※現代パラレル

ブルーフィクション・ブルー

 シーザーが隣室の物音に気づいたのは、ひとえにその壁の薄さのためだ。格安が売りであるそのアパートは望むと望まざるにかかわらず隣接した室内の様子を伝えてくれる。その部屋は少し前に入居者が出ていって以来空室であることを知っていたシーザーは、新たな隣人に顔を見せるべく立ち上がる。彼の胸中には、相手が可憐な女性であればこの機にお近づきになりたいという下心も多分に含まれていた。

 得てして世の中はそううまくいかないものであり、共用廊下に出たシーザーが見たのは彼をしのぐサイズの巨体だった。それもある種当然で、一人暮らしを始める女性ならばこんな防音に難のあるアパートはまず選ばない。わかっていたはずの事実に少なからず気落ちしながら、それでもとりあえずは相手に向かって歩を進める。壁が薄いのはどうしようもない以上、隣人と友好関係を築いておくのは間違いなくプラスになるはずだった。

「チャオ、ここに越してきたのか? 隣に住んでるシーザーだ、よろしくな」
「ん? ――ああ、よろしくな。おれはジョースター、ジョセフ・ジョースターでJOJOって呼んでくれ」

 振り向いた巨漢は運び込む途中だっただろう荷物を置き、握手を求めてくる。その手を握ればシニョリーナとはまったく異なる感触が返ってきた。間近で見れば相手の体躯がどれほど巨大かがよくわかる。シーザーが少しばかりの感嘆を込めて見上げれば黒髪の男はニッと笑ってみせた。その子どもっぽい笑みに警戒が解け、シーザーは荷物の運び込みを手伝おうと持ちかける。

「え、マジで? 手伝ってくれるなら助かるぜ」
「隣の部屋でいつまでもガタゴトやられてはかなわんからな。まあ、相手がかわいらしいシニョリーナでないのが残念だが」

 ジョークに混ぜて言えばジョセフは呆れたような表情で、それでも助力が得られることに喜んでいるようだった。彼らが住むアパートはドアも廊下も狭く、二人がかりで荷物を運ぶのは難しい。といって一人で片付けようとすれば手間ばかりがかかるので、分担するのが一番早いとシーザーも知っていた。
 玄関の外に積まれた大小の荷物を部屋の中に運び終わるころには互いに親しみも湧く。小さいのにやたら重い箱にはコミックが詰め込まれているとかで、悪びれもしないジョセフにシーザーは白い目を向けた。座り込んで荷物の中身を確かめているジョセフに気づかず躓いてしまったときにはそこに詰められていた衣服を散乱させてしまう。互いにお前が悪いと言い合いつつなんとか片付け、気づけば夕刻になっていた。
 家具家電は前の入居者が置いていったために部屋にあるものの、食材の備蓄がない状態ではどうしようもない。時刻は少し早いが、引越し祝いだと近くのバルに連れ出せばジョセフはぱっと顔を輝かせた。

「やっぱイタリアのメシってうめーよな! こないだネーロってのを初めて食ったけど、インクみたいな見た目なのに味はよくってさ」
「インクって、お前な……。そういえば、JOJOの出身はどこなんだ?」
「おれはイギリス。NYにいたこともあるけど、別のとこ住むのもいいかもな〜ってあちこち回ってんのよね。こないだ行ったメキシコなんてなんもねえの! まあ、人ごみから離れたくて行ったからちょうどよかったんだけどよ。イタリアはメシもうめーし、しばらく住んでみるつもり」
「各地を旅行してるのか、面白そうだな。学生なのか?」

 なかなか破天荒な生き方をしているらしいジョセフに、パスタを口に運びながらシーザーは聞いてみる。彼自身もローマにある大学で学んでいるところだったから、ジョセフも同じ学生ならば親近感も湧くというものだ。シーザーの質問に彼は「いや、学校は行ってねえ。今は書きもので仕事してるとこ」と返した。

「へえ、ライターなのか。やっぱり旅行記とか書くのか?」
「んにゃ、おれは官能小説専門」

 重ねた問いにあっさり答えられ、シーザーはフォークを持ち上げたまま動きを止める。正面のジョセフは音を立てながらパスタをすすり、そのマナー違反を咎める気も起こらない。あまりに平静な彼の顔を見て、シーザーは自分の耳を疑うしかなかった。

