こうして訪れるのももう何度目かわからないが、シーザーはいまだに男の名前を知らない。ポストに掲げられていた「JOJO」の文字はなにか意味があるのだとしても、本名ではないだろう。何度も肌を重ねながら相手のことを何も知らないのが滑稽だ。シーザー自身の名前も、教えていなかった。
誰かに抱かれるというのはひどく体力を消耗するものだとシーザーはしみじみ知った。脱力しきった体をベッドに預け、しばらくは起き上がれそうにない。
回数を重ねるうち、はじめほどの苦痛はなくなったが疲労の大きさは変わらないように思う。用が済めばすぐに蹴り出すような冷たい相手でないのはありがたかった。何度も指名されるくらいだから、よほど具合がいいに違いない。男であるシーザーが同性に体を気に入られたところであまり嬉しくはなかった。
できるだけ汚さないように努めてはいるが、まさか耽ったあと同じシーツの上で寝るわけにはいかないだろう。その手間を思うと、ホテルにすればいいのにとお節介ながらシーザーは心配してしまう。こんな立派なマンションにデリヘルを呼びつけるなんてこの男くらいじゃないだろうか。もっとも、防音で言えばラブホテルの数倍優れているのは間違いがなかった。
本当はまだ寝ていたいのをこらえて体を起こす。のろのろと服を身につけ、ベッドサイドに置かれた紙幣を鞄に突っ込んだ。一度チップとして大幅に上乗せされていたことがあるから枚数を確認するのを忘れない。結局、そのとき余分に貰った金額は次にマンションに来たときに枕の下に押し込んでおいた。それ以来、店の取り決めた規定料金ちょうどが置かれている。
シャツのボタンをぜんぶ留めたところで寝室のドアが開き、水とグラスを手にした男が顔を出す。「もう帰んの?」と聞くのが不似合いに思えた。シーザーは友人ではなく、金で時間を切り売りするだけの相手だというのに。とはいえ、シーザーも少しずつ男への親しみを覚えている。肌をかわせば情が移ると言うが、それでなくとも毎週顔を合わせる相手だ。相手の言葉に笑うこともなく「ああ」と答えた。
「おめーって、学生? もう働いてんの?」
「……どっちでもいいだろう」
脈絡のない質問をかわす。学生だと返事してもよかったが、相手について何も知らないというのにこちらのことを教えてやることもない。はぐらかされても男は気にするようすもなく、持っていたグラスをサイドテーブルに置いた。
「夜だけじゃなくって、昼もあいてたりしねえかなって思ったんだけど」
「……あいている、こともある」
同じ時間働くなら夜のほうが割がいいので他のバイトでは夜勤を希望している。そのときどきではあるが、大学がない日は日中暇であることも多かった。この仕事を仲介する店も、休日の午後なら営業しているはずだ。
仕事の依頼ならば嘘をつきたくない。シーザーの本意とは異なるが、この男のおかげでだいぶ稼がせてもらっている自覚はあった。
「じゃ、昼でもオッケーなわけ?」
「まあな。いつでもってわけにもいかないが」
ボトムを穿きながら答える。今まであまり経験はないが、双方の都合が合えば昼間でも応じられた。それよりも、この男こそ日中暇にしているのだろうか。なりばかりでかいくせ子どものようなところがあるし、かと思えば妙に世間ずれしたところもある。不思議に思うことはいくつもあったが、深入りするのはいつもためらわれた。
「土日なら、どう? あいてる?」
「急な約束がなければな。だが、店が営業するのは基本的に夜だぞ。あまり妙な時間だと受け付けられないぜ」
「いや、店っていうか……あー、気をつけマス」
それまでの熱っぽいようすから一転、気のない返事にまた疑問符が浮かぶ。多少は気やすくなったとは思うが、なにを考えているか読めない男であるのは変わらない。「またな」と玄関先で別れるのがやはり滑稽だった。
そんな会話があった次の週末、土曜日にシフトを入れたシーザーは自室のベッドに転がり手持ち無沙汰にしていた。
あの言い草からてっきり昼に呼ばれると思っていたのに、店からかかってくるはずの携帯はゆうべからずっと沈黙したままだ。あの男と出会ってからは、週のはじめのうちからシーザーへの予約が入っているのが常だったから店の側もあてが外れた格好らしく、他の客にと呼ばれることもなかった。
夜になればと思っていたが、すでに深更と言っていいころだ。今からでは注文されたところで店も断ることだろう。思わせぶりな野郎だ、とむなしく毒づいたシーザーは手にした携帯を放り投げる。
明日は大学も他のバイトもないオフだ。あの男が指名してくれるおかげで、身を削るほど働かなくても食っていけるようになった。あとはいつ飽きられるのだろう、と期待か不安かわからない感情を抱いたまま強引に目をつぶる。こういうときは寝てしまうに限ると、20年の経験から学んでいた。
翌日の日曜日、午前9時を回ってから起きだしたシーザーは枕元で光る携帯をたぐり寄せた。予定のない休日で、大学生としてはかなり健康的な時間に起きたと思っている。日頃は寝起きの悪い彼を数秒で覚醒させたのは液晶を白く光らせる留守番電話だった。
――ハロー、これシーザーの番号だろ? 違ったら悪い。おれ、ジョ……あー、名前は教えてなかったな。とにかく、11時にこれから言うところに来てくれ。嫌なら無視していい。場所は――
録音を聞き終えたシーザーは猛然と身を起こした。その顔には眠気など余韻も残っていない。彼が見上げる先で、壁掛けの時計は9と10の間を指している。残された声は聞き間違えようもない、毎週顔を合わせる酔狂なあの男だ。
