※各ネタの間につながりは一切ありません

うそつきは○○のはじまり(現代パラレル)

 幻聴だ。だから返事をしなくてもいい。むしろ耳に届いたことを認めてしまえば誤解がこじれて面倒が増えるだけである。そう結論づけたシーザーは素知らぬふりでもう一度コーヒーカップを持ち上げた。それを「きーてんのかよ」とテーブルを叩かれ、幻聴ではなかったことをしぶしぶ認める。
 ならばきっと聞き間違いだ。異邦人の言葉が本来の意図とは異なって響いても仕方ない。そう自らを納得させたシーザーは、美しいクイーンズイングリッシュを操る男に向き直った。

「……聞いているが、もう一度言ってくれ。少し、意味がわからなかったんだ」
「やっぱ聞いてねえんじゃねえかよ。だから、おれと結婚してくれって言ってんの」

 ここが彼の自室であればシーザーは手にしたカップをジョセフの頭に叩きつけて立ち上がっていただろう。しかし、昼下がりのバルでそんなことをすればもろもろの弁償としばらくのあいだ好奇の噂を買ってしまう。いらだつ内心を右手を固く握りしめることでやり過ごしたシーザーは、つとめておだやかに言い返した。

「ふざけるんじゃねえぞ。ぶん殴られたいのか、スカタン」

 おだやかに返してこの程度ではある。シーザーはもともとくだらないジョークを好まないたちであった。正面から睨みつけられたジョセフは彼のうちに燃える怒気を感じ取ったのか、慌てて弁解する。

「ちげーよ、そういうフリをするだけ! ひと芝居頼みたいんだって言っただろ」
「芝居でも結婚なんてできるか。おれもお前も男なんだぞ」
「そりゃ見りゃわかるぜ。オメーみたいにごつい女がいたら創造主はとんでもないボンクラってことになっちまう」

 彼と彼の宗教を小馬鹿にした言葉にシーザーの機嫌はますます降下する。頼み事ができるような雰囲気ではないと察したらしいジョセフは慎重に続けた。

「そりゃ、こんなこと頼んだら迷惑なのはわかってるよ。でもおれ一人じゃどうしようもねえんだ。……このままじゃ顔も知らねえ女と結婚させられちまう。その前に、もう決めた相手がいるって言えばリサリサだって折れるかもしれないだろ」
「……事情はわからなくもないが……それならシニョリーナに頼むべきだろう。お前、友人がいないわけでもないんだし」

 ジョセフに「頼みがある」と呼び出されたのは今日になってからだ。落ち合ってみれば、彼は望まぬ結婚を強いられかけていると話した。今はイタリアで遊んでいるジョセフだが出身はイギリスの貴族階級であり、そのしがらみのもとに今回の婚姻話が持ち上がったそうだ。
 会ったこともない、もちろん愛情も抱いていない相手を娶るのは互いにとって不幸なことに違いない。彼のとんでもない発言で同情心も吹き飛んでいたシーザーは、しょぼくれるジョセフに改めて気遣わしげな視線を投げた。

「もし他の女を紹介したところで、次はそいつと結婚させられるだけだろ。それに、諦めさせるなら相手の思惑を全部ぶち壊してやるのが一番効果が高い。「おれ、男が好きなんだ」って言えばさすがのリサリサだって無理強いはできないはずだぜ」
「…………それは一理あるな。しかし、結局は嘘だろう? リサリサ先生をだますようなことは……」

 ジョセフの母であるリサリサはシーザーにとっても恩師だ。彼女によって人生が変わったと言っても過言でないのだから、第二の母と呼べる存在かもしれない。同じくイタリアで教鞭をとっている彼女に嘘をつくのはやはり心苦しい。揺れるシーザーの心をさらに揺さぶるように、テーブルに身を乗り出したジョセフがシーザーの両手を握った。

「こんなこと頼めるのはお前しかいねえよ、シーザー。おれの一生がかかってるんだ、助けてくれ」

 普段はのらりくらりとかわすばかりで、弱みらしい弱みを見せたことがないジョセフの懇願にシーザーもぐらつく。これほど嫌がっている彼のもとに嫁いだところで、相手の女性も幸福な暮らしを手に入れられるとは思えない。彼の頼みを聞きいれてはあまりにもエゴイストにすぎるのではないかと思いつつ、握られた手をそっとふりほどいた。

「……それで、お前は何をしてくれるんだ」
「へ?」
「へ、じゃあない。お前のせいでリサリサ先生をあざむくことになるんだ、見返りがないとやってられん」

 頬に集まった熱をごまかすように早口で言う。間抜けにも口を開けていたジョセフは彼の意図をやっと理解したのか、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ヴェリイナイスよ、シーザーちゃん! オメーのそういうとこ好きだぜ!」
「大声をだすんじゃあねえ。……近くにできたトラットリア、雰囲気はいいんだが値段が学生向けじゃないんだ。そこでおごるなら乗ってやってもいい」
「オッケー、それくらいなら安いもんだって! 一番高いコース、選んどいてくれよ」

 調子づいてウインクで答えるジョセフにシーザーは「じゃあ3回でいいぞ」と返す。「一回じゃねえの!?」と慌てたジョセフも面倒な頼みをしているという自覚があるのだろう、最後には了承した。わざとらしくふてくされてみせる彼に苦笑しつつ、シーザーはおのれに降りかかった幸運な奇跡に手を組んで感謝したい思いだった。

 師であるリサリサをあざむくのは心が痛む。しかし、シーザーの胸中は喜びであふれていた。彼はジョセフを愛している。それはおだやかな友愛ではなく、切なく恋い焦がれる性質のものだった。誰にも明かすつもりのない思いはひっそりと消えていくはずが、思わぬ形で陽の光を浴びる。ジョセフの苦境を利用して自分の欲を満たすのは気がとがめるものの、互いの利害が一致している以上申し出を断る理由はない。方便としての恋人ごっこだと理解していてなお、シーザーの心は満ちていた。