「……すまない、もう一度言ってもらえるか?」
「だから、いつもは官能小説書いてんの」

 二度はっきりと言われてシーザーもさすがに耳を信じるしかない。官能小説という淫靡な単語と、口いっぱいに料理を頬張るジョセフの印象はどうやっても結びつかなかった。あたりに満ちた喧騒のおかげで二人の会話が聞きとがめられることはないだろうが、シーザーはなんとなく声をひそめて顔を近づける。

「……本当なのか? お前、おれをかつぐつもりじゃあないだろうな」
「んなことねーよ。だいたい、おれが官能小説書いてたって何の不思議があるんだよ?」
「それは……なんというか、だな……」

 逆に聞かれてシーザーは言葉に窮した。偏見があると言えばそうなのかもしれない。なにしろ、シーザーにとって官能小説というのは作家も読者ももう少し年かさだと思っていたのだ。どう見ても同年代の若者であるジョセフがそれを生業にしているというのはにわかには信じがたい。それに、彼には夜の世界に通じるはずの陰影がなかった。彼からははつらつとした生命のエネルギーを感じるのだ。信じきれないシーザーはそれとなく話題をそらすことにした。

「……そうだ、作家ならあちこち放浪していていいのか? 締め切りとかあるんだろう」
「今はネット回線さえあればどこでもお仕事できちまう時代だぜ。打ち合わせだってネット電話で済むしな」
「そ、そういうものなのか……」

 シーザーのイメージする作家とはむしろネット機器から縁遠そうな存在だったが、さすがに現代ではそんなこともないようだ。機械に明るくないシーザーはそれ以上話を広げることを避け、黙ってスープを口に運ぶ。官能小説家が隣人とは、なかなか刺激的な体験だ。なんとなく言葉の接穂を探すシーザーを気にした様子もなく、ジョセフは皿を空にして満足げな息をついた。

「ずっと同じとこにいても飽きちまうしな、今はあちこち回りながらネタ探ししてんの。イタリアにはしばらくいるつもりだし、これからもよろしくな、お隣さん」
「あ……ああ、よろしく頼むぜ」

 あっけらかんと手を差し出され、シーザーも握手で応える。官能小説家というのは隣人として予想外の職業であったが、今のところ嫌なやつだとは思えない。相手がどんな仕事をしているにせよ、シーザーのプライベートには影響がない以上、余計なくちばしを突っ込むのは常識に欠ける行動だった。

 それから多少の予断を持ってジョセフの言動を観察しても、彼の性格と職業はまったく別であるように思われた。ジョセフは女性店員をいやらしい目で眺め回すこともしないし、むしろ追加注文を取りに来た彼女を褒めそやすシーザーのことを信じられないように見ていた。性について頭がいっぱいというよりもまるで興味がないように見える。官能小説家とはいえ仕事中でなければそういうものなのかもしれないと考えたシーザーは、それならうまく付き合えそうだとこっそり胸をなでおろした。


★☆★☆★


 ジョセフとの付き合いはシーザーが想像したよりはるかに深いものになった。地理に不案内なジョセフのために何度か近所の店を案内してやったのもそうだが、ある朝いつまでたってもシーザーの部屋が静まり返っていることを不審に思ったジョセフのおかげで寝坊を逃れて以来、ジョセフは頻繁にシーザーの部屋を訪れるようになったのだ。

 生真面目なたちであるものの朝に弱いシーザーにとって、一人暮らしだというのにやけに健康的な生活リズムのジョセフは目覚まし代わりとして非常に優秀だった。彼いわく、ずっと同居していた祖母に合わせて早寝早起きになったということで、シーザーはまだ見ぬジョセフの祖母に感謝を捧げる。最近では、毎朝起こしてくれる彼に礼として酒や食事を振る舞うのが習慣になっていた。
 シーザー自身の料理の腕は決してうまくないのだが、イタリア料理を物珍しがるジョセフはそれでも喜んでくれる。誰かのために作るという理由ができたおかげで、三種類のパスタでローテーションしていたシーザーの食卓も少しずつ彩り豊かになってきた。

