんでか妙にかわいげがある気がしたんだ、と昨晩の記憶をリプレイしたジョセフは性器に触れる濡れた感触を思い出し、背筋をゾクゾクしたものが駆け抜けるのを感じた。ハッとして己の下腹部を見やれば、覚えのある熱は凝り、下着の下でゆるく形を成そうとしている。
(……いやいや、おれはかわいい女の子が好きなんだ、女の子が好きなんだ)
アイデンティティの危機を感じたジョセフはそれ以上の追及を避け、言い聞かせるように胸中で繰り返しながらベッドに転がった。
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「……惚れ薬ィ?」
その翌日、非日常な単語にジョセフの眉が上がる。イギリスの淑女たるエリナからまじないのたぐいを教わったこともあったが、ドライな思考をしているジョセフはまともに取り合ったことはない。そもそも、孫に言い聞かせる彼女とてそれらを芯から信じていたかどうかはわかりかねた。
ジョセフがくだらねえぜ、と吐き捨てなかったのは正面のリサリサが真面目な表情をしていたからである。もっとも、彼女がその表情を変えるところなど一度も見たことはないのだが。明らかにいぶかしむジョセフの声音にも構わず、リサリサの形のよい唇が開いた。
「正確には向精神薬の一種です。それを飲むと精神が高揚し、ささいな出来事にも感激してしまう。あくまで、修行者の不安を一時的に取り除くために用意していました」
「……要は、なんだか世の中ハッピーに思えて惚れっぽくなる薬ってか。なァんかそれ、ヤバイお薬なんじゃねえの」
「合法です。今のところは」
顔色も変えずにそう言って煙を吐く師の横顔はしたたかだった。釈然としない思いを抱えながらも、ジョセフは海にせり出したテラスの柵にもたれかかる。午前中だというのにあたりは暗く、厚い雲が海面に影を作っていた。
「……で、なんでそんなもんをシーザーが飲んだわけ」
半眼で問いかけるジョセフにリサリサはサングラスの向こうから一瞥を投げた。今しがた彼が師に聞かされたのは、シーザーが惚れ薬を飲んだという断片的な情報だけである。当然の疑問を抱く彼は、「一昨日、彼が心拍数を上げる薬を飲んでいたことを覚えているでしょう」という言葉に一瞬肩を揺らした。彼女に言われ、ごく近い記憶が蘇る。は、は、と浅い息を繰り返す彼の甘ったるい声、上気してしっとりと濡れた肌、ジョセフを飲み込む熱い粘膜。一瞬に脳内を駆け巡る映像と感覚を追い払って、つとめて冷静を装った。
「……あー、覚えてるぜ。シーザー、すげえつらそうだった」
「あの薬が体に残っていると毒なので解毒剤を飲ませようとしたのですが、薬を取り違えました」
煙草を片手にさらりと告げるリサリサにジョセフは言う言葉をなくした。取り違えて惚れ薬を飲ませたって、どういう。あまりにもお粗末な原因に呆れて天を仰ぐ彼に構わず、リサリサの言葉が続く。
「ですから、ジョジョ。今日、シーザーには本島に行ってもらいますが、あなたはそれに同行してください」
「……はあ!? なんでだよ、薬でおかしくなっちまってる奴をわざわざ人の多い本島に出すことねえだろ」
異議を唱えるジョセフに答えず、リサリサは彼の後ろの空を見やる。彼女が無駄な行動をとらないことをわかっているジョセフはつられて振り向いた。鈍色の空がどこまでも続き、どんよりと垂れ下がった雲が海を覆っている。朝食の用意をしながらスージーQが、嵐が来そうなの、と言っていたことを思い出した。
「今夜は荒れるでしょう。船が出せるうちに、ヴェネチアまで必需品を買い出しに行かなくてはならない。シーザー一人に行ってもらおうと思っていましたが、そういうわけにもいかなくなりました」
「……いやいや、買い出しならおれ一人でも出来るぜ? それに、どうせ修行が休みなら師範代のどっちかにでも……」
「ロギンズとメッシーナには嵐に備えて館の補強をしてもらいます。あなたがヴェネチアの複雑な地理を把握しているとは思いません」