 勝負の日、つまりシーザーがジョセフの恋人として紹介される日はすぐにやってきた。服に悩んだあげく、鏡の前で何度も体に当てては取り替えるシーザーはクローゼットの中身をすべて広げるつもりかのようで、迎えに来たジョセフは冷ややかな視線を投げる。「おれと出かけるときより気合入ってんじゃねえの」と言う彼に「リサリサ先生にお会いするんだから当然だろう」と返せばなぜか不満そうに唇を突き出していた。

 二人で向かうのはジョセフとリサリサが暮らす屋敷だ。何度か訪れたことはあるものの、これから師をだますのだと思うとシーザーの足取りは自然と重くなった。門扉をくぐって広い前庭を進み、だんだん近づいてくるジョースター邸がホラー映画の幽霊屋敷並みにおそろしく思えてくる。しゃれた服に身をつつんで浮かない顔をするシーザーに、前を行くジョセフがその手を取った。

「……おい、ひっぱるな。男二人で手をつないで、おかしいだろう」
「なァに言ってんのよ、オメーはおれの恋人だろ? なにもおかしくねえって」

 あたりをはばかることなく言うジョセフにシーザーは幽霊でも見たような顔で固まり、ついで慌ててうつむく。ジョセフが言うのはこれからリサリサの前で披露する芝居の筋書きだとわかっていても、彼から恋人だと言われるのがたまらなく嬉しい。触れる手のひらの温度だけでシーザーの心臓は甘く跳ね、一気に体温が上がる。
 師はまだ姿を見せていないが、あのリサリサを騙すのだから今からそのつもりで演技しておけということなのだろう。ジョセフの一言でこれほど動揺していては不審に思われるかもしれないと気づき、シーザーはこっそりと深呼吸を繰り返した。

「……お前がそんなことを言えるやつだったとはな。ペテン師の才能があるぜ、JOJO」
「おいおい、心外だな。おれは心から言ってるんだぜ、ダーリン?」
「わかってるさ、ハニー」

 嘘だと互いにわかったうえで空々しいやりとりを交わす。屋敷の扉の前に立てば自然と力が入ってしまったようで、それに応えるようにジョセフも絡めた指を握り返してくれた。この時間が偽りのない本物であればどれだけ幸福だっただろうと想像してしまったシーザーは、おのれの欲深さを自覚して恥じ入る。芝居であっても彼と触れあって過ごせることを幸運に思わなくてはならないのに。そう思っていても、望むものを与えられることでかえって現実の空虚さが浮き彫りになる。満たされる一方で飢えに苦しむシーザーの横顔を、ジョセフは何も言わずに見つめていた。

 息子から連絡を受けていたのだろう、リサリサは人数分の紅茶を用意していた。ジョセフが「シーザーと付き合ってるから、他のヤツとは結婚できない」と言い終わると、彼女はカップをソーサーに戻してシーザーを見据える。

「――この子はこう言っていますが、シーザー、信じていいのですね?」
「は……はい、おれとJOJOは付き合って、います……。JOJOの未来を奪うことをお許し下さい、先生」

 うそをつくことへの罪悪感から歯切れの悪い物言いになってしまうが、恋人の母親の前で緊張しているせいだと思ってくれることを願う。実際、シーザーは師の前で芝居を打つ緊張で固くなっていた。

「申し訳なく思う必要はありませんよ、シーザー。二人で決めたことならば私から口出しするつもりはありません。……ですが、その前に確かめさせてもらえるかしら」
「……先生?」
「あなたたちの結びつきは本物だと、そう誓えますか?」

 まるでこの芝居を見透かしているようなリサリサの言葉に一瞬言葉に詰まる。ちらりとジョセフを見やれば、いつになくまじめな表情の彼がシーザーを見つめていた。
 何を言えばいいのかなんてわかっている。そして、それがこの芝居の一部になることも。短く息を吸ったシーザーの言葉がジョセフにどう響くのか、彼には想像できない。シーザーが彼の恋人としてここに立つのは偽りだ。しかし、誰にも打ち明けたことのないこの感情はまぎれもない真実だった。

「――はい、おれはJOJOを愛しています。今も、これからも変わりません」

 静かに言い切ったシーザーに、隣に座るジョセフが手を重ねる。驚いて振り向けば彼の瞳は熱っぽくシーザーを射抜く。息子たちを見守ったリサリサはほほ笑みを浮かべて再びティーカップを持ち上げた。

「口うるさい母親を安心させてくれて嬉しいわ。JOJOから聞いたときにはとても信じられないと思ったものですが、何も心配はいらなさそうね」
「オメー、おれを信用してなさすぎじゃねえの」
「おい、先生に向かってそんな口の利き方があるか」

 横のジョセフを睨めば「シーザーはおれの味方じゃねえのかよ」と恨み言を向けられる。シーザーが彼を愛していることと、リサリサを尊敬してやまないことは別の話だ。二人を見守っていたリサリサがふいにあらぬ方を向き、立ち上がる。弟子たちの視線に気づくと、その黒髪を揺らしてこう言った。

「おかあさまたちがいらっしゃったわ。JOJO、紅茶の準備をお願いします」

 彼女の言うおかあさまとは、ジョセフにとっては祖母に当たる存在になる。一拍置いてそれを理解したシーザーは白い肌をさらに蒼白にして小さく震えた。シーザーたちがここに同席する以上、彼の祖母に対しても嘘をつき続けることになる。話がおおごとになっていくのを感じたシーザーはダイニングに消えたジョセフを追いかけた。