洗面所に向かいながら、言われた場所まで電車でどのくらいかかるか計算をめぐらせた。シャワーを浴び、急いで身支度を整える。シーザーの焦りをあざわらうように時計の針は刻々と場所を変えた。気が急くあまり、クローゼットに肘をぶつけたところで急に頭が冷える。
なにも相手の言い分に従うことはないのだ。当日の朝に約束を取りつけようという男の方が非常識で、シーザーが予定を合わせてやる必要はどこにもない。先約があるだとか、留守電に気づかなかったとか、理由はどうとでもつけられる。
行かなければ、相手はどうするだろう。「嫌なら無視していい」、機械越しの声が耳に残った。シーザーが約束の時間に現れなければ男は察して諦めるだろう。嫌われていると誤解するかもしれない。そんな勘違いをさせるのは避けたい気がした。
どうするべきか考えるところに折悪しく、ガールフレンドの一人から電話がかかってくる。通話ボタンを押したのはほとんど反射で、自分の口からすらすら流れてくるせりふにシーザー自身驚いた。
「チャオ! 電話ありがとう、アニー。きみの声が聞けるなんて、なんて幸運な朝だろう。……ああ、今晩かい? すまない、もう予定があって……そうなんだ、きみに会えないなんて日曜日の意味がないな。また埋め合わせするよ、楽しみにしていてくれ」
早口に通話を切ってから、今のは男の誘いを断る絶好の口実だったと気がついた。女性とのデートを優先するのがシーザーの当然なのに、無意識にあの大男を選んでしまっている。なんてこったと天を仰いだが、肝心の相手は非通知でリダイヤルもできなかった。
そういえば、仕事で教えるはずのないシーザーの電話番号をなぜ知っているのだろう。選んだトップスに袖を通しながら小さく舌打ちした。
シーザーが言われた場所に着いたのは11時の数分前だった。早くしないと、相手は断られたと思って帰ってしまうだろう。せっかく駅から走ってきたというのにそれでは甲斐がない。慌ててまわりを見渡せば頭ひとつ抜けた長身が見つかった。
それだけ背が高ければ探しものもしやすいのだろう、声をかける前に大男が近寄ってくる。「よぉ」と片手を上げる姿になんだか力が抜けた。
「来たんだ」
「……お前が呼びつけたんだろうが。非通知なんかでかけてきやがって、返事もできないだろう。おれが来なかったらどうするつもりだったんだ。それに、なんでおれの番号を……」
「ストーップ。早くしねえと始まっちまうぜ」
当然の文句を遮った男は手に紙切れを持っている。小さなそれが映画のチケットだとわかりシーザーは首を傾げた。そういえば、なぜいきなり呼びつけられたのかも聞いていない。もう一度口を開く前に強引に手を取られてたたらを踏んだ。
「あ、おい……」
「シーザーって、映画見るときはコーラ派? ジンジャーエール?」
「……アイスコーヒー」
語尾を上げる質問につい答えてしまう。面白がるような笑い声に無性に腹が立った。待ち合わせ場所に指定された広場はそれなりに混雑しており、そんな中片手を引かれて歩くのはどうもいたたまれない。無理に手を剥がすと男は心配そうにこちらを見たが、横に並べば同じように歩き始めた。
「……なんで映画なんだ」
「これ、ずっと見たかったんだよねェ〜。やっぱさ、アクション大作とかワクワクすんだろ?」
「そうじゃあない。わざわざ人を呼びつけて、なにがしたいんだ」
問い詰める口調で告げると男の歩みが止まった。急に立ち止まられて一瞬面食らう。道を行き交う人々は男二人を器用に避けてくれた。「あー」と意味のない声を発した彼は落ち着かなく視線をさまよわせ、それからぽつりと「いねえんだ」と言った。
「こういうのに、付き合ってくれる友だちがいねえの。周りの連中はお高く止まったやつらばっかりで、口もききたくねえくらいだ。そんなのと一緒に映画観たって面白くもなんともねえだろ」
言われてシーザーは男の住む部屋を思い出した。シーザーが払う家賃の数十倍はするだろう豪華な部屋だから、そこに暮らす彼とお近づきになれるのは同じくハイソサエティの住人だけに違いない。これが観たい、と彼が持つチケットは派手なアクションが売りの、言ってしまえば子どもっぽい映画だ。優雅なパーティを楽しむセレブたちにはあまり受け入れられないだろう。
なるほど、とここにいたってシーザーは得心した。この男にとって、唯一の卑俗な知り合いが自分なのだ。シーザーからすれば怒ってもいいような話だが、好きな映画を観に行く相手もいないのでは同情してもいい。デリバリーヘルスのような無駄金を使うのも日頃の鬱憤だろうか、邪推はそこまでにとどめた。
「……せめて、どこに連れて行かれるかくらいは教えてくれ。こっちは服を選ぶのも大変だったんだ」
ため息混じりに言えば言いたいことが伝わったのか、沈んだようなブルネットがたちまちに上向く。前髪の下に喜色を見つけたシーザーは苦笑いした。「ここまで来ちまったからな、付き合ってやるよ」と口にすると豪快なガッツポーズが返ってきた。
「じゃ、行こうぜ! 急がねーと、早く早く!」
とたんに元気になった男に手を引かれてシーザーも走りだす。その途中で大型犬に引きずられる男性を見かけ、なんだか親近感を覚えてしまった。
劇場を出たあとも男は元気だった。映画はヒーローが敵と肉弾戦を繰り広げつつ、生き別れた兄の洗脳と戦い、最後は敵を殲滅したあとヒロインとキスをするお決まりの展開だったが、戦闘シーンは確かに胸躍るものがあった。