 なにぶん壁の薄いアパートだけに、互いの生活もなんとなく知れてしまう。ジョセフの部屋のテレビの音がうるさいだとか、時々聞こえるシーザーの鼻歌の曲名だとか、互いに年が近いこともあって話題が尽きることはなかった。ジョセフが18歳で年下だと知ったときのシーザーのショックは大きく、今でもときおり信じられない思いに駆られる。イタリアを出たことがないシーザーと違い、気ままに旅行を続けていたジョセフの話は実に興味深かった。今日も二人でワインを傾けながらとりとめもない話に興じる。

「お前、恋人がいないんだろう? せっかくここまで来たんだから彼女の一人でも作ったらどうなんだ。イタリアの女性たちはみんな魅力的だぞ、言葉の壁なんてすぐ乗り越えられる」
「そういうの、ちっとめんどくせえじゃん。それにイタリア人ってラテン気質だろ? 情熱的なのはいいんだけど、おれとは気が合わなさそうでさァ」
「ああ、お前は意外と根暗なところがあるしな。だが恋は人を変えるぞ、違うタイプの相手と付き合うことでJOJOの仕事にも活かせるかもしれないだろう」
「あー、おれは恋とか愛のベタベタした話は書かないのよね。誰かと付き合ったところで仕事に影響は出ねえよ」

 グラスを干して言ったジョセフにシーザーはきょとんと目を丸める。冷凍庫からアイスを取り出してきたジョセフは封を開けたところで気づいたらしく、「なに? なんか顔についてる?」と聞いてくる。そういえば、彼がどんな小説を書いているのか聞いたことはない。シーザーはためらいがちにゆっくりと口を開いた。

「その……お前の小説が恋愛を描かないって、どういうことだ? 悲恋ものってことか?」
「そういうわけでもねえんだけど。そのまんまだよ、惚れた腫れたとは関係ないエッチの話。ゲームみたいなもんだって」
「……そんなの、読みたいやつがいるのか? 愛する女性と深く触れ合うのがセックスの醍醐味だろう」
「あー、シーザーならそういうタイプだよな。ま、世の中、オメーみたいな真面目ちゃんだけじゃないってことだ。うちのレーベルだと乱交とか、輪姦モノがメインだな。おれも書くし」
「そ、そんなこと女性にさせられるか!」

 とんでもないせりふに思わずシーザーの語調が強くなる。彼は付き合った女性の数こそ多いが、必ず一人だけを愛してきた。同時に複数の相手と付き合ったことはないし、ましてや肌をさらす空間が二人きりでないなんて想像もできない。あたたかな家庭を夢見るシーザーにとって、性交は快楽を求めるだけの行為ではなかった。憤る彼をいなすようにジョセフはニヤッと笑ってみせる。

「そう怒んなって。エンターテインメントなんだぜ、つまりファンタジーだ。ミステリ小説の中で殺人事件が起こっても、作者も、読者だって人を殺そうとは思わねえだろ」
「……たとえフィクションの中でも、女性を弄びたいと思っているような男は下劣だ」
「大丈夫ヨン、おれのかわいいヒロインたちはみんなノリノリで遊んでくれるから」

 適当にかわしたジョセフは冷えたアイスを口に運ぶ。官能小説をほとんど読んだことのないシーザーにとってジョセフの言うような内容が主流なのかどうかはわからないが、彼の言う通り、虚構である以上現実とは区別して理解するべきなのだろう。それでも少なからずショックを受けたシーザーはアイスをすすめるジョセフを断り、その日は早々に追い返してしまった。


★☆★☆★


 それからしばらくはジョセフから距離を置いていたシーザーだったが、時間が経てば元通りの関係に落ち着いた。作品はともかく、ジョセフ自身の倫理観は極めてまともであったし、女性に対する扱いもごく常識的なものである。今は彼女がいないそうだが、昔付き合った恋人とのエピソードを聞いても実に健全な関係を結んでいたようだった。本人が言っていたとおり、彼の小説がファンタジーである以上現実とは無関係と考えるべきなのだろう。一度「自分の書いた小説のようなことを恋人としたいのか?」と直球で聞いたところ、ジョセフは「いや、別に」と答え、それ以来シーザーは妙に身構えるのをやめた。