「おいJOJO、おばあさまがいらっしゃるなんて聞いてないぞ!」
「そうだっけェ? ま、おばあちゃんがいようといまいとやることは変わんねーだろ。さっきみたいな感じでおれへの愛を貫いちゃってよネン」

 気やすくウインクした彼はティーセット一式を手に応接間に戻っていく。確かに、今さら後戻りはできないのだ。たとえシーザーが逃げ出したところで、一度認めた以上うそだと撤回することにはならない。思いあまって芝居だったと訴えればジョセフの信頼を裏切ることを意味する。老齢のご婦人を騙すことになってしまうのは心が痛むが、もはやシーザーが手綱を取れる段階ではなかった。
 にわかに痛み始めた頭を抱えたシーザーが応接間に戻れば、リサリサが客人をともなって入ってくるところだった。彼に気づいた婦人はその瞳を細めてほほ笑みを浮かべる。良心の呵責に耐えながら、シーザーは黙って礼を返した。

「おばあちゃん、紹介するよ。こいつがシーザー、おれのいちばん大切な相手だ」
「あなたがシーザーさんね。お話はよくうかがっておりましたよ、お会いできてうれしいわ」
「……こちらこそ光栄です、シニョーラ」

 彼の葛藤など知らぬ顔のジョセフを殴り飛ばしたい衝動にかられつつ、シーザーは小柄な彼女の前で膝をつく。やや芝居がかった仕草を目にして「まあ」とかわいらしい声が聞こえた。
 ジョセフにとって祖母、エリナは誰よりも近い家族だと聞いていたのだが、彼にはうそをつくことへの抵抗はないのだろうか。最も身近であるからこそ真っ先にあざむかなくてはならない相手、ということなのかもしれない。優しげな老婦人にうそを重ねる心苦しさに耐えかね、シーザーはこれ以上余計なことは口にするまいと固く決めた。

「おかあさま、遠路はるばるお疲れでしょう。部屋は用意してありますから、お休みになりたいときはおっしゃってくださいね」
「ええ、ありがとう。少々驚きましたが、JOJOから恋人を紹介したいと言われたら飛んでくるしかないものね。……あら、SPWさんは? 私より早い便だと聞いたけれど」
「そろそろ着くと連絡が……あら、噂をすれば」

 エリナの手を引くリサリサはとてもではないが彼女の娘には見えなかった。女性二人の会話が途切れ、窓の外から車のエンジン音が近づいてくる。それからすぐに老紳士が現れ、その顔を見てシーザーはソファから転げ落ちそうになった。特徴的な傷あとを持つ彼は一代で財閥を築いた、アメリカンドリームの体現者として知られるロバート・E・O・スピードワゴンその人に間違いない。一介の学生ですら顔と名前を知っている雲の上の存在に度肝を抜かれていると、その紳士がにこにこと近寄ってシーザーの手を取った。

「やあ、君がシーザーくんだね。JOJOから話は聞いているよ、あの子から恋人を紹介される日が来るとは長生きもするものだ。あれは気難しいところもある子だが、本当は情に……いや、そんなことは君のほうがよく知っているはずだな。とにかく、これからもよろしく頼むよ。長い付き合いになるんだ、私のことは実の家族だと思っておくれ」

 社員からの人望も厚い、熱血経営者からそう訴えられてはシーザーも何も言えない。気圧されるようにして頷けば、スピードワゴンは肩の荷が下りたように笑った。

「……てめえJOJO、どういうことだ。なんであんな人がここにいるんだ」
「あれェ、言ってなかったっけ? SPWのじいさんはおれの家族みたいなもんだよ。いまだに世界中飛び回ってるって言うのに、おばあちゃんが呼ぶってきかないからさぁ。ま、じいさんもシーザーに会いたいって言ってたし、おれとしちゃいっぺんに話が済むから助かるんだけど」
「…………おれは、聞いてねえぞ!」

 さすがにこんなやりとりをひとに聞かせるわけにはいかず、互いに耳打ちする二人を年長者たちがあたたかく見守っている。予想していたよりずっと大きな話になっていることに気づき、シーザーはおのれがとんでもないことをしているのかもしれないと冷や汗をかき始めていた。
 それにしてもジョセフは平気な顔をしている。シーザーと違って事態を予測できていたというアドバンテージはあるだろうが、身内を騙していることへの罪悪感はまったくうかがえない。彼のペテン師的才能はよく知っているものの、ここまで徹底した態度はむしろ尊敬したいほどであった。

 困惑するシーザーをよそに、ジョースター家内の会話ははずんでいる。どう口を挟んでいいかもわからず、ソファに並ぶジョセフに目配せすれば彼は心得たように頷いた。シーザーとしてはなんとか穏便に乗り切りたい気持ちでいっぱいである。

「そう言えば、二人は同居していないと聞いたが予定はあるのかね? 物件を探すつもりなら言っておくれ。イタリアにも財団の支部はあるからね」
「サンキュー、じいさん。あとで支部の連絡先教えてくれよ」
「エリザベスから聞きましたけれど、シーザーさんはジェノヴァのご出身なんですってね。今度案内してもらいたいわ」
「あら、それなら私も同行させてほしいですね」
「いいけど、おれたち二人きりで行ったあとにな。初めての旅行が家族同伴なんてかっこつかねーだろ」
「意外ね、まだ行ってなかったの。とっくに二人で旅行くらいしているかと」
「うるせえな、こういうのはタイミングが大事なんだよ」

 リサリサにからかわれて言い返すジョセフにはうそをついているぎこちなさがない。一方でシーザーは身の置きどころのなさを味わっていた。へたに口を挟むとボロを出してしまいそうで黙っているものの、目の前で交わされる、二人が恋人であることが前提の会話にも冷や汗が出る。
 しかし、話がどんどんふくらんでいるような気がする。うそを重ねては露見したときにまずいのではと危惧するのも彼だけのようで、ジョセフはいけしゃあしゃあとハッタリを連ねていく。どうするのかとハラハラした気持ちで見守るシーザーに、ジョセフはにやりと笑うだけだった。