興奮が醒めやらぬようすの男に引きずられ、ファストフード店でフライドチキン片手にしばらく話し込んだ。シーザー自身ああいった、つまり女性受けのしなさそうな映画を観るのは久しぶりで話が弾んだ自覚はある。その合間に「お前、こんな店に来るのも初めてだろう」とからかうと相手は頬をふくらませた。
「んなことはねえよ。おれ、フライドチキン好きなのよねェー。また来たいってずっと思ってたんだけど、ばあちゃんにばれたら怒られそうだし。屋敷に連れ戻されて、コックの料理しか食えなくなるなんて真っ平だもんな」
「…………そうか」
シーザーはそう言うにとどめた。生活水準が違いすぎるのだ。
実家を出て一人暮らしをしているのだろうとは思ったが、コック付きの生活などシーザーの想像できる範囲ではない。勤労学生からすればただただ羨ましい限りだが、妬みのような醜い感情は生まれなかった。それは自分の性状というよりは、目の前のこの男のなせる技だろうなとぼんやりコーヒーをすする。「おれが呼びつけたんだから」と、映画のチケットもここでの食事も代金は向こうが払っていた。
店を出てすぐに辞してもよかったのだが、なにごとか顔を輝かせた男に手を取られて機会を失った。彼が駆け寄った先はどこにでもあるゲームセンターで、ぴかぴかする機械を物珍しそうに眺めている。でかい弟ができたようで、根負けしたシーザーは「なあ」と後ろから声をかけた。
「どうせ、こういうのも知らないんだろ。一緒に入ってやろうか?」
「あっ、テメー子ども扱いしてんだろ! お願いします!」
威勢のいい声にこちらまで唇が持ち上がる。シーザーの方も足繁く通っているわけではないが、女性の好みそうなゲームなら慣れていた。
音ゲーを目の前でプレイしてやるとさして上手くもないのに一人分の拍手が聞こえる。ためしに、と始めたメダルゲームでは一発でジャックポットを引き当てた男にシーザーの方が目を丸くした。飽きっぽいのか、当てたメダルをすべて使い切る前に周りの客にプレゼントして他のゲームを始める。わからんやつだ、と内心に笑いを噛み殺してシーザーもあとを追いかけた。
彼は二人でプレイするタイプのガンシューティングゲームがお気に召したらしく、シーザーも2時間近く付き合わされた。はじめはまったく息が合わないのが、あるところで互いの呼吸を掴んだらしく次々と敵を蹴散らすのは確かに爽快ではある。それにしてものめりこんだようすの男に「なんでそんなに熱中できるんだ」と聞けば、きょとんとした表情にぶつかった。
「だって、シーザーと二人で敵を倒せるなんて最高じゃん」
よくわからない理屈だが本人はそれで十分らしい。言う間に次のステージに進んだ画面に、シーザーも銃型コントローラーを握り直した。
薄暗いゲームセンターの中では気づかないが、いつの間にか日も落ちてだいぶ経つころになっている。庶民の娯楽をお坊ちゃんに教える役目も十分だろう。腕時計に目を落としたシーザーは今度はレースゲームに興味を示したらしい男の袖を引いた。上背で負けているせいで、首根っこを掴んでやりたくてもできない。それは少しばかりくやしいところではあった。
「おい、いつまで遊んでるんだ。もう十分だろう」
そう声をかけると引きつったような顔がシーザーを向く。見当違いの方向に走りだそうとするのを手に力を入れて引き止めた。帰りたくないの、と暗闇でシニョリーナが甘えてくるのは悪い気はしないが、この男はただ自分が遊びたいだけに決まっている。本当にガキだな、とはシーザーの感想だ。昔、幼い妹たちを相手にしていたときを思い出す。喜ぶからと望むようにしていれば、遊び疲れて熱を出すのだ。
帰るには健全すぎる時間だが、いきなり呼び出されて付き合ったにしては十分だろう。シーザーがもう一度促す前に「あ!」とでかい声が響いた。
「おれ、腹減ったなー……って……」
「…………」
「シーザー、このあと予定ある? ないだろ? 帰って一人でメシ食うなんてさびしーっての、一緒に来てくれよ!」
言外に「まだ付き合わせるのか」と冷ややかな視線を向けると拝むような勢いでおねだりされる。シーザーとて一人暮らしであるから、部屋に戻れば一人の食事なのは同様だ。確かにあれは少々味気ない。見た目よりも幼いところのある彼にはますます耐えがたいことだろう。
「……お前の奢りだからな」
「もちろんだぜ! まかせてくれよな!」
譲歩してやればとたんに飛びつかれる。二度と会えなくなるわけでもないのに、こんなにも別れを拒まれるとは思わなかった。一日が終わることに恐怖している子どもと同じだな、と納得して笑みを浮かべる。そのシーザーの表情を楽しみにしていると思ったのか、エメラルドグリーンの瞳が嬉しそうに細められた。
それから目当ての店まで小一時間歩かされたのだから、腹減ったと言うのがまったくの方便であったことが知れた。車でもよさそうな距離を徒歩で行ったのはそのほうが長く話していられるからという理由だろうか。目的地を知らないシーザーは案内されるまま延々と歩くだけだったが、彼と一緒だと不思議と疲れを感じなかった。
ここだぜ、と言われた先は大通りから外れているし、メニューのたぐいも出ていないので一見そうとは知れなかった。よくよく見れば店名だけを書いた地味な看板があるが、それだけだ。飲食店らしくないたたずまいに首を傾げながらドアをくぐったシーザーはぎこちなく動きを止めた。
