※各ネタの間につながりは一切ありません
グルメのおうさま(現代パラレル)
ジョセフはシーザーの料理が嫌いだ。
彼の作る料理がまずいと思っているわけではない。キッチンに立つ金髪の後ろ姿を見つめるジョセフは本人に気づかれないようにため息を吐き出した。
二人は冬に知り合った。この頃の接近ぶりといったら、はじめは互いにそりが合わないと思っていたのがうそだったかのように思える。ジョセフがシーザーに対して得がたい友情と、それよりももう少しだけ進んだ感情を抱くようになったのは最近のことだ。年下の彼を弟のようにかわいがるシーザーに理不尽な苛立ちを覚えていることは誰にも言えない。ジョセフがシーザーに求める愛情は、そういう種類ではもう代用できなかった。
ジョセフの母は世界的に著名な女優で、ロケだのバカンスだのと言ってはしょっちゅう家を空ける。そのたびに雇っているメイドまで連れて行くものだから、彼はその間中広い屋敷で一人で過ごさなければならなかった。リサリサの都合によって一週間から半月、長いときには数ヶ月にわたってほったらかされる生活で、祖母の家を出て母親と同居し始めたジョセフは少しばかり後悔している。
この話を聞かせたときのシーザーの反応をジョセフははっきりと覚えている。頬杖をついた格好でぽかんと口を開けて、その唇の間に舌をつっこんでやりたいと思ったものだ。短い沈黙のあと彼が「マンマミヤ〜」と呟かなければ実行に移していたかもしれない。少なくともその晩は覗き見えたシーザーの粘膜の色を思い出して抜いた。
彼が平然と「家に帰っても誰もいねえんだ」と口にしたことにシーザーは驚いたようだった。ジョセフの母があのリサリサだということはすでに知っていたから得心したようだったが、なにか言いたげにむずむずと口を開いたり閉じたりしている。向かいあって座る男の煮え切らない態度に見かねて水を向けてやれば、やや言いにくそうに切り出した。
「…………ひとの家庭についてこんなことを言うのは無作法なようだが、なんというか……そういうのは、よくないだろう」
「そぉ? もう慣れちまったからなァ、仕事なんだからしかたねえんじゃねえの」
「むろん、そうだ。おまえのおかあさまは他の誰にもできないことができる方だ。だが、それとおまえが寂しい思いをしていることは別の話だろう」
寂しがっていると断じられたジョセフはなんとなく気恥ずかしい思いがしたが、まっすぐな瞳で言われてはむやみに言い返せない。家族を大切にするイタリア人らしいな、と何事にもドライな自覚のあるジョセフは黙って聞いていた。
「メイドもいないって、食事はどうしてるんだ」
「うーん、レトルトとか? 一人でメシ食いに行くのも、毎日だと面倒だしなァ」
言いながらふとジョセフの頭に名案がひらめいた。「寂しいから、シーザーも一緒につきあって」と誘ってみる。そしてムードたっぷりのレストランにでも連れて行けば、それはもうデートと呼べるのではないだろうか。この際シーザーにそのつもりがなくともいい、これだけの同情を示してくれている彼のことだから、ジョセフが甘えたふりをすれば断らないに違いない。もとより、年上であることを気にするシーザーはジョセフの望みをできるだけ叶えてやろうと待ち構えている節があるのだ。ジョセフがその思いつきを口にする前に、すぐ近くの金髪がぱっと顔を上げた。
「おれでよければ、メシ作ってやるよ」
「……はっ?」
「メイド代わりになってやると言うんだ。いや、訓練も受けていないおれでは代わりは務まらないだろうが……」
そう言ってまつげを下向きに動かしたシーザーの頬はほんのりと赤みがさしていた。そのときが昼間でなく、また場所がオープンテラスのレストランでなければ彼の合意も求めず押し倒していたことだろう。そうではないジョセフは今しがたの言葉から受けた衝撃に何度もしばたくしかなかった。シーザーが自身のメイドとして仕え、いや違う、毎日食事を作ってくれる? 飛躍した発想がなぞれず、持ち上げかけたティーカップが重力に従ってソーサーに近づいていく。驚いたあまりに口も開けないジョセフの態度に何を思ったのか、そっぽを向いたシーザーが立ち上がりかけるのを慌てて制した。