実に明快に切り捨てられ、ジョセフはもう何も言えなかった。嵐に備えて買いだめしておくというのなら荷物運びの人手は必要だろうし、館の補修なら彼らよりも長く起居している師範代二人の方が適任である。リサリサの言葉をなんとか覆そうとするジョセフに、彼女は簡単に言った。
「あなたはシーザーについて、彼を連れ帰ってくるだけです。それくらい出来るでしょう」
「連れ帰ってくるって、あいつがそこらのシニョリーナに惚れちまったらどうすんのよ? 行かせない方がよっぽどいいんじゃねえの」
「問題ありません。薬の効果は半日も続きませんから、たとえ恋心を抱いたところで今晩には忘れているでしょう」
だから本島で誰に惚れても関係ない、連れ帰ってさえくればいいのだと言われてジョセフは開きかけた口を閉じる。シーザーを本島に行かせないための口実を一瞬に考えるが、リサリサの透徹な視線の前では自慢の脳細胞も萎縮してしまうようだった。焦ってなにごとか考えるジョセフにリサリサは「それに、彼がどんな恋愛をしようと自由のはずです。なにをむきになっているのですか、ジョジョ」と冷たく言う。それすらとっさに言い返せなくてたじろいだ。
「では、頼みましたよ」とだけ言ってリサリサは用は済んだとばかりに歩き出す。扉の向こうに消える姿を見送りながら、ジョセフは一人顎を撫でた。むきになっていると指摘されたとおり、惚れっぽくなっている状態だというシーザーを人前に出すのには非常に抵抗がある。なぜかと考えてみるが、おかしな薬を飲まされて平常心を失ってる奴をヴェネチアに連れだそうとする方がおかしい、どう考えてもリサリサの言うことはめちゃめちゃだと結論づけて自分を納得させた。
こんな場面ではシーザーを気遣うのが当然のはずだと胸中で彼女を非難しながらもう一度空を仰ぐ。嵐さえ去ってくれればシーザーを館に置いておけるのに、と願ってみても空は不穏な空気を漂わせるだけだった。
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ジョセフの言葉が師に通じないのは痛感した。本人の口から願い出ればリサリサも考え直すかもしれない、と思いとにかくシーザーの部屋に向かう。思えば彼を抱いて以来、まともに言葉をかわすのは初めてだ。
部屋の前で一瞬逡巡に沈んだジョセフだったが、昨日の修行や食事の最中にも露骨に避けられる態度は取られていなかったことを思い出して己を勇気づける。嫌われたとかそういうわけではなく、お互いに気恥ずかしくて普段の調子を保つのが難しかっただけだ。数日前のように気の置けない関係に戻りたいと思っていたところであったし、いい機会だと言い聞かせる。ふとしたときに反芻してしまうシーザーの痴態をつとめて振り払って、すう、と一度息を吸ってから扉をノックした。
そのノックの返事も待たずに「シーザーちゃあん? おれだけど」と扉を開けたジョセフは、目に入った光景にそのまま動きを止めた。
「……ジョジョか」
そう言うシーザーの目元は、いつも彼がまとっている幾何学模様のバンダナで覆われている。そんな状態では来訪者の姿を見ることもできず、声だけで見当をつけたらしかった。目隠しをしてベッドの上に座るシーザーに倒錯的ななにかを見出し、血の巡りが早くなるのを感じる。振り払ったはずのあられもないシーザーの姿が鮮やかに再生されそうで、そんな思考を打ち消すようにジョセフはわざとふざけた声を出した。
「――なァにシーザーちゃん、SM趣味でもあったわけェ」
「言ってろ。……先生から聞いたのか」
「ンー、お前が惚れ薬飲まされたって話?」
存外いつも通りに弾む会話に安心して、部屋を進んで彼の隣に腰掛けようとすると「来るなっ!」と叫ばれた。あからさまな拒絶にジョセフが面食らっていると、「……聞いたならわかってるだろ。あまり、近づくな」と押し殺した声が続く。フル回転を始めたジョセフの頭はすぐにその意味を解し、ああ、と小さく手を打った。