内装を見回して数秒でわかるほど高級な店だ。店のスペースに比してさびしいほどしかテーブルが置かれず、それぞれの間は植物やついたての影でうまく仕切られている。何組かいるはずの客の話し声は波のさざめきのようで、食器が触れ合う音も聞こえない。壁に埋め込まれた水槽が間接照明にきらめいていた。
「――いらっしゃいませ、ご無沙汰しております。お見えになるのを心待ちにしておりました」
「悪いな、予約しないで来ちまって。テーブルはあそこ?」
「はい、いつものお席をご用意してございます」
チェーン店のレストランしか知らないシーザーは落ち着きをなくしているのに、先導する男は店のスタッフに迎えられても動じた様子もなかった。直角に近いほど腰を曲げているのがどう見ても給仕やコックではなく、年かさの支配人らしき男であることにまた驚く。短い会話を交わした大男は迷いもなく店内を進み、シーザーも絨毯に躓かないように慌ててついていった。
「……おい、こんな立派なとこにおれが来てもいいのか?」
「ダイジョーブだって、ここなら平服でもギリギリオッケーだし」
通されたテーブルは水槽が一番よく見える席だった。「特別席」と書いたプレートが先ほどまで置かれていたのをシーザーは見ている。すでに椅子に掛けたというのにほとんど浮き足立つシーザーに、肘をついた男がなだめるように答える。多少しゃれたものを選んだとはいえシーザーは礼服などではないし、それは正面の彼も同じだった。ドレスコードがあればとっくに追い返されているだろうと思いつつ、やたらと喉がかわく。ブルネットを跳ねさせた男は毛ほども緊張していないようだった。
そこで供された料理はどれもこれも一級品なのだろうと思えたが、いかんせん緊張がまさるシーザーは何を食べたか覚えていない。メニューのたぐいさえ出ないのだからよっぽど高いのだろうと想像するだけだ。デザートが運ばれるころに天井を見るよう促され、頭を持ち上げると天幕が開くところだった。ガラス張りの天井から星の光が降り注ぐ。美しい演出をシーザーは空虚な思いで眺めていた。
生きる場所が違いすぎる。わずかな星明かりに照らされるこの男は先ほどまでゲームセンターで一緒にはしゃいでいたというのに、もうまったく手の届かない相手だ。シーザー一人ならこの料理の代金を払えないし、そもそも金を積んだところで店に入れてもくれないだろう。それをよくわかっているシーザーは気づかれないようそっとうつむいた。
まだ、男の名前も聞いていない。本人が言い出すのでない限り、シーザーがそれを聞く権利はないと思っているからだ。名乗らないということは、つまりその程度しか心を許されていないのだろう。当然だ。二人は友人ではなく、性を売買するだけの関係でしかない。なんの味もしないケーキを口に運ぶ。今日のことは夢として早く忘れてしまいたかった。
食事を終え、当然帰るはずのシーザーは行き慣れたマンションの前に立っていた。前回来たときに忘れ物をしていたと言われ、引き取りに来たのだ。なにかを置き忘れたような自覚はないが、部屋の住人がそう言うのだからそうなのだろう。「とにかく上がって」と言われるのに従ってドアをくぐった。
先に相手が入っていったのだから玄関の照明がついているものと思っていたが、予想に反してそこは暗い。後ろでドアのオートロックが作動するのを聞きながら手を伸ばし、壁につくはずの指があたたかいものに捕まえられてたじろいだ。逃げようとするのを許さず、体ごと抱き込まれる。正面から抱きつく男に首筋を噛まれ、シーザーは当惑に喘いだ。
「おい、ふざけるな……おれは、忘れ物を取りに」
「ンなの嘘だっての。のこのこついて来ちゃって、危機感足りねえんと違う?」
あっさりと種明かしをされてシーザーのまばたきが凍る。一瞬前までこの男の言葉を疑っていなかったのだから、確かに警戒心のたぐいは働かせるべきだったのかもしれない。嘘をついてまで部屋に連れ込んだ理由は一つしかないだろう。シーザーの思考を読んだような短い言葉が鼓膜を揺らした。
「抱かせて」
今日一日のできごとはやはり夢だったのだ。二人の関係は、性サービスの提供者とその客だ。暗闇の中で目を伏せる。わかっていたことだ。シーザーは自分にそう言い聞かせた。
腰に回された手を払いのける代わりに体を寄せる。吐き出したため息を悟られなければいいと思った。
今日のセックスはいつもとは違っていた。早々に全身を剥かれたシーザーはベッドの上に転がるばかりで、奉仕らしい奉仕もさせてもらえない。代わりに巨体が彼の上にのしかかり、いたるところを指と舌で撫で回された。常と違う雰囲気に飲まれたシーザーはあお向けになったままはっきりとした抵抗も見せず、吸いつかれるたびにつま先を丸める。脇腹をそっとなぞられる感覚に我慢できず喉を揺らした。
「ン、な…………なにが面白い、んだよ……?」
戸惑う声に、胸のあたりに乗っていた黒髪が持ち上がる。そこに宿る双眸は澄んだグリーンを映すというのに、その輪郭もおぼろげなほどに照明が遠い。すみずみまで明るい部屋で体を開かれるのに慣らされていたシーザーはそのことにも動揺していた。疑問を投げた先の男はあいまいにはぐらかすばかりで、今も答えないまま短い鼻歌でごまかしている。伸び上がった頭がシーザーの肩口に埋まり、跳ねた髪が耳のあたりをくすぐった。
「こういうのもいーだろ。それとも、シーザーはなんか不満?」
「……おれは、なにもしてない」
シーザーの低い声は理解されるまでに間があった。すこししてから噛み殺すような笑い声が聞こえ、息をつく振動が二人の体を揺らす。笑われたことに妙な恥ずかしさを覚えたシーザーが身を起こそうとしたが、自分よりも体格でまさる男にのしかかられていてはできない相談だった。