 寿命が縮む思いのシーザーをさすがに見かねたのか、ジョセフが促して彼は屋敷を辞することになる。エリナたちはまだ留まるようで、駅まで送ると申し出たジョセフとともに玄関を出ればあたりに人目はない。半日でどっと疲れた思いのシーザーは魂も吐き出すような重いため息をつく。行きは彼と繋いでいたジョセフの手は、今は自由に揺れていた。

「なァに、実家にご挨拶で緊張しちゃった?」
「茶化すんじゃあねえ。……お前な、おばあさまやSPWさんがいらっしゃるなら先に言え。おれがどれだけ縮み上がったと思ってるんだ」
「悪かったってェ。おどかすつもりじゃなかったんだけどさ」

 そう言うジョセフは本当に悪いと思っているのか怪しい態度だった。釈然としない思いを抱えつつ、今さら言ってもどうにもならないとシーザーはおのれに言い聞かせる。とにかく、今日の彼の仕事は終わったのだ。

 思えばどうにも異常な一日だった。心ひそかに焦がれている相手の恋人のふりをしてその家族に紹介されるなんて、喜劇じみている。応接間での長いひとときを思い返したシーザーは、ずっと気になっていたことを問いかけた。

「……JOJO。お前、あんなふうに先の約束ばかりしていいのか? おれは一日限りのにせ恋人だっていうのに」

 リサリサ、エリナ、スピードワゴンの前でジョセフは先の話ばかりしていた。家のこと、旅行のこと、皆で食事に行くとも言っていたし、スピードワゴンなどは「今後指輪を作るなら見ておいたほうがいい」とジュエリーのカタログまで渡していた。
 発想のスケールが違うブルジョワジーにシーザーは何も言えなかったが、それもこれも二人が恋人だと全員が信じていたからだ。いくらこの先の話をしたところで、それが実現することはない。その場しのぎの芝居なら、未来につながるような言い方は不誠実だと感じていた。

 ふいに立ち止まったジョセフの背中で夕日が燃えている。彼の愛するペテン師はつられて足を止めるシーザーの手を取り、不敵な笑みとともにこう告げた。

「いいに決まってるだろ。オメーは今日だけのにせ恋人で、明日からは本物の婚約者になるんだからな」
「………………」

 間抜けにもぽかんと口を開けてフリーズするシーザーは、大きな体に抱き寄せられて意識を取り戻す。とっさに彼を殴っても、すでに体ごと自由を奪われたあとでは遅かった。

「なんッ、てめえ、何言ってやがる! 話が違うだろ!」
「シーザーこそ、あれだけ彼氏ヅラしといて今さらそんなこと言い出しちゃうわけェ? そっちのほうが話が違うんじゃねえの」
「あれはお前が口裏を合わせろって……!」
「それ、リサリサたちの前で言えるのかよ? あいつは鉄面皮だからいいけど、おばあちゃんはガッカリして泣いちまうかもな。SPWのじいさんなんか、驚きすぎて寿命が縮んじまうんじゃねえの」
「てめえ……卑怯だぞ!」

 ほとんど動かせない拳で殴ってもジョセフはまるでこたえていないようだった。はじめからあとにはひけないよう策が巡らせられていたことを知り、シーザーはとんでもないことをしたと血の気が引く思いを味わう。ジョセフの口車に乗せられたとはいえ、彼自身も最後まで協力していたのだ。悔悟と焦燥で焼き切れそうなシーザーの思考に、ジョセフの声が割り込む。

「……それとも、本気でいやなのかよ」

 常より覇気のない声にその顔をうかがいたくても、強く抱きしめられたシーザーの視界はジョセフの肩口で埋まっている。代わりに「どういう意味だ」と問いかければ、短い沈黙のあと彼の両腕にさらに力が入った。

「…………だってシーザー、ほんとはおれのこと好きだろ。気づいてないと思ってたのかよ」
「なッ……はあ!? いや、違う、おれはただ……」
「なのに、待っててもちっとも素直になってくんねーし。そっちがその気なら引き返せないような状況にしちまえばいいと思ったのに、まだいやがってるし……自信なくしそうだぜ」

 自嘲を含んだジョセフの声に驚く。訪れた沈黙に耳をすませば、触れた肌を伝わって彼の鼓動がシーザーにも届いた。情けないほど緊張しているジョセフに思わず笑みがこぼれる。促すように背を叩けば案外あっさりと解放された。

「……お前、どれだけドキドキしてるんだよ」
「るせえ、テメーと違って慣れてねえんだっての」

 今ならジョセフの乱暴な言葉も照れ隠しだとわかる。シーザーの秘めた思いが見透かされていたのは心底驚いたが、それをわかっていて逃がさないよう仕組んだ彼の真意がどこにあるかなんてすでに聞くまでもなかった。夕日のオレンジより赤く染まった頬に触れたい。そして、それはきっと許されているのだ。

「……今日、おれはお前への気持ちだけはうそをついていない。――愛している、JOJO。お前はどうなんだ?」
「言わなくたってわかるだろ、そのくらい……」
「わかってても聞きたいんだ。なあ、JOJO」

 シーザーの視線よりも少し高い位置にある瞳に訴えれば、彼は早口に何か言ったようだった。おそらくスラングのたぐいだろう。ふいに膝を折った彼がうやうやしくシーザーの手を取る。美しく整えられたジョースター邸の前庭に二人の影だけが長く伸びていた。