「妙なことを言ってすまなかったな、今のは忘れてくれ」
「ちょっ、ちょっと待てって!」
思いもよらない方向だったが、シーザーの作った食事が食べられるのならジョセフに拒む理由はない。それも、シーザーは彼の家まで出向いたうえで料理を用意してくれるつもりなのだろう。母とメイドが出かけてしまえば広い屋敷には二人のほかに誰もおらず、どれほど騒いだところで咎められる気遣いはないのだ。期待が都合のいいように膨らむのを必死に隠し、前言撤回したがるシーザーを必死にかき口説いた。そのことまでばっちり覚えているくらいだ。
そんなジョセフがいまさらシーザーの手料理に不満を抱くのは正しくないのかもしれない。キッチンに立つ金髪をダイニングから眺めながら、後ろ向きに掛けた椅子を音を立てて揺らす。普段口うるさいはずのシーザーはジョセフのだらしない格好にもぶしつけな視線にも文句を言うことはなかった。どころか、淡い色の視線がこちらを向くこともない。確かに部屋には二人いるはずなのに会話も絶え、包丁が生む単調な音だけを聞いていた。
彼がシーザーに抱く不満というのは、つまりこれだ。なにかに没頭できるのは美徳なのだろうが、せっかく密室に二人きりだというのにかまってもらえないジョセフの唇がとがる。料理を振る舞うために訪れるシーザーは、友人である主を一切無視して作業に集中するのが常だった。
ジョセフとしても、控えめに聞こえるよう努力しながら文句をつけたこともある。それに対する返答は容赦のない肘打ちと「じゃれつくな、スカタン!」だった。「ふらふら近づいてきて、あぶねえだろ」と小言を聞きながら、包丁や火よりも今の肘打ちのほうがよっぽど危険だと学んだものだ。せめてと思って後ろからさかんに話しかけていたこともあったが最近では諦めつつある。憧れの相手であるリサリサの屋敷にシーザーがしきりに感激していたのもはじめのうちで、それから数ヶ月経った今ではいたって平静だ。
シーザーがかまってくれないことに不満を抱くジョセフだが、さすがに面と向かってそれを口にすることはできなかった。子どもっぽいわがままだと思われるのも癪だし、なによりシーザーの行動は純粋な善意だ。家人が出払っていることに同情して料理まで振る舞ってくれる彼に「そんなのよりおれの相手してくれよ」とねだるのは、奔放な性格の自覚があるジョセフでもためらわれた。
本人が約束したとおり、リサリサの長期不在のたびに食事を用意してくれるシーザーはきっとそれが趣味なのだろう。一人暮らしだという自宅でも毎日料理しているのかもしれない。それにしては手際がよくならないのも不思議だが、人には向き不向きがあるということか。彼の手料理にありつけると喜んでいたはずが、こんなふうにほったらかされるくらいなら外食に誘うほうがよっぽどスマートだったと後悔してみてももう遅い。一度それとなく切り出したこともあったのだが、味に不満があると誤解したシーザーが悲しそうな顔をするので二度目は言えていない。ジョセフ自身、贅沢な文句であることは重々理解していた。
「JOJO! できたぞ」
湯気の上がる皿を片手に、嬉しそうなシーザーが振り向く。そのとたんにダイニングで暗い顔をするジョセフに気づき、「なんだ、そこにいたのか」と笑った。没頭するシーザーは知らないのだろうが、彼がキッチンに向き合う60分間、ジョセフはずっと後ろから見つめていた。