 考えてみれば、建築デザイナー志望の学生であるシーザーが図面を引くときも自分の生活に即したものばかりではない。さまざまな場面を想像し、実際には存在し得ない設計を組み上げるのだ。デザイナーよりもさらに浮世離れした小説家という職業ならば本人と作品の乖離はもっと大きいことだろう。そもそもシーザーは彼の読者ではないのだし、その人間性は作品よりも本人の言動で判断するべきだ。そう決めたシーザーは遠慮なくジョセフと接するようになり、互いの距離は近づく一方だった。


 ジョセフと出会って数ヶ月が経つころ、突然シーザーは己の抱く恋心に気づいた。きっかけがあったかと言えばわからない。水が器に満ちるように自然で、同時に晴天の雷鳴のように理不尽でもあった。それは天啓にも似たひらめきで、一瞬のうちに周りの音が消えうせる。ほんの短い時間のうちに心臓の鼓動ばかりが大きくなり、高揚に満ちたシーザーの体がじわりと温度を上げた。

「……シーザー? どうしたの?」

 女性とのデート中に己の熱情を自覚してしまったシーザーの不審なようすは相手にも気づかれたようで、コーヒーカップを戻した女性が心配そうに見つめてくる。彼女と二人きりだというのに、この場にいないジョセフのことばかりを考えてしまうシーザーに気づいてしまったのだ。あと数回デートすれば恋人の関係になったであろうシニョリーナの瞳も、ジョセフに焦がれていることを認めた彼にはすでに褪せて見えた。不自然にならない程度にその場を切り上げて彼女を駅まで送り、彼は自宅までの道のりをふらふらと進む。自身の恋情に気づいてショックを受けた気分と、どこか納得した思いが入り混じってすぐには整理がつかない。自宅に帰りついたというのにドアの前で立ち尽くすシーザーの中で自問自答がぐるぐると回っていた。

 シーザーは異性愛者であったはずだ。今までの人生を思い返してみても、同性に惚れ込んだことはない。そもそも女好きであり、女性受けもいい彼は同性と親しく接した経験すら少なかった。隣人として打ち解けたために覚えた親しみを恋愛と勘違いしているのではないか、と考えてみても結局は徒労だった。例えば彼の裸に興奮するだろうかと想像したシーザーは、急に速くなった鼓動に思わず胸を押さえる。顔も体も熱を帯び、ジョセフに対して性的な好意を抱いていることを認めずにはいられなかった。

 彼とてこの感情が歓迎されるものだとは思っていない。同性愛というハードルもそうだし、それでなくとも隣室の住人に体を狙われていると知れば誰だって逃げ出すだろう。これからもジョセフの近くで言葉をかわす距離を望むなら、このよこしまな思いは隠し通さねばならない。そう決めたシーザーはやっと取り出した鍵を握りしめ、決意を確かめるように固く拳を作った。

「あれ、シーザーおかえり」

 横のドアから顔を出したジョセフに声をかけられ、シーザーは大きく肩を跳ねさせた。その驚きように「なんだよ、おれはオメーの大嫌いな虫じゃあねえぜ」と笑われる。シーザーの小さな弱点も知っているほどの仲なのだ。しかし今まさに悶々と悩んでいた張本人の顔を見て平静でいられるシーザーではなく、冷や汗を浮かべながら取り繕う。今まで意識していないときはどんなふうに笑っていたか、それすらも思い出せなかった。

「ぐっ……偶然だな、どこか出かけるのか?」

 つんのめったような声だったが、少なくとも言葉にできた。シーザーは外出先から帰ってきたところだが、ジョセフはこれから出かけるつもりなのだろう。夕闇に包まれた時刻に、根がインドア趣味の彼が出かけるのは珍しい気がした。

「そ、腹減ったからなんか食いに行こうと思ってさ。でもシーザーが帰ってきたならちょうどいいや、なんか作ってよ」
「ひとをメイド扱いするんじゃあない。だいたい、今すぐには作れないぞ」
「えー、じゃあ二人でどっか行こうぜ」

 当然のように言われてすぐ頷いてしまいそうになるのをこらえる。今までシーザーはイタリア料理を喜ぶジョセフのためにたびたび手料理を振る舞っていたし、人気のある店に連れて行ったりもしていた。しかし、今となってはそれらを平静な顔でできる気がしない。自分の気持ちに気づいていないころならまだしも、はっきりと自覚した上でシーザーが彼と食事をともにすれば確実に挙動不審になってしまうだろう。下心を見透かされて疎んじまれるようなことがあればとても立ち直れない。そう考えを巡らせたシーザーは、会話にしては不自然な間をあけてからやっと「いや」と発した。