「んなこと気にすんなって。おれの好きにさせてよ」
肩に顎を乗せたままシーザーの方を向いたらしい男の声がすぐ耳元で聞こえる。それが注文ならば応えるだけだ。過去にもそういう相手がいなかったわけではない。もちろんシーザーの回想に浮かぶのは可憐なシニョリーナたちばかりで、同性に裸をまさぐられる経験はこの男が初めてだった。
諦めて力を抜いたシーザーの肌を男の手が這う。薄闇でおもちゃの形を掴もうとする赤ん坊を連想したが、性的なものを感じさせる手つきに認識を改めた。太い指先が胸筋をたどり、先端のわずかな隆起を確かめるように何度も往復する。物理的な刺激にそこが熱を持つのがわかった。
すこし膨らんだ乳首を手探りでつまみ上げられて息を殺す。これだけ密着した相手に気づかれないわけはないが、せめてものあがきだった。シーザーの意思とは裏腹に固く立ち上がった先端を指の腹で転がされても、つとめて何も感じていないような顔を装う。その間に鎖骨を舐められて呼吸が揺れた。時間をかけて開発された乳首をこねくりまわされ、じわじわと熱が上がる。遠ざかったブルネットが胸元に降りるのを感じ、次いで訪れた刺激に思わず声が出た。
「――んッ、ぅ……」
太い指に愛撫され、ピンと張り詰めた先端が舐められてにぶい快感を伝えた。それまでほったらかされていた方も男の左手が撫でている。小さな尖りを執拗に口の中で転がされ、シーザーの眉が耐えるように寄った。
たっぷりと唾液を塗りつけ、わざと音を立てるように吸いつくのにわかっていても煽られる。舌先で押しつぶされたかと思えばいたわるように優しくなぞられて呼吸が浅くなった。胸で快感を拾うことにも慣れ始めていて、背筋が震えるのに合わせて小さな呻きが漏れる。苦しい呼吸をやり過ごすために口を開いた瞬間歯を立てられ、シーザーの気の抜けた声が響いた。
「ふぁっ……、……!」
自分のものではないような高い声に驚いたシーザーは慌てて手で口元を覆う。胸で遊んでいた男の頭が持ち上がり、唇の上に重なった指にゆるく口づけた。
「声聞かせろって。そういうお仕事なんだろ」
やけに甘い口調は不思議だが、男の言うことは正論だった。派手に喘ぐのも最後まで唇を噛むのも客の注文一つで、そう要望されればシーザーに拒むことはできない。きつく覆っていた手をゆっくりと下ろしシーツの上に投げ出す。最後まで暴かれた相手なのだから、どうにでもなれという捨て鉢な思いに傾いた。
それに満足したらしい男は胸への愛撫を再開した。きまぐれなたちなのか、じれったくなるほどそっと触れた次の瞬間に甘く噛みつかれて心臓が追いつかない。背が浮くほど強くつまみ上げられたときは痛みと同時に癖になりそうな痺れを感じてしまった。
「――っあ、ぅ…………ン……っ」
「だいぶよさそーじゃん? こっちも硬いし」
「あっ、きゅ、に……!」
もどかしい性感に身悶えるシーザーの熱はすでに芯を持っていた。股間に伸びた男の手にいきなり握りこまれ、刺激される気持ちよさとわずかな恐怖に声がうわずる。重く溜まるばかりの熱が解放されるのを期待したのに、見透かすように大きな手が離れていった。
それをいぶかる前に後ろの穴をつつかれて反射的な悪寒がシーザーの体を駆けた。すでに慣れた行為とはいえ、勝手に濡れるような仕組みにはなっていない。体を起こした相手がサイドチェストのあたりを探るのが耳でわかった。そこから見つけてきたのだろうローションが足の間に垂らされ、冷たい液体が性器とその下を舐める。潤滑油を得て、今度こそ指が後孔に突き立てられた。
「ん……ぅ、っ……」
何度やってもこの瞬間は慣れない。巨体の重しがなくなった体を丸め、拳を握ることで異物感をやり過ごした。そういうプレイの指定がない限り、嫌がっているように見えるのはこの仕事においてマイナスだ。相手を萎えさせないようにつとめることがシーザーたちにとっての優先事項である。苦しそうな声は飲み込んで、媚びるように足を開いた。
長い指が根元まで差し込まれ、内側を撫でるようにぐるりと一周される。その動きが前立腺のあたりをかすめると期待に腰が浮いた。男性の弱点となりうるらしいそこは、何度も責められたおかげですっかり性感帯になっている。いまだにシーザーはそのことへの違和感を拭えないが、もたらされる快感はどうしても否定できなかった。
一度引きぬかれた指がさらに大きな圧迫感を伴ってまた入り込んでくる。増やした指で内壁を拡げるようにかき回され、シーザーの口から荒い呼吸がこぼれた。焦らすように緩慢な動きを繰り返していた侵入者がふいに性器の裏側をつつく。待ちわびた刺激に、演技ではない悲鳴が甘く響いた。
「あぁっ――! ん、ぁ……あぅ、あ……」
「ここ、いーんだろ?」
「ぁ、いい……ん、いいから……!」
得意げな声で聞いた男は言いながらも手を休めず、その部分を撫で続ける。ぐにぐにと指の腹を押しつけられて、高まるばかりの性感にシーザーは切れぎれに喘いだ。仕事でもプライベートでも相手に奉仕するのが常で、快感を与えられる側というのは落ち着かない。飽きずに後ろを責める男に訴えたがほとんど聞き流されたようだった。
「んぁあっ! 待っ、そこ……ッひ、んん……! あぁっ!」
弱いところを執拗に刺激され、発散できない熱が思考を鈍らせる。射精に結びつかない快感はつらいほどだったが、拒絶の言葉を投げることはできなかった。勝手に腰が跳ね、行き場のない手がシーツを引っ掻く。いっそイってしまいたいと性器に伸ばした手は男によって縫いとめられた。