あたたかなプッタネスカはもちろんうまい。そのことにやりきれなさを覚えながら、食卓についたジョセフはフォークを動かす。必ずサラダにデザートまで用意してくれるシーザーのおかげで、メイドの不在にもかかわらず彼の食生活は充実そのものだ。朝食こそ一人でとるが、昼にはシーザーの持たせてくれる弁当、夜は手ずからサーブする食事で至れり尽くせりとはこのことだろう。休日ともなればひどいもので、下準備から何時間もかけて丁寧に作った料理の数々が並ぶ。朝に弱いはずのシーザーが早くから買い出しの成果を手に訪れてくれるのはもちろん喜ばしいが、ほっておかれるジョセフの不満もそのたびに積み上がっていった。
イギリスで生まれ育ったジョセフにはわかりかねるところがあるのだが、イタリア人であるシーザーはそのお国柄から食事をよほど大事にしているらしい。レトルトやインスタント食品で済ませることに罪悪感を持たないジョセフががみがみと小言を食らったのも一度や二度ではなかった。「おまえはほっておくと三食ファストフード漬けになりそうだからな」と言うシーザーの洞察はまったく当たっている。だからってやりすぎだろう、とジョセフは内心に恨みがましく見つめた。
彼の食生活を心配するシーザーはつまり、弟の世話を焼く延長でここまで尽くしてくれているのだ。片思いを持て余すジョセフにとって、それはなによりもつらい扱いだった。甲斐甲斐しく面倒を見てくれるシーザーの目にはほほえましいものを見るようなおだやかな光が宿っている。そうではなく、身を焦がすほどの熱がほしいのだと訴えることもできないジョセフは今日もシーザーの背を見送った。
リサリサが帰国する日の朝、自分も同行したいと言ったシーザーを待つジョセフはそわそわと腕時計を見ていた。約束の時間を過ぎたというのに、相手はいまだに姿を見せない。
いわゆる閑静な住宅地に暮らすジョセフの自宅は駅から少し離れているから、わざわざシーザーのアパート前で待ち合わせたのだ。電話もメールも試してみたが、シーザーの持つ旧式な携帯電話はすでに充電が切れているらしかった。
埒が明かないと踏んだジョセフはシーザーの部屋まで迎えに行くことにする。部屋番号は知っているものの、いつもは自宅まで彼が来てくれるからシーザーの部屋を訪れるのは今までに一二度あったきりだ。すっかり錆びた扉を横目に、古いインターホンを押した。
短い間のあと、とりすましたようなシーザーの声を面白く思いながら「おれだけど」と答える。それだけで通じる間柄であるから、すぐに扉が開いた。
「……すまん、寝過ごした」
「だろうと思ってたぜ。ま、急いでくれよ」
重苦しく責めるつもりはなく、あくまで軽く言ってみせる。今起きたわけではないだろうが、寝乱れた髪もそのままにしているシーザーが新鮮に見えた。
細く開いた扉から謝罪が届き、シーザーは「もう少し待っていてくれ」と繰り返した。これからの予定は母を迎えに行くだけなのだから、スージーQともども空港で待たせておけばいいだけの話だ。簡単に受けあったジョセフは閉まる扉を見ていたが、吹きつける風の強さに肩をすくめる。びゅうびゅうと響く音に埃が舞い上がり、思わずぎゅっと目を閉じた。おとなしく外で待つつもりだったが、これではたまらないと目の前のノブに手をかける。シーザーが扉を閉めたときも、鍵をかける音は聞こえなかった。
そろりと玄関に入りこんだジョセフは室内を見回してみる。ワンルームの間取りはジョセフにはずいぶん狭く感じられるのだが、奨学生であるシーザーにはこれ以上のものは望めないのだという。早く結婚して一緒に暮らしてえな、とはそのときのジョセフの感想だ。
ジョセフの寝室程度のスペースにキッチンやシャワールーム、机とベッドが収められているのがパズルのようで面白い。奥でクローゼットの中身とにらめっこしているシーザーの背中から視線を動かせば、シンクの下の戸からビニール袋がのぞいているのが見えた。
一時的にしまわれているだけのゴミ袋らしいそれからは、色とりどりのパッケージが透けている。それをまじまじと見つめながらジョセフは一度まばたきした。
「……あれ?」