「今はちょっとしたことにも感じやすくなってるんだもんな。目隠ししてんのもそういうわけ?」
「そうだ。できるだけ刺激を断った方が安全だと聞いた」
確かに、効果が一時的である以上、薬が抜けるまで何もせずにやり過ごしているのが最も簡単である。納得しながら同時にジョセフは心配にもなった。視界を遮断してまで外からの刺激を断つとは念がいっていて、彼がどれほど敏感になっているのか不安になる。リサリサは向精神剤だとだけ言っていたが、よほど強力なものなのだろうか。彼の言いつけ通り、シーザーから2歩ほど離れたところからジョセフは聞いた。
「おめーも災難だよなァ。そんなんじゃ、本島に行くなんて無理じゃねえの?」
「買い出しは行く。先生がおれに任せてくださったんだ、期待にそむくわけにはいかない」
きっぱりと答えるシーザーにジョセフはやっぱりなあ、と半ば予想していたため息をついた。生活用品を買ってくるだけのおつかいだが、リサリサに命じられたというそれだけで彼にとっては揺るがない使命となりうる。お前だから任せたとかそういうことじゃないと思うぜ、と言ってみたくなるが、さしあたり誰かが買い出しに行かなくてはリサリサを含め館の住人みなが困るわけで、奉仕精神にあふれたシーザーとしては多少の不調くらいで自分一人横になっているなど耐えがたいのだろう。そういう彼の性格もすでに理解してしまっているジョセフは頭を掻いた。
「……あー、しかたねえなあ。リサリサにも言われたし、その買い出しについてってやるよ」
「先生に?」
「そ。お前がどこぞのシニョリーナのところにしけ込んで、帰ってこなくなったら困るからな」
「……心外だな。修業中の身でそんなことはしない」
「どうだか。その目隠ししてなきゃ誰かれかまわず惚れちまうんだろ?」
言ったジョセフはシーザーが自分の頭に手を回し、バンダナの戒めをほどこうとしているのを見てぎょっと目を瞠った。なにか言う間もなくわずかな動作で結び目は解かれ、小さな衣擦れの音とともにあわいグリーンの瞳が姿を見せる。その顔色は平素と変わらず、怪しげな薬を飲んだなどとは到底思えなかった。確かにジョセフを捉えてまばたきするそのまつげをじっと見ながら、おそるおそるジョセフは言った。
「……エート、惚れた?」
「アホか、スカタン」
短い言葉のうちに二度も罵られた。どこか納得のいかない顔をしているジョセフだったが、「先生からどんな風に聞いたか知らないが、目が合うだけで惚れるような薬があったら大儲けできるだろ。目隠ししてたのは保険だ、保険」と言われてそんなもんかと思い直した。バンダナを額に巻き直したシーザーはベッドから立ち上がって鏡の前で髪型を気にしている。布で視界を塞がれた彼はなんだかいやらしく見えたが、やはりきれいなペリドットの瞳が見えている方がいい。顔だけはいいんだよなこいつ、と兄弟子の背中を見ながらジョセフは考えた。
「ほら、天気が崩れる前に行くぞ」
「へーい」
急に張り切った様子のシーザーに促され、ドアに近いジョセフがノブを動かして部屋を出る。いつも通りに振る舞う彼はあの夜、自分の下で喘いでいたことを忘れているようで、少しだけジョセフの胸が痛む。なかったことにしようと言われている気がして、シーザーにとってあれがどういう意味を持つのか知りたいと思った。そんな思考をつとめて振り払い、長い廊下を並んで進む。これでいい、妙に意識して元通りの関係に戻れないくらいなら忘れたほうがいいのだと自分に言い聞かせた。
「荷物持ちは頼んだぜ、ジョジョ」「いやいや、せめて半分こしようぜ?」といつも通りに軽い調子の会話を交わしながら二人は館を出た。薬を飲んだと聞かされた割にあくまで平静な様子のシーザーだったが、水面まで続く階段を下りながら空模様を見上げた拍子にすこしだけ平衡を崩す。とっさにジョセフが腕を掴んだおかげで事なきを得たが、彼を支えながらジョセフは冷や汗が噴き出すのを感じた。