「――明日も、おれの恋人でいてほしい。できたら、この先もずっと」

 ジョセフの低い声に、シーザーも彼を笑えなくなるほど頬が熱を帯びるのを感じる。こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。あまりにも情けない声が出そうで、無言で頷けば飛びついてきた彼に押されて芝生の上に転がる。二人とも鍛えた肉体を持っているからいいものの、そうでなければジョセフの巨体に押しつぶされていたかもしれない。文句を言うために開いた唇は、わきあがる喜びをこらえられないような彼の表情を目にして再び閉じてしまった。

 子どもがおもちゃを離さまいとするように力いっぱい抱きしめられ、幼くもストレートな愛情表現に胸の底があたたかくなる。触れたところからしみこんでいくジョセフの体温はこの瞬間が夢でないことを教えてくれた。もうこの思いを隠さなくていいし、否定されることもない。それはシーザーにとって世界中の財宝を手にするよりも価値のあることだった。

「……なあ、JOJO。おれたち、恋人なんだよな」
「ああ、そうでなきゃ困るっての」
「誰にも反対されないんだよな」
「当たり前だ……ン、むっ!」

 密着した彼の体をさらに引き寄せ、そのセクシーな唇を奪う。ジョセフに愛されている、それだけで今のシーザーには怖いものは何もなかった。

「……ずいぶん大胆なことしてくれちゃうのね、帰したくなくなっちまいそう」
「なんだ、まさかこのまま帰すつもりだったのか? つれないんだな、ハニー」
「――〜ッあーもう! オメーが言ったんだからな、後悔すんなよ!」

 叫んだジョセフはシーザーを抱えて立ち上がる。さすがに驚いたが、自分を支える腕に甘えるようにすりよれば頭上からうめき声が落ちてきた。大きな荷物を抱き上げたジョセフは来た道を引き返していく。屋敷に戻れば彼の家族たちが冷やかしながらもあたたかく迎えてくれるだろう。夕日の影を背負ったジョースター邸をもう一度見上げれば、とてもおそろしいとは思えなかった。



インユアローズガーデン(現代パラレル)

 インターフォンの音にまぶたを持ち上げる。つけっぱなしのテレビはチャプター選択画面を映していて、そういえば退屈なDVDを見ていたことを思い出した。ソファーの上なんかで寝てしまったために体が痛い。立ち上がって伸びをしたあと玄関に向かい、ドアを開けばおれの予想通りの男が立っていた。

「こんな時間に、すまないな。……寝ていたのか?」
「映画見ながら寝落ち。起こしてくれて助かったぜ」

 あくび混じりに答えればシーザーは困ったように笑い、白い手がおれの寝乱れた髪を撫でる。その拍子に漂うのはこいつがいつもつけている香水とたばこの匂い、それとみずみずしい花の匂い。ドアを開ける前から予想していたとおり、シーザーはセロファンに包まれた花を手にしていた。

 シーザーは虫が嫌いだ。その連想から花を身近に置くことも避けたいようで、誰かから花をもらうことがあれば毎回おれの部屋に置きに来る。「嫌なら捨てろよ」とか「もらう前に断れよ」と何度も言っているのだが、結局いつもおれのところに持ち込まれている。おかげでおれの部屋は学生の一人暮らしとは思えないほどさわやかな内装になっていた。

 シーザーが持ってきたのは赤いバラが三本、きれいにラッピングされてこちらを見ている。切り花なんて数日でしおれるんだし、虫も寄ってきそうにないのだがシーザーはどうしても耐えられないようだった。でなけりゃ、このスケコマシが女からもらったものをおれに預けるはずがない。
 断ってから部屋に上がり、勝手知ったる様子で花瓶を探す友人の後ろ姿にこっそりため息をつく。シーザーはいつも花の贈り主をはっきり言わなかったが、まさか男からもらうわけではないだろう。おれのような物好きがそこら中にごろごろしているとは考えにくかった。

 おれだったら、シーザーに花を贈るかもしれない。それはつまり、シーザーが好きということだ。実際は花を贈ったところでシーザーは困るだけだし、そもそもそんなきざったらしいことはおれの趣味じゃないから実現しないわけだが、あいつに花束を渡す女どもの気持ちはわかる。玄関先でバラを抱えて立つシーザーは、心の準備をしていたおれが見てもため息が出るほど絵になっていた。

 ダイニングテーブルの上にバラを生け、三本の花が向く角度を確かめていたシーザーは満足したように頷いている。それを後ろから見ていたおれは数歩ぶん近づき、背中にぺたりと貼りついた。生花を家の中に置くのが嫌だというシーザーは女の好きそうな雑学には詳しく、花言葉もおれが驚くほどよく覚えている。そのせいでまわりから「シーザーくんってお花が好きなのね」とか誤解されてるんじゃないかと思うほどだ。つくづくこいつの隣に住んでいるのがおれでよかったと思う。シーザーが自分の虫嫌いを告白して、事あるごとに部屋に上がっては花を置いて行く相手が他のやつだなんて想像もしたくない。

 それにしても、芸能人でもあるまいしよくもこれだけ頻繁に花をもらってくるものだ。大学では専門の学科内でいろいろな研究室に顔を出していると聞くし、バイトをいくつも掛け持ちしているのも知っているが、だとしても普通ではない。よっぽど花好きだと吹聴しない限りはこんなに集まらないんじゃないだろうか。チェストの上にガーベラ、掛け時計の下に白いバラ、ここからは見えないが洗面台の棚にはおれにはなんだかわからない名前の花が置かれている。週に一度以上の頻度でやってくるこの花配達人のおかげで、おれの部屋は色とりどりの花びらに飾られていた。