小さな呟きはシーザーにも聞こえなかっただろう。こっそり部屋に上がり込んだジョセフはしゃがみこんでその袋を取り出してみた。しっかり封をされたビニール袋は間違いなくシーザーの生活から出たゴミに違いない。そこにいっぱいに詰められたインスタント食品の数々は、ジョセフの中でシーザーとはまったく相容れないもののはずだった。
シーザーの性格から考えて長い間ゴミを放置しておくようには思えない。ならばこのいっぱいのパッケージの山は、せいぜいこの一週かそこらの間にたまったものだろう。もう一度ビニール袋を揺らしたジョセフの鼓膜を人の声が叩いた。
「……なっ、おまえ、なにしてやがる!」
「あ? 外、風強くてさァ」
問いかけにわざとちぐはぐな返事を返す。狭い部屋をあっという間に横切ったシーザーの顔は生活を覗き見られたという気恥ずかしさにだろう、血色がいい。それに見せつけるように手の中の袋を振れば彼の唇が開いたり閉じたりした。
「なあシーザー、これなあに?」
「……………………ゴミだ」
わかりきったことを絞りだすように答える年上の男に場違いな笑みが浮かぶ。元通りシンクの下に袋を戻したジョセフは立ち上がり、シーザーと視線を合わせる。ボタンを留める途中だったのだろうシャツの隙間から鎖骨がのぞいているのをつとめて無視しなければならなかった。
「いつもおれに栄養バランスだの添加物だののお説教してくれるくせに、自分はこんなのが好きなんだァ?」
「…………好きなわけじゃあない」
分が悪いことを悟ったシーザーの視線は床のあたりをうろうろしていた。それがちょっぴり面白くなって、ジョセフの声にはついからかうような響きが乗ってしまう。母とメイドには悪いが、しばらく空港で時間をつぶしておいてもらおう。もう、彼の支度を急かす気もなくなっていた。
「てっきり、シーザーは料理が趣味なんだと思ってたのに」
「そんなわけないだろう。いちいち自炊してたら、手間がかかりすぎる。その時間でバイトしたほうが効率的だ」
「……んん? でも、オメー……」
はっきり言い切ったシーザーにジョセフは怪訝な表情を浮かべる。確かに、彼の言うことはもっともだ。学生の身空とはいえ、朝な夕なにきちんとした食事を用意するのは少なからず面倒なことだろう。しかしジョセフはシーザーの手料理を数えきれないほど味わっている。それらを一度として手抜きだと感じたことはないのだから、料理が面倒だというのならばそちらのほうがよっぽどに違いない。ジョセフのいぶかしむ視線にシーザーが耐えられたのは十数秒だった。
「――おまえに作るときは、別だ」
ごく小さな、ささやきといえる声はかろうじてジョセフの耳に届いた。ゆっくりと頬を赤くするシーザーにつられ、彼まで顔が熱くなる。別だと言うのは、ジョセフのためならば料理だって手間ではないという意味だと取っていいのだろうか。とっさになんと言っていいのかわからないジョセフは、沈黙のうちに自分の鼓動が早まっていくのを聞いていた。
シーザーがいちいちジョセフのために食事を用意してくれるのはそれが趣味だからだと思っていた。料理が日常であり、苦でないからこその善意だと思っていたのに、実際はまるで逆らしい。ほとんど自炊をしない彼が、手際がいいわけでもなく、面倒だと感じているはずの料理を振る舞ってくれるのはただ、ジョセフのためだからだ。
それほど特別扱いされているらしい彼という存在は、シーザーにとってどれほどの大きさなのだろう。気心の知れた友人、あるいは手のかかる弟なのだろうと諦めていたジョセフの胸のうちがあたたかくなる。シーザー、と呼びかけて触れた手から彼の体温を感じた。
「……服」
「服?」
唐突に示された単語にオウム返しで答え、つられて彼の全身を眺め回した。ベルトも通していないスラックスも、はんぱにボタンを閉めただけのシャツも脱がしやすそうで好都合だとジョセフの頭の中で計算が始まる。それを遮るように無理やり手が振り払われ、勢いよくそっぽを向いたシーザーの背中から続きが聞こえた。
「服が……着替えがまだだから、もう少し待っていてくれ」
