だって、君のせい
「シーザーちゃん、おれすげー波紋使えるようになったんだぜ」
と、言うジョセフの目はキラキラしている。
エア・サプレーナ島にやってきたその日から呼吸矯正マスクを着けさせられたジョセフは、食事と歯磨きの時以外その忌々しいマスクを外すことができない。修行や食事といった生活サイクルが同じであることから、自然とシーザーが彼のマスクの着脱係になっていた。マスクを付けたり外したりで日に数回は必然的に接近するわけだから、むさ苦しい師範代よりも清潔感のあるシーザーをジョセフが望んだところもある。
ジョセフとて波紋の呼吸の必要性は分かっている。一日でも早く強くなって、柱の男たちを打ち倒さなくてはならないのだ。そのためには多少荒っぽい修行だって甘んじて受けよう。頭では分かっていても、しかしマゾヒストではない彼は進んで苦痛を受け入れるほど忍耐強くもなかった。
そういうわけで、ジョセフはマスクを外していられる時間を1分でも長くできるよう、歯磨きを終えるとすばしこく逃げ回り、シーザーはそんな弟弟子を捕まえるため駆け回る。頭の回るジョセフを追いかけるのは易しいことではなく、たいていは夜更けてから彼のベッドの上という逃げ場のないところで無理やり押さえこんでマスクを着けさせるのがやっとだった。今日も今日とて遅い時間まで無駄に体力を使い、ジョセフの部屋に追いつめたところである。シーザーが後ろ手で扉の鍵をかけ、もう彼に逃げられる気づかいはない。
例によってベッドの上でくんずほぐれつ(色気のない)攻防を繰り広げていたところだった。「てめえ、いい加減に観念しやがれ!」と気の長くないシーザーが押しかかって黒く光るマスクをジョセフの顔に押し当てようとしたとき、ジョセフの瞳がきらめいて冒頭の発言に至る。
波紋、と聞いて手が止まるのはシーザーの生真面目さゆえである。ジョセフの大きな体に乗り上げ、呼吸矯正マスクをつけるまで数センチというところまで密着した状態でへえ、と鼻を鳴らした。そのままぐいと身を起こして、薄笑いを浮かべたままジョセフに言う。
「大見栄切って、どれほどのもんだかな。いいぜ、見ててやるからやってみせろよ」
「へっへーん、驚いて腰抜かすなよォ〜?」
得意げに笑ったジョセフは鼻先にマスクを押しつけられて焦ったように右手を振った。「なんだよ、見ててやるからまずマスク着けろ」「いやいやシーザーちゃん、そんなの着けてちゃできないような繊細な波紋なのよねン」というやり取りに、シーザーはこいつマスクを着けたくないばかりに適当なこと言ってるんじゃないだろうな、と視線の温度を下げる。それを察したジョセフが「今! 今やってみせるから!」と慌てた声を出した。
「で、その波紋のためにシーザーちゃん、ちょっと目閉じててくんない?」
「……お前、また逃げだす気じゃないのか」
「ちげーっての! ちぇ、そんなに心配ならおれの手でも握ってろよ」
シーザーが言うのは、自分が目を離した隙にジョセフが部屋を飛び出してまた逃げ回らないかということだ。そんなことになれば、歯磨きのあとマスクを嫌がるジョセフを追いかけた時間が無駄になる。逃亡の前科があるジョセフは、その懸念を打ち消すために右手を差し出してシーザーの左手を握った。ベッドの上で二人向かい合って座る形になって、これならいいか、と考えてシーザーは素直に目を閉じた。
シーザーのまっくらな視界に、波紋を練るとき特有の音が響く。きっと、閉じた瞼の向こうには太陽のきらめきが踊っているのだろう。空気の振動がごく近い距離に座るジョセフの呼吸を伝え、彼が目を閉じろと言った真意は分からないが、少なくとも真面目に波紋を披露するつもりらしい弟弟子に安堵した。そのとき。
唇にやわらかな、次いでパチパチと弾ける感覚。シーザーは瞬時に目を見開いた。
目をつぶっていても間違いない、唇に触れたのはジョセフのそれと、彼が練った波紋だ。
「あらン、目閉じててって言ったのに」
「っお前、今なにを……!」
言いかけてシーザーは再び驚愕に目を瞠った。マスクを掴んでいたはずの右手から力が抜け、ジョセフを殴ろうと思っていた左手も拳を形作れない。腰が抜けたような状態の自分の体が信じられず、まさか触れるだけのキスで体が反応したのか? とありえない考えが浮かんだ。だが、自身の意思に反して持ちあがる右腕に事実を思い知らされる。
ジョジョが仕掛けたのはなんだ? キスだ。キスと同時にもたらされたのはなんだ? 波紋だ。ジョジョと初めて出会ったとき、おれが披露したのはなんだ? ――キスの波紋だ。
導き出された結論に、シーザーは絶望的な思いで自分の右手を見つめる。持ちあがったその指先は、意地が悪くなるほどゆったりした動きで彼のまとうシャツをめくりあげた。心底楽しそうに細められたジョセフの視線は、あらわになったシーザーの腹筋にまちがいなく落ちる。歯噛みする思いでシーザーはジョセフを見上げた。
キスの波紋は自分が見せつける側であったというのに、ジョセフにお株を奪われた上ほかでもない自分に仕掛けられた。負けず嫌いであるシーザーの胸を悔しさが焼いて、「くそっ……」とうめきが漏れる。あれ、とジョセフの眉が上がった。
「おっかしいな、意識があってしゃべれんのか。シーザーがやったみたいにはうまくいかねえな」
「……お前の波紋がおれより下ってことだろ」