「まーた、赤いバラかよ。誰だか知らねえけど、ちっとワンパターンなんでねえのォ」

 ついさっき持ち込まれた花に視線を注ぎつつ、我ながら嫌味たらしく言う。さすがのおれもその花が持つ意味くらいは知っていた。シーザーが持ってくる花の中では一番よく見るもので、すべて一人が贈っているのか毎回違う相手なのか、どちらにせよこいつの色男ぶりが表れている。熱烈な愛情表現が込められたはずの花を見てシーザーは少しだけ困った顔をした。

「それくらい思いが大きいってことだ。……そうだJOJO、バラを贈る本数には意味があるんだぞ。お前、知ってるか?」
「知ってるよ。つーかオメーが教えてくれたんだろ。三本は『愛しています』だ」

 おれが答えるとシーザーは目をまんまるに開いた。いつも重たそうな目尻が持ち上がって、明るい緑色の虹彩がさらに光る。「よく覚えてたな!」と肩をばしばし叩かれてあっと思った。
 シーザーが驚くのも当然だ。おれの性格からして、花の本数が持つ意味なんて気にするわけがない。それを律儀に覚えていたのはひとえにシーザーが教えてくれたから、惚れた相手の言うことだからなのだが、そうと告げる勇気は今のおれにはなかった。深く突っ込まれたらどう言い繕うべきか考えるうち、それ以上の追求もなく解放される。それからシーザーはひとしきりおれの生活態度について小言を垂れたのち、再生の終わったプレイヤーから取り出したDVDをケースにいれ、クローゼットからあふれた服をしまい直してアパートの隣室に戻っていった。一人きりの部屋に漂うのはシーザーの残り香と花の匂い、22時過ぎを知らせる秒針の音だけだ。

 今度は誰にも遠慮なくため息を吐き出し、脱力した体をソファーに沈ませる。大きな音と埃が立ったが壁を挟んだ隣までは届かないはずだ。顔を横に向けて、今日からおれの部屋に増えたバラを視界に映す。赤いバラが三本、『愛しています』。シーザーにこの花を贈る女の子はなんと言って渡したのだろう。「あなたが好きです」? 控えめに、「いつも見ています」や「似合うと思って」かもしれない。シーザーはどう応えるだろうか。きれいな花だね、いい匂いだ、なんだか君に似ている気がする、ありがとう、僕も君を――いや、ないな。特定の恋人を作らず、ほうぼうの女の子と遊び歩いているような男だ。その場は甘い言葉を返しても、手渡された花はこの部屋でしおれるのを待っている。それだけが臆病なおれにとっての救いだった。

 シーザーがおれの部屋に花を持ち込む習慣はもう一年近く続いている。始まりは一本の赤いバラで、「もらってくれないか」と切りだされて驚いたものだ。
 あいつには悪いが、虫嫌いという弱点を知ることができたおれは他の女の子たちに対して優越感を覚えている。もっとも、かわいらしく花を贈ることもできず隣室でシーザーを思ってため息をつくだけのおれと、毎日飽きずにアプローチを続ける女どものどっちが有利かなんてわかりきったことだ。それ以上考えるのをやめたおれは、顔も知らないライバルたちの影を振り払うように目を閉じた。


 四日後の晩、花を持ったシーザーがおれの部屋を訪れる。その表情が妙に硬く見え、なにか怒らせることをしただろうかと記憶を探ってもそれらしい心当たりはない。こわい顔をしたままのシーザーに「上がっていいか」と言われて断る理由はなかった。

「99本めなんだ」

 部屋に入ったシーザーにそう言われてもおれにはぴんとこなかった。思わず首を傾げると正面のあいつが焦れたように舌打ちする。理不尽だとは思うが、お互い立って向かい合う状態で殴りかかられてはたまらないので文句は口にしない。シーザーは案外、そういう短気なところがあった。

「だから、バラの数が」
「バラ?」

 シーザー的にはそれですべて通じると思っていたらしいが、やっぱりおれにはよくわからない。定期的とも言っていいペースでおれの部屋に持ち込まれる赤いバラが、通算で99本になる。それだけモテるって自慢するつもりなんだろうか。もう一度口を開いたシーザーは空気を切る音とともに手にした花束を突き出した。

「バラの本数の意味、覚えてるんだろう。……ずっと好きだった、JOJO」
「は?」

 自分でも信じられないほど間抜けな声が出る。怒ったような顔をしていたシーザーは一転して目を伏せ、床の木目を数えているようだった。今のが聞き間違いでなければシーザーは愛の告白をおれに向けたわけで、しかしその手には女の子からもらったバラがある。まばたきを繰り返し、生まれた疑問を声に出した。

「そのバラ、なんだよ? 誰かからもらったんだろ?」
「ッ違う! これは、おれがお前に……気持ち悪いだろう、すまない」
「はあ!? そのバラ……って、じゃあ今までのも……? だって、シニョリーナからもらったんじゃねえの?」
「おれは一度もそんなこと言っていない。お前が勝手に勘違いしてただけだ」
「勝手に……って、おれが悪いのかよ。それならそうと言やいいだろ!」

 おれが言い返せばシーザーは言葉に詰まったように口を閉じた。つきつけられていた花束も、いつのまにかシーザーの腕と一緒に力なく下を向く。わずかな沈黙のあと続いた声はいつもよりずっと頼りなかった。

「本当は、言うつもりだったんだ。初めてバラを渡したときから、ずっと告白したかった。だが、お前を目の前にするとどうしても決心がにぶってしまう。……もう、99本になる。いい加減終わりにすべきなんだ」

 うつむくシーザーの指が小さく震えている。おれのために捧げられる真っ赤なバラは三本、99本のバラに込められたメッセージは確かに「ずっと好きだった」のはずだ。そこまで考えてから急に思考が止まる。そんな都合のいいことがあるだろうか? 心臓がバクバクと音を立てるのに指先は冷たく、からからになった喉ははりついたように動かなかった。