言って部屋の奥へ戻るシーザーに、少し遅れてからジョセフも理解した。これから母を迎えに行くところだった、今しがたのやりとりですっかり頭から抜け落ちていた。クローゼットで探しものをしているシーザーの耳は赤いままだ。彼がジョセフのことをそれだけ大切に思ってくれているのなら、案外先行きは明るいのかもしれない。母が帰国する日だというのに、次に二人きりになれるのはいつだろうと考えるジョセフの口角は持ち上がっていた。
it's not love movie(現代パラレル)
イタリア人は時間にルーズ。
イタリア人は女好き。
ひとを性別や職業といったラベルで判断することは好まないおれだが、真理だと納得せざるをえないときもある。つまり、シーザーのことだ。
おれの友人であるシーザー・ツェペリは世間で言われるイタリア男の特徴にみごとに当てはまっていた。女と見れば年齢も関係なく必ず声をかけ、約束の時間には必ず遅刻してくる。妙なところでラテン系らしからぬ几帳面さを発揮するくせ、こればかりはしみついた習性のようだった。
待ち合わせには遅れてくるものの、息を切らせて早口で謝るシーザーの姿を見れば怒りもしぼんでしまう。あんまり毎回遅刻してくるものだから、おれも合わせてゆっくり行く習慣になりつつあるほどだ。今日も「すまない、遅れる」とだけ書かれたメールを開いてカフェで相手を待つくらいの余裕はある。
このメールを受信したのが1時間近く前のことだから、あと10分もしないうちに駅から走ってくるシーザーの姿が見えるはずだ。汗を流し肩で息をするシーザーのために、セルフサービス式のウォーターサーバーから水を1杯持ってきておく。駅の出口が見える窓際の席をわざわざ選び、早くあの金髪が駆けてこないかと時計と外を交互に見比べた。
それから15分ほどでカフェのドアが開かれた。計80分の遅刻。予想通り、額に汗を浮かべて荒く息をつくシーザーは電車に乗る前も乗ったあとも全力で走ってきたのだろう。すまないと何度も繰り返すシーザーに怒ってないことを示すため、乱れた髪を撫でて軽く整えてやる。それにほっとしたように肩の力が抜けるのがわかりやすいことを本人は知らないのだろう。
いまさら、シーザーの遅刻に怒ったりしない。おれは気に食わない相手と休日の約束を取り付けるほどねじくれた性格をしていないのだ。メールを受け取ったときおれはまだ電車の中にいたし、駅についたあとは本屋でコミックを品定めしていたから、シーザーを待っていたのは実質20分ほどだ。
すまない、ともう一度言うシーザーに水の入ったグラスを渡すと一息に飲み干す。よっぽど焦ってやってきたんだろう。待っている間に一人で飲んでいたカフェオレの代金を渡され、素直に受け取った。正直なところを言えばシーザーよりおれの方がよっぽど生活に余裕があるのだが、詫びのしるしとして受け取っておいたほうがいいことはもう学んでいる。コーヒーチェーン店に立ち寄る習慣のなかったおれが、新商品の広告を見るたびに「今度待たされる間に頼もう」と思うくらいにはこいつの遅刻には慣れていた。
イタリア人は時間にルーズ。イタリア人は女好き。シーザーはまさにイタリア男の特徴を体現している。こいつはおれとの約束には遅れて来るのに、女の子との待ち合わせには遅れたことがないというのだ。シーザーがどんなときでも女を優先するのは知っているが、明確に順位をつけられるのは面白くない。数十回めにして、すでに慣れた遅刻にわざと眉をしかめてみせた。
「おめー、ほんとに毎回遅れてくるよなァ。そんなにおれと会うのがいやなわけ?」
言いながら紙製のカップをダストボックスに放り込み、並んで店を出る。嫌味をぶつけたものの、そんなわけはないということはとっくに理解していた。喜怒哀楽を隠すことが苦手なこの男のことだから、気に食わない相手と談笑できるような芸当ができるはずがない。おれはシーザーに好かれていることを確信している。本人は気づかれていることにも気づいていないのだろうが、その証拠は並べ立てるのもばからしいほどあふれていた。