脳裏に蘇るのは速い鼓動に息を乱したシーザーの姿で、そういえばあのときも彼の肌に触れたことがスイッチになったのだった。ヴェネチアに向かう前から彼が変調をきたしていては目も当てられない、と危惧するジョセフだが、ほとんど密着するような距離のシーザーは顔色も変えない。「すまん、助かった」と言いながら体を離そうとするシーザーは、その腕を握ったままのジョセフを見ていぶかしげに眉を寄せる。視線の中の疑問の色を見てとったジョセフはその表情をいたずらっぽい笑みに変え、あくまで気やすく口にした。
「……どう、おれに惚れたりしなァい?」
言われてシーザーはぽかんと口を開け、それからそのジョークに楽しそうに笑った。するりとジョセフの手のひらから抜け出し、背を見せて階段を下りていく。途中で振り返り、数段だけ上に立つジョセフに言葉を投げた。
「男に惚れるわけねえだろ、スカタン」
「……そりゃそうだよな!」
きれいに笑ったシーザーの言葉がやけに胸に刺さって、その理由も見つからないまま二人の距離は大きくなる。顔の半分を覆うマスクのおかげで、ジョセフの苦い表情は彼には伝わらないだろう。それでよかった、と思った。
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ヴェネチアに着いてからが大変だった。もともと、一人で歩いている女性を見かけるとすぐに声をかけるシーザーだが、常ならばリサリサから言いつかった買い出しが済むまでは控えるくらいには弁えていた。だが、今日に限ってはそういったブレーキがないようで、片手に買い物リストを握ったままシニョリーナに声をかけている。二人連れでも見境なく口説くので、彼と一緒に行動するジョセフは大変いたたまれない思いをした。
おまけに、いつもなら如才なく女性を賛美する言葉を並べるのに、今日は歯の浮くような言葉の途中で不意に押し黙って相手を見つめたりするのでまるで本気で焦がれているように見える。跪いて女性の片手を取るシーザーは実に絵になり、そんな彼に熱っぽい視線を注がれる相手はたまらない。頬を染める女性と見つめ合うシーザーにわけもなく苛立って、買い出し途中の荷物を片手で抱えたままジョセフは彼の頭をひっぱたく。そんなことがこの数時間で七回あった。
「……おめーよう、どうにかなんねえの、それ」
「仕方ねえだろ。おれだっておかしくなってる自覚はあるが、どうしようもねえんだ」
一つのブロックでの買い出しを終え、入ったトラットリアで二人は向かい合いながら簡単な昼食をつつく。そんな間にもシーザーは視線が合ったウェイトレスに投げキッスを飛ばし、マスクを外されて喜んでいたはずのジョセフの機嫌は急激に降下した。じっとりした視線に気づいたのか、今さらのように一つ咳払いする。
「……薬のせいなんだろうが、こう、そわそわするようなというか、落ち着かない感じなんだ」
「ふーん、体に不調はねえの?」
「それ以外には特に感じないな。惚れっぽくなるというが、そういう感じもしないし」
言うシーザーは器用にパスタをフォークに巻きつけている。食べ方も気取ってるんだよなこいつ、と日頃食事のマナーを口やかましく注意されているジョセフは胸中で悪態をつくが、その洗練された姿は文句なしにきれいだった。ぼうっと彼の動きを見ていたジョセフは、聞き流しかけた今しがたの言葉にひっかかるものを感じてすこしだけ身を乗り出す。
「っておめー、あんだけ見境なく口説き回りながら誰にも惚れてねえの」
「……物には言いようがあるだろう、ジョジョ」
「見境ねえのは事実だろ。一目惚れしたから熱烈にアタックしてるんだと思ってたけど、そうじゃないわけ」
惚れっぽい状態だと聞いていたから、彼が常より派手に振る舞うのにも納得していたのだ。薬で精神状態がおかしくなっているシーザーには、道行く女性がみな美の女神のように見えるのだろうと思っていた。しかし本人が言うにはそうではないらしい。意外な事実にジョセフの好奇心がうずいた。