「今日は……遠慮しておく。その、腹が減ってないんでな」
「ああ、デート? どうせ甘ったるいケーキでも食わされたんだろ。女ってあんなに甘いもんよく食えるよな」

 適当な口実で断ったシーザーにジョセフはあっさりと返した。その声色も表情も、女性とのデートを匂わせるシーザーへのいらだちは見えない。少しくらい不満げにしてくれれば脈があるかもと期待できたが、こうも気にしたようすがないことにシーザーは小さくショックを受けた。
 考えてみれば当然である。男女の交わりを専門に描いているジョセフにとって、同性との恋愛は想像もしていないに違いない。それに、シーザーにとってのジョセフは異色な隣人であっても、彼にしてみればシーザーは各国を回る中でごくいっとき隣に暮らすだけの平凡な学生だ。ジョセフがそんな相手に特段の興味を抱くはずがない。現実をそう認識し直すととたんにみじめに感じ、シーザーの視線は知らず下を向く。そんな彼の心情など知らず、ジョセフは少し早い夕食のために一人で出かけてしまった。


 ジョセフに惚れてしまったとはいえ、アタックする気などもとより持たないシーザーの生活はそれほど変わらなかった。顔を合わせるたびに心臓が跳ねるものの、受け答えはそつなくこなせているし、ジョセフとの関係も良好だ。自身が抱える劣情を悟られまいと思うとシーザーの態度も多少よそよそしくなってしまうが、今のところ気取られた様子はない。自分に恋する女性を相手にするだけで手一杯だったシーザーにとって、片思いを募らせるのはほとんど初めての経験だった。
 望みのない恋だとわかっていても、芽生えたての感情はシーザーを揺さぶり続ける。壁の薄いアパートで、隣人の生活の気配が漏れてくるのがまた悩みの種だった。会っていないときでもジョセフの動きや仕草を思い浮かべてしまうし、壁の向こうから物音一つしないと妙な疎外感を覚える。ときたま電話中らしい声がとぎれとぎれに聞こえると相手が彼女でないことを必死に祈った。

 ジョセフはシーザーが抱いていた文筆家のイメージとは異なり、生活リズムは規則正しいうえ、快活な青年だった。確かにインドア派ではあるものの一通りの観光名所はシーザーとともにめぐり、近所のシニョーラと打ちとけるだけの社会性もある。その一方でサッパリしているように見えて根に持つタイプにも思え、シーザーの中のジョセフ像はいまだに固まらないままだった。


 その方法に気づいたのはジョセフと食卓を囲んでいるときだった。毎朝目覚まし時計を務めてくれている彼にねだられると強く言えず、結局シーザーはそれなりの頻度でジョセフの食べたい料理を作っている。金には困っていないと豪語する彼からはいつも食材費に多少色を付けた額を受け取っていた。口の端にチーズをつけたジョセフが「そろそろ締切が近いんだ」と話し、刺激されてシーザーの頭にふと名案がひらめく。出会ってからそれなりの時間が経ってもジョセフの内面ははっきりつかめない。ならば、彼が著した本から多少なりともそのヒントが得られるのではないだろうか。

 思いついてしまえば早かった。むしろなぜその発想に至らなかったのかと反省するばかりだ。翌日、シーザーは近所で一番大きな本屋に赴き、生まれて初めて官能小説コーナーに踏み入る。ジョセフは自身の筆名を頑なに教えてくれなかったものの、出版社の名前だけは聞いていた。
 それをヒントに本棚をくまなく探し、やっとその一角にたどり着いた。一冊を手にとってみれば思っていたより価格は安く、それに見合ってチープな印象を受ける。シーザーにとって装丁や製本は重要でないから問題にならないし、おそらく購買層もそういった点は気にしないだろう。言語が異なるぶんその本屋に置かれている量はごく少なく、作家も四名だけだった。この中にジョセフの著作が含まれているのか、ノーヒントではわかるはずもない。少し考えたシーザーは、結局そこにあるだけを買い上げて帰途についた。