「そんなわけないだろう。おれだって遅れたくて遅れてるんじゃあない」
開き直ったようなせりふにカチンとくる。慣れてるとはいえ、見越して行動しているとはいえ毎回遅刻されて嬉しいわけもないのだ。シニョリーナ相手なら一刻も早く会いに行くよって感じなのになァ、ととげとげしい口調で攻撃した。映画を観に行こうって言ってたのに、このままじゃ楽しめそうにないと頭の中で冷静な声がする。完全にそっぽを向いたおれの後頭部に弱々しい声が降った。
「……その、なぜおまえとの約束にばかり遅れてしまうのか、おれにもわからんのだ」
「だから、楽しみにしてないんだろ? イヤイヤだから電車も逃すんだよ」
切り返しながらふと、おれはシーザーが遅刻する理由を知らないことに気づいた。どうせのろのろメシ食ってるんだろうとか、途中で女の子をナンパしてるんだろうとか、聞く前に片付けて納得していたからだ。そのわりにシーザーは毎回しゅんとしているし、その程度のことなら次から直すだろう。妙だな、と思い至ったところで甘いテノールが聞こえた。
「……寝過ごすんだ」
「へ?」
「おまえと約束した日は必ず寝過ごす。おれにも理由がわからないんだが」
思いがけない言葉に振り向けばシーザーはわずかに目を伏せ唇を噛んでいた。一限や朝のバイトを休んだことがないという男だから、自身のだらしないところを口にして情けなく思っているのだろう。照れているような怒っているような、見たことのないシーザーの表情に目が泳ぐ。
寝坊なら誰しも一度や二度は経験したことがあるはずだ。それにしても、おれとの約束のときだけ寝坊し続けるというのは納得できない。なんか心当たりねえの、と問う声が我ながら妙に心細かった。
「心当たり……と言われても、だな……」
まじめに考えこむシーザーのつむじが見える。そんなに下ばっかり見て、ぶつかるんじゃねえの。手を引いてやりたいところだが、あいにくここは駅前の大通りでおれたちはガタイのいい男同士だ。手を取ったところで振り払われるだけだろうし、おれだってそんな趣味はない。そう思うのに、前から歩いてきた高校生に気づかないでいるようだったから仕方なく肘を掴む。一人で歩く女なんてシーザーが見逃すはずないのだが、シャンプーの香りが通りすぎたあともこいつは顔を上げなかった。
「……ああ、そうだな。おまえと約束がある日は寝つきが悪い、ような気がする」
「んだよ、おれのせいかよ」
ぱっと顔を上げるシーザーに抗議する。寝つきがいいとか悪いとか、そんなのおれのせいじゃねえだろ。横を歩くシーザーは構わずにまっすぐおれの目を見て「一回や二回じゃないんだ、なにか理由があるかもしれないだろう」と言った。
シーザーが不眠症だという話は聞かないし、そもそもおれなんかよりずっとまじめに大学に通っている男だ。そうでなきゃ奨学金を受けられない。多少ハメを外すことはあってもおおむね規則正しい生活を送っていることはよく知っているのだが、そんなシーザーがなぜ。こいつと違って睡眠に悩んだことのないおれは首をひねるしかなかった。
「おまえに会う前の晩はなかなか服を決められないしな。それで夜更かしになっているのかもしれん」
「…………ヘエ」
なんと返したらいいのかわからずぎこちない応答になった。シーザーはそれを気にしたようすもなく、「なにか関連が……」と深刻そうに考えこんでいる。着るものに気を遣うこいつが前日の晩からコーディネートを決めていることは知っていたが、それがおれと会うとなると悩んでしまうってどういうことだ。いや、言わなくていい。シーザーもそれ以上考えるな。結論に達したらどうする。肝心なところでカンの鈍いこいつとは違って、おれの優秀な頭脳はすでに仮説にたどりついていた。