「だぁめ。こっちに集中して」
「ん、な……ぁっ! イきた……!」
後孔の快感だけでは射精には至らない。みっともなく訴えた声は喘ぎにまぎれてうるんでいた。哀れっぽいその声を無視する男は変わらず指を動かすばかりで、なだめるつもりなのか、シーザーの膝頭に唇で触れる。固く張り詰めた性器からは先走りがだらだらとあふれ、苦しさと性感の間で頭がおかしくなりそうだった。
「も……なんか、ァ、おかし……ん、っあぁ!」
腹の底から湧きあがる感覚に身悶えする。理性を削る快感に溺れてしまいそうだった。悲鳴じみた喘ぎを上げるシーザーに男は笑ったようで、愛撫を続けながら覆いかぶさるように体を密着させる。耳元でささやかれ、その意味も理解しないままにシーザーは体を震わせた。
「――いいぜ。イっちまえよ」
「……っ、あぁッ……!」
体の内側で何かがはじけたような気がする。目の前がちかちかして全身が弛緩し、嵐が過ぎ去るのを待つしかできなかった。シーザーの呼吸が整うころに指が抜かれ、生理的な悪寒が背を這う。反射的に視線を天井から下肢にうつせば、シーザーの両膝が持ち上げられるところだった。
あお向けのまま腰を曲げる格好に、嫌でも自分の性器が目に入る。弱い照明に照らされるそこは濁った液体が絡みついていたが萎えた様子もない。絶頂に至ったと思っていたのに射精したわけでもなさそうで、ぼんやりした思考に疑問が浮かんだ。
膝が胸につくほどに腰を上げさせられ、奥まったところになにかが触れる感触でやっと我に返った。なにも隠せないこの格好は男女で言うところの正常位だ。指で開かれたところに男の性器が押し当てられ、切羽詰まった熱を訴えている。
セックスなら何度もした。常であれば後背位で、それは四つん這いの同性を組み敷くのが征服欲をそそるだろうと勝手に考えていた。性欲の発散でしかない行為だというのに見つめ合う必要はないと思っていたから、シーザーも納得していたくらいだ。それが今日に限って照明を絞ったりして、目の前の男が考えていることがわからない。聞こえる荒い呼吸はシーザーのものだけではなかった。
「……っ、クソ」
小さく毒づいた男は咥えていた小さな包みを乱暴に投げ捨てた。毒々しいパッケージのそれはいつも着けていたはずのスキンだが、封が切られていない。シーザーがその真意をただす前に体が開かれる感覚で息ができなくなる。挿れるぜ、とかすれた声のあとに一息で貫かれて体が跳ねた。
「――あああぁっ!」
「……ん……中、動いてる。きもち……」
挿入した男は満足気に息を漏らすが、受け入れるシーザーは応えるどころではなくただ肩を上下させている。わざわざ言われるまでもなく、自分の体が常にない反応をしていることは気づいた。視界が白っぽくまたたき、不随意な痙攣に震える。びくびくと収縮する内壁は男に性感をもたらすだろうが、シーザーにとっては内側に入り込んだ形まで感じ取れるようで、それだけ余計に快感を拾ってしまった。
心臓の音がやけにうるさい。力の入らない体では好きにされるしかなく、埋められた性器がわずかに動くだけでシーザーの口から短い母音が漏れた。ゴムの薄皮がなくなっただけなのに、男の熱を生々しく感じてしまう。意識した瞬間に締めつけてしまったのがわかった。
「すげ……シーザーちゃん、ひくひくしてる。そんなにおれが好き?」
「ば……! からかっ、ひ……ッ! あ、ぁっ!」
揶揄する言葉にシーザーの頬が熱くなる。言い返す前に抜き差しされて残りは意味のない喘ぎになった。好きもなにも、金で買われている関係だというのに。大きく開かされたつま先が宙をかく。結合部からローションの泡立つ音が聞こえた。
「シーザーも、いいん、だろ?」
「んん……! い、から…………ぁ、すご……!」
腰を振る合間に問いかけられてとろけきった答えを返す。リップサービスではなく、ぞくぞくするような快感で思考がまとまらない。この体勢ではみっともない顔だって見られているだろうにそれを隠せるだけの余裕がなかった。
太い部分に前立腺をこすられ、男が腰を振るたびに性感が水位を増す。呼吸もままならず、口の端から涎が垂れた。それを追うように男の指がシーザーの唇をなぞる。近づいた顔はなにかに耐えるように眉が寄せられていた。
「……シーザー……」
熱っぽい声で名前を呼ばれる。それだけで理由のない衝動がシーザーを貫き、忠実に反応した体が男を締めつけてしまう。
短いうめき声ののち中に注がれる感覚が残り、相手が達したのだとわかった。体力も気力も消耗したシーザーは奇妙な充足感とともに目を閉じる。いつの間にか、シーザーの腹筋にも精液が散っていた。
サイドチェストに置かれた紙幣の束を見て、シーザーは自分の頭が冷えていくのを感じた。
あのあと、中で出したぶんを掻き出すからと風呂場に連れて行かれ、ほとんど抵抗できないのをいいことにあちこちをまさぐられた。もう一度突っ込まれずに済んだのは助かったが、男の手にイかされるというのはどうにも耐えがたいものがある。シャワールームから出たあとも力の入らないシーザーを見かねてずいぶん世話を焼かれ、相手が眠った今になってやっと解放されたところだ。
大きなベッドで寝こける男の横から抜け出し、水を飲もうとドアノブに手をかけたときに積まれた札束に気づいた。定位置に置かれたそれはシーザー宛てで間違いないだろう。セックス1回の料金よりもずいぶん多いのは昼から付きあわせたからだろうか。