 それからというもの、シーザーの日課に本屋巡りが加わった。ものがものだけにお目にかかれることは少なく、空振りに終わることも多い。それでも最初に行った書店のような大規模店や、留学生を多く受け入れている大学のそばを狙い、こつこつと集めていく。ジョセフが契約している出版社は新興の部類らしく、強く売り出している割に集めきれる冊数であるのは僥倖であった。

 以前ジョセフが言っていたとおり、そのレーベルでは男女の機微を描くというよりも快楽としてのセックスばかりを扱っていた。うまくいかなかったり、傷つくような展開は一切なく、出会った直後に体を交わしてしかもそれが極上の快楽だと説いている。特定の相手に愛情を向けることすら稀で、複数や多人数の前での性描写も数多い。初めて読んだときにはショックを受けたシーザーも、小説を開く間は感覚が麻痺するようになっていた。
 救いであるのは女性の側がそれを楽しんでいることである。その方向に特化したレーベルなのか、とにかく性欲過多な女性ばかりが登場し、男性たちを手玉に取ってはころころと笑っているのだ。読んでいるシーザーとしてはそんなヒロインたちの思考が理解できず首を傾げるのだが、うしろめたさがない相手という点で男性読者のニーズに応えているのかもしれない。ヒロインの設定やシチュエーションは違えども、集めた官能小説はどれも性に奔放な女性という点で共通していて、いまだにペンネームが知れないジョセフの作品も同じはずだった。

 限られた数の官能小説を何度も読み返したせいで、作者ごとの文体や作風の違いも読み取れるようになってくる。それぞれの差異を並べてはロマンチックなタイプだとか、年齢が高そうだとか作者の見当をつけてはジョセフの面影を探していた。中でも若そうで、人物描写が生き生きとしている作者に当たりをつけ、シーザーは毎晩のように本を開く。露骨な性描写よりもその先に見える作者の影に熱を上げているなど、まったく笑い話にしかならなかった。


 その日、シーザーは少々気合を入れてキッチンの掃除をしていた。鍋やフライパンの手入れはもちろん、水回りも丁寧に磨く。生来の生真面目さのおかげで、細かな作業も苦でないのだ。パスタや缶詰といった買い置き食材も整理を始め、気づけば日も暮れかかっている。棚の前に座り込んで備蓄を検分しているところ、後ろからノックの音が聞こえてきた。

「シーザーちゃん、さっきから何やってんの? 模様替えなら手伝うぜ」

 言いながら入ってきたのはジョセフだった。ボロアパートなら犯罪者から狙われにくいし、悪人なら殴り飛ばせばいいと考えているシーザーは鍵をかけ忘れることがよくあった。ジョセフからは「犯罪誘発すんなよ」と小言を言われるほどで、今日も無断で入ってきたジョセフが鍵をかけるのが聞こえる。彼に言わせれば「無断じゃなくてノックしたし」ということだろうし、シーザーも今さら咎める気にはならない。会わない方がいいと頭ではわかっているのに、ジョセフの顔を見るたび本心では喜んでしまう自分がいた。

「ちょっと掃除してただけだ。お前の部屋まで聞こえてたなら悪かったな」
「そ? いろんな音聞こえたし、てっきり模様替えかなんかしてんのかと思ってたぜ」

 壁が薄いだけあって、掃除中の物音が聞こえてしまっていたらしい。シーザーから見てジョセフの反対側に当たる部屋は空室であるのが救いだ。棚の整理もあらかた終わったところだし、今日はこのあたりにしておこうと決める。缶詰の山を元の場所に戻そうと片付けを始めれば、シーザーの手の上に少しだけ色の濃い手のひらが重なった。

「この中にしまうんだろ? やっとくよ」
「え、あ、いや、わ、悪いだろ……」

 ジョセフの体温を感じて動揺してしまい、不自然なほど歯切れ悪く返事する。それでもジョセフは気にした様子もなく、「いつもうまいメシ食わせてもらってるしな」と手を動かし始めた。そう言われると止めるのもおかしい気がして、シーザーは他の掃除用具を片付けようと立ち上がる。ジョセフから「うまいメシ」と評されたことがやけに嬉しかった。