前の晩からソワソワして服も選べなくなって、楽しみでいるうちに眠れず寝過ごすってどこの中学生だ。それもだいぶ色ボケしてる。本当に中学生ならかわいげがあるものの、シーザーもおれも立派な大男だ。こいつがゆうべ、クローゼットと鏡の前を往復しておれに見せるための服を選んでいたのかと思うと、……ちょっぴりだけかわいいかもしれないな。うん。
それだけ楽しみにしているくせ、当日は遅刻してくるのが抜けているというかなんというか。口角がむずむずして勝手に持ち上がりそうになるのを押さえこむ。遅刻ですこしばかり苛立っていた心も落ち着くような気がした。
このままではシーザーの色ボケがおれにまでうつりそうだ。それを示すように、見慣れた金髪がいつもよりキラキラして見える。手遅れになる前に、とシーザーの手を握り映画館までの道を急いだ。
きっと明日は成功
水で満たされたコップに指を入れ、目を閉じて精神集中。そのコップをひっくり返せば波紋プリンのできあがりのはずが、逆さにしたとたん液体はすべて流れておれの足元を濡らした。
「チクショー、ぜんぜんできねえーッ」
それは以前師範代たちに見せられた、波紋の応用だ。逆さにしたコップから水をこぼさないようにできるんだから楽勝だぜ、と思ったもののこの課題はなかなか手ごわかった。今みたいにすべてこぼしてしまうこともあるし、うまくいったかと思っても固定できているのは水面から近い部分だけでコップを動かせばすぐに流れだしてしまう。師範代にからかわれるのがくやしくて、この数日間は修行を終えたあとも自主的に練習しているのだがいっこうにものにならなかった。
「さっきの方がよかったぞ。集中を切らすな、ジョジョ」
先輩風を吹かせてアドバイスしてくれるのは兄弟子であるシーザーだった。おれの横に並んで立ち、同じように水をプリンに変える練習に励んでいる。えらそうなことを言うくせ、こいつだって成功したためしはなかった。連日過酷な修行をこなして着実に強くなっているとは思うものの、まだ形にならないのが本当のところだ。
プリンといえばとっつきやすいように思えるが、要は固体だ。液体である水をやわらかいとはいえ固体に変えるのだから大きなエネルギーと、繊細なコントロールが必要となる。ちなみに、リサリサは水を石の固さに変えることができると聞いてあの女に逆らうのはやめようと思った。部屋のシャワーから小石が降ってきたらたまったものではない。
「はーっ、無理だね。やってらんねえぜ」
今日17回めの失敗にやる気をなくし、地面にしゃがみこむ。石段の冷たさが尻から伝わってきた。この数段を下りれば館の中庭で、うしろはキッチンにつながる扉だ。水の調達が簡単で、床を濡らしても許されるところといえば自然と場所は定まる。シャワールームは個人の部屋に備えつけられているのだからそこでやれば簡単なのだが、そこは人情だ。せっかくシーザーと一緒にいられる時間なのに部屋にこもるわけないだろ?
早々に諦めたおれとは違い、シーザーは懲りもせず波紋プリンの練習に励んでいる。目を閉じたその顔には小さな傷がいくつも浮かんでいるのに、そこらの女よりずっときれいに見えるから不思議だ。恋人の欲目にせよ、本当に整った男だと思う。天然物の金髪碧眼なんてなかなかお目にかかれない。
本音を言えば、こんな練習は後回しにしてシーザーといちゃいちゃしたい。そう切り出したところ、リサリサを崇拝しおれに埋められた指輪を心配するシーザーはたいへん怒った。たいていのことなら論破できる自信があったものの、「おまえが死んだら、おれはどうしたらいい……」と泣き出しそうに言われては修行に励むしかない。愛されているし、案じられているとは実感しているもののちょっぴりつまらない気持ちでシーザーを見上げる。もっと構ってほしい、できたらこんな修行の延長じゃあなくて。正面から月の光で、後ろから屋敷の光で照らされる金髪はきらきらして見えた。
特徴的な呼吸のあと、逆さにしたコップが持ち上げられる。成功ならば、シーザーの指のまわりに水のプリンができあがっているはずだった。期待もむなしく、垂れた液体がシーザーの腕を伝って地面に落ちる。どうやら今日も二人そろって成果なしらしい。