「……正直なところ、よくわからない」
「ン? なにが?」
「…………惚れる、とか……そういうのが、だ」
やけに歯切れ悪く告げられた言葉にジョセフの思考が止まる。片手に持ったままのピザのピースからずるりとトマトが落ちて、そのべちゃりという音にやっと硬直が解けた。それでも何も言えないままにまばたきだけを繰り返していると、シーザーの顔がじわじわと羞恥に染まっていく。「うそだろ?」とだけ声が出た。
「……嘘じゃあない。今まで、誰かを好きになったことはない」
「はああ? なーに言ってんのよシーザーちゃん、今までだってさんざんシニョリーナ口説いてただろ」
「あれは別に、恋愛感情を抱いたからじゃない。一人で寂しそうな女性を放っておけないだけだ」
言い訳がましく唇をとがらせるシーザーにジョセフは内心呆れた。
好ましく思っているわけでもない女性にも甘い言葉をかけるなんて不実な男だとなじることも出来るだろう。だが、彼の行動はなにかしらの打算によるものではない。道端で泣いている子供に駆け寄るのと同じように、陰影を表情にのせる女性を優しく慰めることはシーザーにとって当たり前のことなのだ。自身のためではなく、相手のためだけに時間と労力を割く彼はあまりにも自己犠牲の精神に溢れ、それゆえに自ら求めることがなかったのだろう。女性を口説いてばかりの友人にうんざりしていたジョセフは、やっと彼の奥底をすこしだけ覗けた気がした。
「……恋がわからない、ねえ。ひょっとしたら、気づかないうちにもう惚れちゃってるんでないのォ〜」
「経験がない以上、断言はできないが……たぶん、ないだろう」
「なんでよ。わかんねえだろ」
「惚れるってのは、その女性だけが特別に見えるんだろ? おれには街中のシニョリーナが等しく輝いて見えるな」
言ってシーザーは奥のテーブルに座る女性にウインクを飛ばした。その様子にジョセフは諦めたように肩を落とす。とにかく女性を放っておけないこの男が恋を知らないとは意外な気がしたが、このさまを見ていればなんとなく腑にも落ちる。
つまり彼は女性に対して異常なほど博愛主義で、順列をつけることなど出来ないのだろう。惚れ薬の効能をもってしても揺るがないその主義は石頭な彼の側面を表しているようで、軟派に見えてその根はどこまでも真面目なシーザーをまだつかみきれずにいる。人の考えを読むのは得意なジョセフだが、この兄弟子といるとなんだかその自信をなくしてしまいそうだった。
「心底惚れてるんだろうとそうでなかろうと、おめーがその調子だと買い出しも終わらねえんだよなァ」
「……すまないと思っている。弁解するようだが、体が勝手に動くんだ」
全自動スケコマシマシーン、と思ったことをそのまま口にすれば殴られそうで遠慮しておく。先に食事を終えたジョセフは相変わらずきれいに食べるシーザーを正面にしばし考えこんで、突然勢いよく立ち上がった。水の入ったグラスが一瞬傾ぎ、粗野な振る舞いに文句を言おうとした彼が口を開く前に「ちょっとおれ出てくるわ、すぐ戻るからさ!」とだけ言ってジョセフは店の出口に向かい駆け出す。振り向きざまに「おれのいない間にコマシてんなよ!」と声を投げるとシーザーの眉間にシワが寄った。
そうして慌ただしく店を出たジョセフは同じように騒がしく戻ってきた。ちょうど食べ終えたシーザーが口元を拭っていると視界に派手なマフラーが入り、先程までは持っていなかったはずの小さな紙袋を手にしたジョセフが立っていた。彼にマスクをはめてやりながら「どうしたんだ、それ」とシーザーが問うとニヒ、と笑みが返る。会計を済ませて二人が店を出たところで、その袋の中身が取り出された。
「じゃーん、メガネ!」
「……意味がわからん」