「お前にはずっと迷惑をかけたな。これで最後だ。……捨ててくれ」

 今度は投げやりに突き出された花束からバラの匂いが漂う。それがたとえ女の子からの贈り物でも、シーザーが会いにくる理由だからと少しだけ嬉しかったのだ。おれの知らない誰かからではなく、目の前のこいつがおれのために用意したプレゼントだなんて世界中の何よりも価値があると思えた。
 シーザーの虫嫌いは嘘ではないはずなのに、花屋の店先でどんな顔をしてバラを選んだのだろう。真夏でも真冬でも、一本、あるいは三本、六本贈られたこともあった。一年近くにおよぶそのすべてが言葉にならない告白だったのだと知らされ、鼻の奥はツンとするし口元はむずむずするしでいてもたっていられなかった。

 それだけおれを愛しているシーザーはなぜだか振られるものだと思って身を固くしている。我慢せずに抱きつけば二人の体の間でつぶされた花束のセロファンががさがさと音を立てたが、おれにとって必要なのは赤いバラなんかじゃなくこの男なんだから構っていられない。いきなり飛びかかられたシーザーは後ろによろけても、しっかりおれの体重を支えてくれた。

「おい、重いぞ!」
「なんなんだよ、バラって……ロマンチストすぎんだろォ」

 おれより少しだけ低い肩に顔を埋め、少しばかりの文句をぶつける。こんなまわりくどいことをするから一年もかかるんだ。それだけの間花屋に通っていれば花言葉にも詳しくなるだろうし、女どもから「シーザーくんってお花が好きなのね」とか勘違いもされるだろう。少しだけ顔を上げれば四日前に渡されたバラが目に入り、シーザーからの愛の形なのだと思うとつい肩を抱く手に力が入ってしまった。

「……惚れた相手に告白するんだ、少しでも成功率を上げるのは当然だろう」

 シーザーがそう返す声は居心地悪そうに揺れている。真っ赤なバラでお付き合いオーケーするのはかわいいシニョリーナくらいであって、ごつい男相手にも効果があると思ってるこいつの思考回路を疑ってしまう。それにおれの場合、成功率なんて考えるのもバカバカしい。もちろんそんなの、100%に決まってるだろ?

「シーザー、告白の返事聞きたい?」

 間近でガラス玉のような虹彩を覗き込み、今まで聞かせたことのないような声でささやく。とたんに目尻を赤く染めて頷くシーザーは百戦錬磨の色男で、おれがこれから取る行動なんてわかっているんだろう。

「じゃあ、目ェ閉じて」

 まるで待っていたように素直に下ろされるまぶたに笑って、お望みどおりに口づける。一年間、99本のバラに込められた思いの重さはどれほどだろう。愛する相手に贈る花を持たないおれは、代わりに99回のキスで応えた。



下心ドライブ(現代パラレル)

 街灯の光が窓から入り込み、車内を一瞬照らす。規則的な間隔で訪れるそれはシートをオレンジ色に染め、すぐに去ってつかの間の暗闇を作り出した。中心部から離れるにつれ周りの車は少なくなる。おれはそのとき、何度か行ったことのあるバーの照明が消えていることに気を取られていて、運転席のシーザーが唇を動かすところを見なかった。

「以前から思っていたが、お前は金遣いが荒いな」

 おれの視力を持ってしても、そのバーが店じまいをしている理由を車窓越しに読み取ることはできなかった。入り口に張り紙が見えたが、夜逃げや差し押さえでないことを祈る。店主である男の顔は記憶の中ですでにおぼろげだった。
 数秒ぶんだけ窓越しに後ろを振り返り、バーが見えなくなってからシーザーに向き直る。当然だが彼の視線はフロントガラスに向いていて、対向車のライトが白い輪郭を照らした。

「そお?」

 短い返事で済ませたのは賛同しきれないところがあるからだ。そりゃあ、いくらおれだって自分が倹約家だとは思っていない。かといって蕩尽にまみれた生活を過ごしているほどの自覚はなく、一言で言えば心外ですらある。シーザーはおれの振る舞いのどこを見て今の発言に至ったのだろう。今日一日の行動を思い返しながらこっそり首をひねった。

 今日は二週間ぶりのデートだ。取引先も大学も休みになる安息日という制度に感謝しつつ、講義が終わって大学から出てくるシーザーを待ち構えてさらったのが昨夜。ディナーに連れて行ったレストランは確かに大衆向けではなかったかもしれないが、大統領御用達などではないし、まがりなりにも社長であるおれが行く店としては堅実なチョイスだったと思っている。そのあと連れ込んだのはホテルではなくおれの部屋だから、ここは間違いなくセーフだ。
 日付が変わってからは、夜の無理がたたって二人ともずいぶん寝坊してしまいほとんど昼近くなってから家を出た。朝食兼昼食は手近なところで済ませ、シーザーの行きたがっていた美術展を二人で回った。おれにはわからないが、インテリアデザインの巨匠だそうでチケットはそれなりの値段だった気がする。このチケットはシーザーへのプレゼントのつもりだった。というか、美術展を口実にして連れ出したというのが本当のところだ。

 そのあとはジャケットがほしいというシーザーに付き合って何軒かはしごした。無事に好みのものが見つかったようでシーザーは喜び、途中でおれもついでにネクタイを買った。気に入ったからろくに値段も見ずに会計したところ、近頃売れているデザイナーが手がけたらしく思いのほか値が張ったから、シーザーが言うのはそういうところなのかもしれない。だとしても目についたものを買ったわけではなく、複数の店で見比べた結果なのだから高価だろうと浪費だとは思っていない。
 買い物を終え、車に戻る途中で一抱えほどの花束を買ったのは確かに生活に不必要なものだ。だがひとけのない駐車場で、最近見た映画のワンシーンをまねしてシーザーに手渡せば正直な恋人は嬉しそうにほほえみ、次の瞬間にはその表情を隠そうと無駄な努力をしていた。むろんシーザーのだらしなくゆるんだ顔はばっちり目撃したので、その本心は筒抜けでしかない。そういう詰めの甘いところも好きなのだからどうしようもなかった。