そろそろいいだろう、と見切りをつけて立ち上がった。互いに集中が切れかけているのは確かだ。これ以上続けても疲れるだけだぜ、とかなんとか丸め込んで部屋に連れて行けばいい。おれがまじめに修行に取り組む限り、シーザーはエッチも嫌がらなかった。
声をかけようとしてふとシーザーの手もとに視線を落とした。そこは濡れているわけだが、なんだか別のもののように見えて目を凝らす。シーザーの手のひらを伝い肘先から垂れる液体は妙に粘りがあるように見えた。
「……なに、それ?」
「水だ。なかなかうまくいかないな」
大まじめに答えたシーザーは自分の肌を濡らす液体をすくいあげては検分している。指の間に光る糸が見えて思わず身を乗り出した。粘るそれはたしかに水なのだろうが、波紋によってずいぶん変質しているらしい。水を固まらせようとして失敗したのがはんぱに粘り気をもたらしたのだろうか。肘から先だけとはいえ粘液にまみれるシーザーはなんだかエロくて、自分の喉が鳴るのを聞いた。
「……おい、ろくでもないこと考えてるんじゃねえだろうな」
「そ、そんなわけねえだろ」
慌てて答えたのが不自然に早口になってしまったのは否めない。あのドロドロしたので濡らしてこすってもらったら気持ちいいだろうなとか、これで慣らせばシーザーも気持ちいいんじゃないかとか、ついよこしまなことを考えてしまった。ねばねばしたものなんて気持ち悪いが、もとが水なのだから問題ないだろう。体温で温めればいい潤滑油になるんじゃないかと算段を立てた。
「……言っとくが、無理だぞ」
「へっ?」
「つねに波紋を流していないともとに戻っちまう。妙なことには使えないってことだ」
言われれば、シーザーの腕を濡らす液体はすでにただの水のようだった。先ほどまでの粘度はなく、たださらさらと流れ落ちて石段を濡らしている。確かに、波紋によって性質を変えているだけなのだからつねに流し続けないともとに戻ってしまうだろう。リサリサや師範代たちならわからないが、今のおれたちには波紋を持続させることなんてできなかった。
そこまで考えてふと気づく。シーザーはなぜそれを知っているのだろうか? 今の口ぶりはすでに試したことがあるような言い方だった。水がこんなふうにドロドロになったところなんて見たことがないから、おれの知らないところでということになる。一日のうちほとんどを一緒に過ごしているおれたちが離れるのは寝るときくらいのものだ。つまり、シーザーはベッドに入る直前、あるいはベッドの中でこの現象を知ったのだろう。そこまで考えてある仮説が浮かんだ。
「――シーザー、それ試したのか?」
「……なにをだ」
「波紋を流し続けてないと水に戻るってこと。いつ知ったんだよ?」
じりじりと詰め寄るとシーザーが後ずさる。屋敷に続く扉は閉じたままだ。旗色が悪いことを悟ったのか、シーザーの目が露骨に泳ぎ始める。掴んだ右手は濡れて冷たいままだった。
「一人でしたんだろ?」
「……ッ!」
核心をつけばシーザーは身を翻して逃げ出した。しっかり掴んだつもりだったのに、ケンカ慣れしている相手は手ごわい。勢いよく開かれた扉が大きな音を立てるのも構わず廊下を走り去る、その反応がなによりの答えだった。
「……まじかよ……」
あのドロドロの液体にまみれて、シーザーが一人でしているところを想像すると下っ腹が熱くなる。自身を慰めたのか、後ろを拡げたのか、どちらでも大興奮だ。おれが迫ると乗り気でないふりをするくせ、あいつも性欲を持て余していたりするんだろうか。きっと今晩は手加減しなくてもいいだろう。
思わぬ波紋の活用法を知って、明日からもまじめに修行に励もうと心に決める。まずは水をドロドロにできるようになって、それを持続させられるようになりたい。もう波紋プリンなどどうでもよくなって、まずは逃げたシーザーを見つけるべく館につながる入口をくぐった。