いたずらを思いついたときのような笑みを浮かべるジョセフにやや警戒してシーザーは半歩身を引いた。そんな反応に気後れするジョセフではなく、体格で勝ることを利用して乱暴にメガネをかけさせてしまう。「っ、うわ、やめろジョジョ!」とシーザーの大声が響いて、路上でもみ合う大男二人にヴェネチア市民の視線が刺さった。満足したようにジョセフが手を離すと、無理やりかけさせられたメガネにシーザーの視界が歪む。明らかに度が合わない矯正具に一瞬目が回った。
「シーザー、大丈夫か?」
「……わけのわからんやつだな。なんだこのメガネは」
「そこで買った。見本のをそのまんま貰ってきたから、乱視がちょっと入ってるって」
「なんでそんなものおれにかけさせるんだ」
ため息とともにシーザーが問うと、ジョセフは実に真面目な口ぶりで「それかけてりゃナンパもできねえだろ」と答えた。「シニョリーナのお顔が見えなきゃさすがに口説けねえだろ? おめーが女の子に声かけてばっかいるから買い出しが終わんねえんだ、反省してそのメガネ外すなよ」と続けられては、自身の行動を申し訳なく思っているシーザーが抗せるはずもない。乱視ではないシーザーは、そのレンズ越しでは焦点を合わせるだけでも苦労する。確かにこの状態では女性に声をかける気も起きないと思い、すぐにでもメガネを外したいのを諦めて疲れないように下を向いた。
一方のジョセフは内心まずったと舌打ちしていた。女の子を見かけては飛んでいくシーザーにうんざりしながら街中ではバンダナで目隠しをさせるわけにもいかず、どうしたものかと考えあぐねていたところにメガネ屋の看板が見えてこれだと思った。少しばかり度の合わないメガネをかけさせれば細かいところには目が行かず、それでいて視界が遮られているわけではないからそれほど危険はない。名案だと思ったのだが、誤算はシーザーの容姿にあった。
黙っていれば冷たい印象を与えかねないほどに整ったシーザーの顔にメガネというパーツが加わることでその印象が和らぎ、新たに生まれた陰影が白い肌を浮き立たせる。透明なレンズ越しでも透き通った瞳の色はあせず、むしろ合わない焦点に目を伏せることが多くなったために、不意に覗くペリドットにはそれだけで見とれるほどの力があった。シーザーが自分から声をかけることはなくなったかもしれないが、これでは道行く女性たちの方が放っておかないかもしれない。さっそく、通りの反対側で若い女性が彼を見つめて頬を赤くしているのを見つけてジョセフは前途多難だぜと額に手を当てた。
「ったく、早いとこ買い出しを済ませるしかねえな。シーザー、歩けるか?」
「う……その、手を貸してくれないか」
原因は彼にあるとはいえシーザーに負担をかけているという自覚はあるので、乞われるままにジョセフはその手を握った。片手に荷物を抱え、もう片方の手ではシーザーの手を引いて、気分は子供を連れる主婦だ。そのまま軽く引っ張って歩き出そうとするが、触れた指先がもぞもぞと動くのに気がついて立ち止まる。どうしたのよ、と聞くとちょっとな、と答えが返った。
「こう……今まで手をつなぐときはいつも指を絡めていたから、違和感が」
「うっわ、このスケコマシ……じゃあ、おれともそうしちゃう〜?」
女性としか手をつないだ経験がない、と言外に言われてジョセフの眉が寄る。あいまいにぼやけたシーザーの視界ではきっと見えなかっただろう。冗談のようなジョセフの提案にシーザーの手が動いて、するりと指を絡められた。まさか実行されると思っていなかったジョセフは表情を驚きに凍らせるが、シーザーは気にした様子もない。目がよく見えていない状態では自分がどう見られているかも気にならなくなるわけで、慣れないメガネによってシーザーの羞恥心は吹き飛ばされたようだった。
「どうした、ジョジョ。嵐が来てはかなわん、早く行こうぜ」
「……おう」
大の男が二人で恋人繋ぎで歩いていれば奇異の視線にも晒される。周囲から刺さる視線に一人気づかず笑うシーザーの体温を手のひらからじんわりと感じて、ジョセフはもう一度前途多難だぜ、と胸中で呟いた。