 この車の行き先はスイートを予約したホテル、ではなくシーザーの部屋だ。そこで振る舞われるはずの手料理がなによりの楽しみであるおれは成金嗜好とは程遠いだろう。己の行動を点検したおれはもう一度疑問の声を上げてみる。先ほどのシーザーの声は淡々としていて強い嫌悪を感じることはできなかったが、かといって甘受したい評価でもなかった。

「おれって、そんなに金遣い荒いかァ?」
「ああ。今日だってそうだ」
「え〜、そんなつもりねーんですけど」

 おれの言葉にシーザーはすぐには返さなかった。少し大きい交差点に差し掛かったところでウィンカーを出し、ミラー越しに周りを確認してハンドルを切る。今はシーザーが運転しているが、この車はおれのものだ。特注だとか世界に百台しかないというようなプレミアものではなくても、名の知れたブランドの最新シリーズである。シーザーの方はそれなりに年季が入った車を持っていて、友人から格安で譲り受けたものだと聞いた。
 おれ自身は意識していなくとも、シーザーから見れば鼻につく言動をしていたのかもしれない。続く言葉を聞くのが怖いような気がしてきた。金遣いが荒いというのは少なくともプラスの評価ではない。シーザーに嫌われるのはいやだし、しかもおれは気づいていなかったのだ。前の車との距離をゆっくり詰めながら、シーザーはこともなげに返した。

「荒いだろう。おれにプレゼントだなんだと無駄遣いするし」

 シーザーの言葉はまるで予想と違っていて、つい次の言葉を待ってしまう。胡乱げにこちらを向いた視線で、彼の主張はこれがすべてだとやっと悟った。

「……それは無駄じゃねえだろ」

 恋人に贈るプレゼントが無駄であるはずがない。相手からせがまれたわけではなく、おれが自発的に渡したものをそんなふうに言われて少しばかり消沈するのが自分でもわかる。そのわりにシーザーの言葉はからっとしていて、嫌味を言うようでもないのが不思議だった。
 車は静かに走り、シーザーの住むアパートまであと五分というところまでやってきた。自慢ではないがおれの部屋のほうが広いので、もう一晩泊まればと言ってみたが「明日大学に持っていくものがあるから帰る」と断られた。代わりに、今晩おれがシーザーの部屋で寝ることは許されている。後部座席に置いた花束の甘いにおいの中、シーザーの声がやわらかく響いた。

「無駄遣いだろう。おれはお前に惚れてるんだから、贈り物で気を引く必要はない」

 おれはシーザーのことをぜんぜん理解できていないのかもしれない、と思うのはこういうときだ。まるで当然のように放たれた言葉にシーザーの横顔をまじまじと見つめる。プレゼントに下心があると思われていた寂しさと、まっすぐ示された愛情の面映さとで何を言っていいかわからず、無為に唇を動かしたあと押し黙るしかなかった。

「なんつーか……そういうつもりじゃあねーんだけど」
「そうなのか?」

 車は細い道に入る。いくぶん速度を落としたシーザーはまっすぐ前を向きながら返事をよこした。アパートが立ち並ぶ道は静かで、窓ガラスの外はキンと冷えているはずだ。そりゃあ、喜んでほしいとか、照れる顔が見たいとか、プレゼントを渡すときには多少の期待がある。それを下心だと言われれば完全には否定できない。それでもおれは、シーザーが思うより素直な人間なのだ。

「ああいうのは、好きだから渡すんだろ? 打算じゃなくて、愛だっての」
「……愛……?」

 オウム返しに呟くシーザーの声は至ってまじめだった。こいつが運転中でよかったと思う、正面から向かい合っていてはこんな恥ずかしいやりとりに耐えられないところだ。生まれついてのラテン男であるシーザーは日頃から甘い言葉に慣れているようだが、おれの方はそうではない。気づかれないようにそっと横を向き、いたたまれない沈黙を自分で破った。

「オメーがそんなふうに考えてたなんて思わなかったぜ。おれだって、いつも計算ずくで動いてるわけじゃねえよ」

 相手を口説き落とすために貢ぐという行為も理解できるが、気持ちを物で買うような考えは好みではない。シーザーはプレゼントなんかなくてもとっくに落ちていると言ったし、それはそれでしっかり記憶に焼き付けておきたいが、そういういやらしい男だと思われるのは御免だった。

「だから、シーザーはあれこれ考えないで喜んでればいいんだって」
「その気持ちは嬉しいが……おれへの愛情だと言うなら、ずいぶん物足りないんじゃないか?」

 視線を戻せば、シーザーはいたずらを思いついた子どものような顔でおれを見ている。さすがイタリア人というべきか、この手のやり取りはお手のものらしかった。なるほど、愛を語るには生半可なことは言えないわけだ。挑発に笑って、ステアリングを握るシーザーに「おれの部屋に向かってくれ」と言った。

「今からか? もう着くぞ」
「わかってるって、すぐに済むからさ。あ、大学の課題持っておれのとこに泊まればいいんじゃねえ?」

 沈黙で返したシーザーはそれでもおれの誘いに乗ることにしたらしく、車を自宅に向ける。ちょっぴり強引だが、おれの部屋でなければならない理由がある。鍵をかけた引き出しの中に小さな箱が一つ、二ヶ月前から用意したおれの愛情だ。その指輪を目にしたシーザーがおれの気持ちに驚くところを想像して口もとがだらしなくゆるむ。不思議そうにこちらを見る恋人が泣きそうな顔で笑うのは、もう少しあとのことだった。