そういうミステリー

 「シーザー、強くなりたいか」とメッシーナの言葉に、言われた本人は一度まばたきした。修行の合間の休息である昼食を終え、午後の鍛錬に向かおうとしていたところである。あまりといえばあまりに自明な問いかけに逆に戸惑いを抱きつつ「もちろんだ」と答える。「いい返事だ」と大きく頷く師範代にいぶかしげな視線を向けつつも、大人しく次の言葉を待った。
 シーザーの見つめる先でメッシーナはどこに仕込んであったものか、ガラスでできた小瓶を取り出した。瓶を傾けるととろりと流れるその液体は、修行に用いる油とも違って見える。

「肉体に負担を加えることで修行の効果は上がる。それは知っているな」
「ああ。おかげでおれもジョジョもずいぶん強くなった」

 答えながらシーザーは今までの修行を思い返す。重りを背負って遠泳したり、師範代を担いだままマラソンしたり。そもそもかつてシーザーが身に着け、今はジョセフの口元を覆う鋼鉄のマスクだって負荷の一つだった。
自分の意志ではどうにもできない重荷が加われば当然体を自由に動かすことは難しくなり、より効果的な鍛錬となる。無茶なやり方にいまだにジョセフは文句を言うが、強くなる近道であることを知っているシーザーは諾々と受け入れていた。うむ、と頷いたメッシーナはその小瓶をシーザーの手の中に落とす。淡い緑がかったガラス瓶の中で、その液体は薄紫に見えた。

「午後の修行の前にこれを飲め。なに、毒ではない」
「……どういう効果があるんだ?」

 簡潔に指示する師範代にシーザーは問いを投げた。彼に危害を加えるつもりはないと分かっていても、得体の知れないものを己の体内に取り込むのにはやや抵抗がある。
メッシーナもそれをわかっているのだろう、「その薬は心臓の動きを活発にし、動悸を促進させる。それを飲んでも呼吸を乱さずにいるだけで修行になるだろう」と説明した。その言葉に納得して、シーザーは素直に栓を開ける。薬くさい匂いに反して、味はしなかった。
 その小瓶はジョセフには渡していないらしい。その理由を聞けば、「マスクを着けてそれを飲ませたら、そのまま死にかねん」と師範代は笑う。まだ未熟なあいつのためにもおれが強くならなくては、とシーザーは拳を固めた。


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 端的に言って、薬の効果は絶大だった。シーザーがそれを飲んでから数分もしないうちに音が耳につくほど動悸が激しくなり、立っているだけで汗が出る。巡る血液の速さに呼吸が浅くなり、は、は、と短い息を吐くしかない。当然その状態で波紋の呼吸を整えるためには多大な集中が必要で、普段なら軽くこなせるはずの修行メニューでも体力を激しく消耗し、膝をつく場面も何度かあった。なによりこみ上げる不快感が厄介で、それは波紋の呼吸を練ることでようやくわずかにやわらぐ。波紋修行用の特製品だ、と師範代は笑っていた。
 それでも己の意地からリタイアすることなく一日分の修行を終え、「ありがとうございました」と二人の師範代に頭を下げる。そのまま地面に横たわりたいのを叱咤して、のろのろと館に足を向けた。隣に並ぶジョセフが、自身もくたくただろうに「肩でも貸す?」と気づかうほどには疲弊して見えたらしい。それを軽く断るシーザーの体は、極度の疲労と充実感に満たされていた。


 館に戻ってスージーQの用意してくれた食事をとり、風呂で汚れを落としたシーザーは明かりも消さないままベッドに転がる。ほどなく訪れるであろう睡魔を期待してその瞼を閉じるが、しかし一向に眠れない。ごろりと体を動かしたはずみにツウ、と嫌な汗がこめかみをすべって、諦めて目を開いた。

 そうだ、無理に目を瞑ってみたところで眠れないのはわかっていた。なぜなら彼の体は昼に飲んだ薬に支配され、心臓がいまだどくどくと波打っている。早鐘を打つ鼓動に引きずられるように呼吸は浅く、火照る体はじっとりと発汗していた。
 修行であれだけ汗をかいたのだから薬の効果もほどなく切れるだろうと思っていたのだが、さすがに師範代が選んだものとあってそう単純なものでもないらしい。体を酷使したのだから早く眠らないと明日の修行に障る、とわかっているものの薬が抜けなければ眠ることもできない。もともと今日と明日、二日にわたって負荷をかけるつもりでこの薬が用意されたのではないか、と疑りながら立ちあがって部屋を出る。思い通りにならない体に足元がふらつくが、汗をかいたぶん喉が乾いていた。

 白っぽくちかちかする視界に違和感を覚える。ついでに顔を洗おうと洗面所の扉を開けると、驚いたような顔のジョセフと目が合った。簡単に食事をとってシャワーを浴びたシーザーとは違い、デザートと紅茶を要求していたジョセフは先ほど浴室を出たばかりのようで、跳ねまわる黒髪はしっとりと湿っている。歯を磨いたところらしく呼吸矯正マスクは作りつけの棚の上に置かれ、彼の手にはコップが握られていた。
 「あっれェ、シーザーちゃんもう寝たんじゃねえの」とジョセフに言われ「寝つけないんだ」と返す。コップの水で口をすすいだ彼を片手を振って追いやり、冷水で顔を洗えば速い鼓動は変わらないがすこしだけ気が晴れた。熱を持つ肌に触れる冷たさが気持ちいい。跳ねる呼吸を無視してタオルで水滴をぬぐいながらなんの気なしに視線を上げれば、鏡の中でジョセフと目が合う。