唐突な呼び出しに応じたのは対価を期待してのことではない。しかし、相手にはそう思われていなかったのだ。
当然の事実を突きつけられただけなのにどうしてか鼻の奥が痛む。水っぽい気配にますます情けなくなり、踵を返して自分の荷物を手早くまとめた。
外を歩けるだけの格好を整え、着せられていた部屋着は畳んで紙幣の横に置く。この金を受け取ってしまえば今日過ごした時間がビジネスに変わる気がして、手を付ける気にはならなかった。
このバイトは確かに高給だが、もうこれ以上続けられない。店にはもっともらしいことを言って辞めてしまおうと決めた。そうなればシーザーがこの男と会うことはもうないわけで、自然と淡い視線がそちらを向く。初めて見る寝顔はどこか幼い印象に思えた。
すこしだけそうしていたシーザーはやっとドアに振り向いた。「またな」は言わない。オートロックのマンションは主を置いて去るときも便利だった。
翌日、シーザーは自室に響くインターフォンの音で目を覚ました。反射的に時計を見上げるが、平日の朝早く、近所の子どもたちも登校していないような時間だ。ゆうべは雨が降ったのか、晴れた日が差し込む窓に雨だれがときおり影を作っている。それだけを認める間にも4回ベルが鳴らされ、気の長い方でないシーザーは寝起きの頭に血液がめぐるのを感じた。
ラッキーなことに1限が休講だったから、今日は昼までに大学に行けばいい。夜のうちにそれを確認し、今朝はもう少し長く寝ているつもりだったのだ。昨日の疲れはまだ抜けていない。今日のバイトは飲食店だから、この疲労が響かなければいいと思った。
宅配便が届く予定はないし、朝の早い時間にインターフォンを連打するなんて用件がなんであれ非常識だ。無理に寝直そうとしたシーザーだったが、1分も経たないうちに諦めてベッドから出る。
ドアの向こうにいるのはしつこい相手のようだ。放っておくのはお隣さんにも迷惑だし、おおかたセールスだろうからはっきり断ればいい。そののちにもう一度ベッドに戻ることにして、狭い部屋を横断して数歩で玄関に立つ。日が差さないそこはひんやりと薄暗い。相手が誰であれ怒鳴りつけるつもりだったから、確認もせずに外開きのドアを開いた。
「………………はぁ…………?」
「オハヨ。シーザーちゃん」
思わず間抜けな声が出る。扉の向こうに立っていたのは昨日も会った、もう二度と顔を見ることもないと思っていた相手だ。相変わらず前髪が跳ねまわる下で頬が少しだけ赤い気がする。朝の光が差し込む廊下で埃が美しいもののように舞っていた。
思ってもいない展開にシーザーの思考がフリーズする。彼がここに来る理由があるだろうか、なにも置き忘れていないことは昨日何度も確認した。なにか用があるなら電話で済ませてもよさそうなものだ。それに、なぜシーザーの家を知っているのか。思えば、彼の電話番号を手に入れた経緯も聞いていなかった。
「…………どうやって来たんだ、家は教えてないはずだ。店に聞いても無理だろう。電話番号だってそうだ」
「おめーの定期見たんだよ。名前と電話番号は携帯。気づいてなかったァ? だから危機感足りてねえっつうの」
問い詰める語調を悪びれることもなく明快に返されて金の眉が皺を作る。客から呼び出されるときに私物は持ち込まないが、携帯と財布、それに定期兼ICカード入れだけは身につけておくしかなかった。だが、定期に住所は書いていないはずだ。プライバシーの侵害を告白した男に対し、シーザーの視線は少しもやわらがなかった。
「最寄り駅と名前がわかりゃあ、あとは突き止められるしな。もっと早くに調べときゃよかったぜ」
そうあっけらかんと言った男の靴は確かに泥で汚れている。雨上がりの道をシーザーを求めてさまよったのだろうか? 想像するとへそのあたりがむずがゆいような気分になった。淡い色の目が丸められたのを見て、開きかけのドアに男の手がかかる。扉の内側に巨体が寄りかかるとシーザーの手では戸を閉めることができなくなった。
「……覗き見はプライバシーの……いや、もういい。――帰ってくれないか」
男の言うとおり、シーザーの方にも抜けたところがあったのだろう。勝手に家まで調べられるのは不快以外のなにものでもないが、今後の勉強代としておさめておいてもいい。代わりに冷たく告げた言葉に相手は大いに慌てたようだった。
「はぁ!? おれがなんでおめーんとこまで来たかって――」
「あのバイトは辞める。お前とはもう会うこともないだろう。悪いが、不満があったら店に……」
言いかけた途中で男が身を乗り出し、シーザーは思わず言葉を飲む。「それなんだけど」と遮った男は真剣な顔をしていた。
「昨日は悪かったな、急に呼び出したりしてさ。……『おれが来なかったらどうするつもりだった』って聞いたよな?」
「……ああ」
「ずっと待ってるつもりだったよ。シーザーが来なきゃ、夜まであそこに立ってたかもな」
驚くようなことをさもおかしいような口調で言われて面食らう。そんな待ち合わせのしかたがあるだろうか、たとえ都合が悪くてもシーザーからは連絡の手段もないのだ。そんな不確かな約束に一日を費やせるなんて信じられなかった。なんでだ、と聞く代わりに別のことを口にする。
「おれが留守電に気づかなかったり……他の理由で、行かなかったかもしれないだろう」
「まあな、半分賭けのつもりだった。断られたってしかたねえもんな。でも、シーザーは来てくれただろ? それでちょびっとはしゃいじまったけど」