確かに、以前シーザーが披露してみせた波紋はシニョリーナの意識ごとうばい、それによって驚異的な身体能力を引き出していた。
だが今、彼の体は自由が利かないものの、まばたきも会話も普通に出来る。この差は、仕掛けられたのが素人と波紋使いという違いによるものかと考えるシーザーだったが、ジョセフを調子に乗らせるのが癪で彼の波紋の粗さのせいにする。むっとしたように眉が寄ったジョセフだったが、一瞬後にその瞳はニヤリと嫌な笑いにゆがんだ。「強がっちゃってェ〜、シーザーったら」と笑った彼はシーツの上に落ちたマスクを床に放り投げる。
「ま、体の自由がきかないのは変わんねえみたいだし? 口では生意気なこと言っててもカラダは素直って、かえって燃えるかも」
「……っの、スカタン……!」
ニシシ、といやらしく笑うジョセフを思い切り睨みつけるが、その視線すら男の欲を煽る材料になることをシーザーも知っている。体を流れる波紋が意思とは無関係に指先を操り、自分のベルトを抜き取るのを理解しながらシーザーはめまいを覚えた。
(どうしてこう、こいつは危機感足りないのかねェ)
自分の言葉に従って素直に目を閉じたシーザーを正面にしながら、ジョセフは嘆息を噛みころした。波紋を見てくれと言えばシーザーが拒まないのは読み通りだったが、手を繋いで目を閉じろと言うだけであまりにも信頼し切った様子で瞼を閉じるからかえって居心地の悪さを感じる。本人が言うには昔は荒れていた頃もあったらしいが、こんな風に人を信じ切ってしまうようでは危ない目に遭わなかったかと心配になるというものだ。
もちろん、それは彼がジョセフに心をゆるしている表れなのだが、しかし自分の状況を考えてみてほしい。ベッドの上で向かい合って座って、互いに伸ばした指をからめて片方は目を閉じているのだ。ジョセフが望んだ状況だが、どう考えてもいたずらされても文句は言えない、いやむしろいたずらしてと誘ってるんじゃないかとよこしまな考えが浮かぶ。同時に、おれのこと意識してないのかよと唇をとがらせたくもなる。
ジョセフとシーザーは初対面の「気に食わないヤツ」という評価から「意外と見なおした」、「案外いいやつ」、「気の合う友人」と段階を踏んでついにこの間「恋人」にまでステップアップした。
しかしジョセフは、何度か体を重ねたというのに淡白なシーザーの態度に少なからず不満を覚えていた。そりゃあ、あまり公にしたいような関係じゃない。相手を恥ずかしく思うわけではないが、二人の関係を明かしたところで祝福を受けられるとは思っていないから、おおっぴらにいちゃつくことができないのはジョセフも我慢しよう。だが、リサリサや師範代の監視がないときですらシーザーの振る舞いはよき兄弟子としてのそれで、恋人同士の甘い時間を期待するジョセフには物足りないことこの上ない。うっかりすると、告白や初夜といったイベントがすべて夢の中の出来事で、二人はただの気の置けない友人同士なのではないかと考えてしまいそうなくらいだ。
今だって恋人と指を絡ませているというのにシーザーは構えた様子もなく、警戒もせずに目を閉じて待っている。自分が欲情の対象として見られていることなどまったく意識していないようだった。シタ入れてキスすっぞ、とイライラとモヤモヤがないまぜになりながら、ジョセフは約束を守るべく呼吸を整える。そんな風に甘い雰囲気のかけらも感じさせないシーザーに不満を感じているからこそ、この計画を思いついたのだ。
キスを仕掛けるのもベッドに誘うのもジョセフばかりで、それが少しばかりくやしかった。いつでも年上ぶる恋人に余裕なく自分を求めてほしくて、だからキスの波紋で彼を操ってみたかったのだ。シーザーの体を思い通りに動かして、舐めたりさすったりねだったりのっかったりしてほしい。恋人のあられもない姿を想像するだけで10代の体が反応しそうになって、ジョセフはあわてて妄想を追い出す。練り上げた波紋を流すため目を瞑ったままのシーザーに近づくと、ふわりと石鹸のいい匂いがした。
唇に、触れるだけのキス。波紋の生んだきらめきがシーザーの体をつつむのを確認して、ジョセフは満足げに目を細めた。はじかれたように目の前の緑の瞳が開く。
「あらン、目閉じててって言ったのに」
「っお前、今なにを……!」
荒っぽく言葉を吐き出したシーザーの唇は、言いかけた形に開いたまま凍りつく。意思と無関係に動く己の右手を見つめる彼の目は大きく見開かれていて、そのきれいなペリドットの瞳がぽろりと落ちてしまうのではないかとジョセフは埒もない不安を抱いた。キスの波紋を仕掛けられたことを理解したのだろう、「くそっ……」とシーザーのうめき声が落ちて、ジョセフはおやと眉を上げる。
本当なら、意識のない彼を思うままに操って、若い妄想の数々を実現するつもりだった。けれど目の前のシーザーは意識を保ったままで、憎まれ口のひとつくらいは叩けるようである。見込み違いの結果にはなったものの、お人形を抱くよりもこっちの方が興奮する、と考えてジョセフはいやらしい笑いを浮かべた。
自由にならない彼の手が取り落とした呼吸矯正マスクを床に投げて、「口では生意気なこと言っててもカラダは素直って、かえって燃えるかも」と思ったままを口にすると罵声が飛んでくる。その両手はジョセフの意思によって操られているというのに、シーザーの瞳は射抜くような鋭さを湛えたままで、背筋をゾクゾクと駆け上がる興奮を感じながらジョセフは自分の唇を舐めた。