 普段なら視線が向けられていることにくらい気づくはずだが、気配を感じなかったことにシーザーは内心舌打ちした。身体の変調で周りに注意が払えなくなるのは未熟である証拠だ、あの薬を飲むだけで修行になるとは師範代の言葉は実に当を得ている。そんなことを一瞬に考えながら、鏡の中で見つめあう弟弟子に「なんだよ」と我ながらつっけんどんな声が出た。乱れる呼吸はとっくにばれてしまっているだろう。「いや?」と言いながらジョセフはシーザーの片腕を引き、彼の体を反転させる。向き合う形になったシーザーは、掴まれる腕の感触に息を詰めた。
 なんだ、と自身の体をいぶかしく思うが声に出すことはない。ごく近い距離にジョセフの深い緑の瞳があることに気づいて体をこわばらせるが、彼はそんなシーザーの態度に頓着せず手を伸ばした。

「シーザー、顔赤いぜ? 熱でもあるんじゃねえの」
「……ッ!」

 言いながら額に触れるジョセフの手の感触に、シーザーの背筋に電流が走った。ぞくぞくと駆け上がる感触に目を開くばかりで声が出ない。開いた唇を震わせるばかりで言葉を発しないシーザーを不審がったジョセフがすこしばかり身をかがめてその顔を覗き込むが、シーザーはそれどころではなかった。

 速い鼓動に送りだされた血液が体を巡り、確かに体温が高くなっている自覚はあった。現に、シャワーを浴びたばかりのジョセフの掌がすこしだけつめたく、心地よく感じる。なのに彼が触れたところから新たに熱が生まれてシーザーを追いつめるのだ。
 そういえば、今日の修行メニューに組み手はなかったから、あの薬を飲んでから誰かに触れられたことはない。速すぎる拍動に体が自分のものでないように思えるが、皮膚の感覚は鋭敏になっているらしい。触れられるだけの刺激なのにそれが快感となってシーザーの背中を這いまわる。ジョセフの掌が離れていくのが惜しくて、縋るように手を伸ばしたのは無意識だった。

 冷たく感じる体温が心地よく、握った彼の手を導いて自分の頬にすべらす。その手にほおずりするようなシーザーにジョセフは大きく目を見開いた。は、は、と吐き出される呼気は浅く、高い体温に肌は汗で湿っている。女が誘うようなその仕草に喉が動いた。

「おまえの、手、きもちい……」

 うっとりと目を細めるシーザーがそんな風に呟くのを聞いて、ああこいつは今正気を失っているのだと理解しながらも、ジョセフは彼の唇を奪わずにはいられなかった。


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 ベッドに転がって舌を絡ませあう。相手の呼吸を奪うことが目的なのではないかと思えるほどの激しいキスに音を上げたのは、変調をきたしているシーザーの方だった。覆いかぶさるジョセフの胸板を押せば、圧しかかる体が離れていく。まともに視線が合うとどうしようもなく気恥ずかしくなって、互いに視線をそらした。
 おかしい。シーザーは、ともに修行に励む仲間に欲情している自身を認めた。ほんの数時間前まで隣に並んでなんとも思っていなかった相手のはずなのに、今は彼の体温が狂おしいほど欲しい。ジョセフの体重を支えてシーツを深くへこませる彼の左手に触れると、シーザーの体を巡る熱がそこから逃げていくような気がした。その動きに頭上から声が落ちる。

「おめー、そういうシュミあったの」
「……ざけんな、んなわけねえだろ」

 男の手を握って安心するなんて、そんな趣味は持ち合わせていない。揶揄と分かっていながらも返した否定は、熱っぽく潤む瞳に説得力を奪われたかもしれなかった。急スピードで体内を循環する血液に押し出されて判断力が麻痺する。なんでこんなことしてるんだおれ、と疑問を呈す声が脳内に聞こえた気もするが、切迫する衝動に追い立てられて目の前の男にキスをねだった。

「お前こそ、薬も飲んでないのにやる気じゃねえか」

 そう言ってやればジョセフの視線が気まずげに揺れる。「そんなギラギラした目で見られちゃ、変な気になるってもんだろ」と言い訳するように唇をとがらせるから、なんだかおかしくなって思わず吹き出した。

「ってめ、誰のせいだと思ってんだ」
「ああ、悪いと思ってるよ。だが、もう収まりそうにねえんだ」

 シーザーは浮いたジョセフの右手を取り、自身の左胸にすべらせる。布と筋肉を通してもなお強く訴える拍動に、ジョセフの大きな目が開かれた。ばくばくと強く速く波打つ重低音をBGMに、シーザーはかすれた声でささやく。頭が重く、浅い呼吸が苦しい。この熱を吐き出す方法はひとつしかないと思えた。

「お前で、鎮めてくれよ……」

 露骨に誘う言葉にジョセフがどんな反応を返したのか知らない。シーザーは彼の肩口に顔を埋めて、この熱の発散を願った。