いたずらっぽい瞳にシーザーは一瞬視線を逸らした。こんな無茶な呼びつけは無視してしまえと思ったのに、それができなかったのは本当だ。わざわざ駅まで走って、息を切らせて指定の場所まで急いだ。必然性のない行動はシーザーの意思がなければ成立しない。それを言われると返す言葉がなかった。
「……最低の呼び出しだったぜ」
「悪かったっての。でも、前もって言ってたらシーザーはいろいろ考えこんでたんじゃねえ?」
「それは……わからない、が」
確かに、当日の朝に留守電に気づいてからは余計なことを考える間もなかった。それが狙いなのだとしたら実に迷惑な作戦だ。微妙な表情を浮かべるシーザーに構わず、男は妙に晴れ晴れとした表情で続けた。
「おれはすっごく楽しかったぜ。昨日のデート」
「――はっ?」
デート? 男二人で交わすには似つかわしくない単語に疑問符が飛び出る。文脈から言って、昨日シーザーと過ごしたことを言っているのだろう。金で時間を売り買いしたくせに、何を言うのか。当惑するシーザーに彼は眇めた瞳を向け、ゆっくりした口調で話し始めた。
「そりゃあ最初の印象はよくなかったぜ。金髪ボインが来ると思ったらでけえ男なんだもんな、ガッカリするっての。からかってやるつもりでエッチしたら、こっちが客だってのにすげー睨まれたし」
言われて数カ月前の記憶が蘇る。はじめの晩は互いに不本意であったし、少なくともシーザーの接客態度が褒められるものでなかったのは確かだ。事故のような初対面だったというのに、その後もシーザーを指名し続けた男の神経が知れなかった。
「おめーの反応がいいから面白がってるだけのつもりだったんだけど、なんか、それだけじゃ足りない気がしちまって。変だなって気がしたから確かめたくなった。それだって、昨日シーザーが来なきゃ諦めるつもりだったんだぜ」
「……確かめるって、なにをだ?」
矛先が自分に向いたのを感じながらシーザーは小さく口にする。ふと、自分がどんな顔をしているのか気になった。安い部屋着に寝起きの顔ではどうにも格好がつかない。扉にもたれる男はそれなりのものを着ているのだから余計だ。背中から光を浴びる彼の瞳だけが輝いて見えた。
「おれが、シーザーをどう思ってるのかってこと。今さらだけど、やっとわかった」
もたらされた答えはシーザーをすぐ納得させるものではなかった。核心を避ける言葉にどう反応していいかわからない。シーザーが答えあぐねる間に、だらしなく寄りかかっていた男が居住まいを正して向き直った。
「好きだ、シーザー。おめーは馬鹿にするかもしんねーけど、おれは本気だぜ」
「…………な……」
真摯に言われた言葉に面食らう。間抜けなところを見せたくないと思うのに、シーザーの唇は半分開いたままで固まってしまった。まばたきすら凍ったようにできない。またからかわれているのだろうか? 内心に周章するシーザーを、男は急かしもせずに黙って見ていた。
「好き、って……どういうつもりだ」
「付き合ってほしいって言ってんの。客とかバイトとかじゃなくて、恋人になってほしい」
やっと絞りだした声に流れるような言葉が返る。すこしもよどむことがない口調は、まるで何度も練習したようだった。そのためらいのなさにシーザーの心も揺らぐ。
男同士であることが問題ならこの関係はとっくに終わっていたはずだ。倫理観を飛び越えてしまえば、あとに残るのは互いの感情でしかない。それを素直に伝えた彼にシーザーもなにか応えるべきだろう。もちろん、諾と返すわけにはいかない。二人の間にはまだいくつもの障害が横たわっていた。
「……おれは、お前の名前も知らないんだぞ」
「えっ? そうだっけ?」
シーザーが言えば男はきょとんと目を丸めた。その反応になんだか体の力が抜ける。相手の慌てぶりを見るに、故意に素性を隠していたわけではなく昨日のうちに名前を教えたものだと思っていたらしい。友人ならばこれほど顔を合わせているのに名前も知らないなどありえないが、シーザーたちの仕事では当たり前のことだった。それほどの希薄な関係であるのに告白を受け入れられるわけがない。これで話は終わりだ、と視線をうつむけるシーザーに明るい声が降った。
「ジョースター。ジョセフ・ジョースター。JOJOって呼んでくれ。これでいいよな」
「いや……待て、名前だけじゃあない、おれはお前のことを何も」
「じゃあ、これからいっぱい知ってよ。シーザーが知りたいこと、ぜんぶ教えてやるからさ」
そういなした男が一歩近づく。彼の肩に支えられていたドアがその分動き、玄関に差し込む光が少なくなった。
名前も知らないのだからと、用意していた逃げ道が塞がれ、自室だというのにシーザーは息苦しさを感じる。逃げてしまえとささやく声を感じるのに、シーザーの足は貼りついたように動かなかった。
「なあ、シーザー。おれはおまえが好きなんだぜ。――返事は?」
二人の距離が縮まる。玄関にゆっくりと影が増えていくのをシーザーは見ていなかった。熱っぽく輝くグリーンの瞳から視線を逸らせない。腕を掴む男の――JOJOの手がひどく熱く感じられた。彼に指名されたときにあのバイトを辞めていればよかったのだ。せめて、昨日の呼び出しを無視していれば。そうすればJOJOが手を伸ばすことはなかっただろう。
しかし、シーザーはそれを選択しなかった。その理由を探すこともせず、目をそむけてばかりだったのだ。まだ手にしていないそれを今なら見つけられるかもしれない。なぜだか、そんな気がした。大きな体が近づく。――音を立てて扉が閉まった。