「――うわっ!?」

 洗剤のボトルを掴んだシーザーは吹き出た液体と泡にまみれて悲鳴を上げた。ふたを閉め忘れていたことに気づかず握ってしまったせいで中身が出てしまったのだ。顔にかかるほどの勢いはなかったものの、胸のあたりから腰にかけて濡れてしまっている。背中から覗き込んだジョセフが「あらー……」と慰めるように呟いた。

「……すまんJOJO、着替えを持ってきてくれないか。今歩くと床を濡らしてしまう」
「オーケー、お安い御用よん。着替えってどこ?」
「悪いな、クローゼットから適当に持ってきてくれ」

 寝室のドアを示し、ジョセフの足音が遠ざかるのを聞きながらシーザーは洗剤のふたを閉めた。泡まみれの手をタオルで拭き、少し迷って濡れた服を脱ぐ。ジョセフには洗面器も持ってきてもらって、それに入れて風呂場まで運んだほうがよさそうだ。シャボン玉が漂う空間でシーザーがそう考える間に寝室から鈍い音が聞こえてきて苦笑する。おおかた、ジョセフの巨体がクローゼットかベッドにぶつかったのだろう。今まで彼を寝室に入れたことはないし、夕暮れどきでは視界も悪い。照明のスイッチの場所を教えてやればよかったか、と反省するうちに黒髪の大男がのそりと現れた。

「グラッツェ、JOJO。どこかぶつけたのか? 痛そうな音がしたぞ」
「そーなのよねェ……思いっきり足ぶつけちまった」

 渡されたシャツを着て、ついでに洗面器も頼めばジョセフはすぐ取ってきてくれた。とりあえず洗剤まみれの服はその中に入れ、苦笑したシーザーはジョセフの頭を撫でてやる。自分より背の高い男にそんなふうに接するのは間違いなくジョセフが初めてだった。

「そりゃあ悪いことしたな。代わりに、今日は夕飯作ってやるよ。何がいい?」
「んー……メシはいいや」

 慰めるように持ちかけた案は却下された。イタリアンもシーザーの作る料理も好きだと言うジョセフがこの手の提案を断るのは珍しい。すでに頭の中で献立を組み立て始めていたシーザーは虚を突かれてジョセフを見上げる。彼の向こうに半分開いたままの寝室のドアが見えた。

「……足ぶつけて、なんかが倒れる音したからさ。悪いと思ったけど、覗いて見ちまったの。すげえな、おれよりエロ本持ってるじゃん」

 言われてシーザーの顔から表情が抜ける。ジョセフが指すのは今まで集めた官能小説の山のことだろう。よく読む本はベッドサイドの本棚に隠しているものの、それ以外は収納場所にも困りベッドの下に押し込んだままだ。独り身だと油断していたところを見られた動揺にシーザーの頭は白くなる。何と言い繕うのがベストか、考えがまとまる前にジョセフのささやきが聞こえた。

「そんなに溜まってるなら、抜いてやろうか?」

 唇の端を持ち上げたジョセフは試すようにシーザーを見つめている。シーザーが自身の恋情を自覚してからは、不埒な感譲を悟られそうで性的な話題は避けていた。彼の言葉はシーザーにとって想像もしなかった展開で、友人として、隣人として、どんな答えが正しいのかわからない。思考は働かないままに心臓だけが鼓動を速めている。許されないとわかっている、その一方でこのチャンスに身を任せてしまいたくなる。いたずらっぽく輝くジョセフの瞳に魅入られるようにしてシーザーは頷いた。


 あれは悪魔の誘惑だった、とシーザーは後悔していた。
 ジョセフが悪魔だと言いたいのではない。この上なく魅力的な誘いに抗えなかった自身を悔いているのだ。あの日以来、二人は体を重ねるようになっていた。はじめは扱きあうだけだったのが、次第に交わりが深まり、足を開いたのは先週のことだった。抱かれるのは初めての経験だったシーザーに対して、ジョセフに男色の経験があったかは聞けていない。シーザーは彼の体に溺れるばかりで、手慣れているのかさえわからなかった。

 性交渉を持った間柄だというのにジョセフの態度はまるで変わらなかった。今までと同じように友人で、隣人で、異邦人である。身体的接触が増えたような気もするが、単にシーザーが彼の体温に敏感になっているだけかもしれない。甘い言葉を交わすわけでもなく、セクシャルな雰囲気も縁遠いほどで、今まで交際してきた女性たちとの違いにシーザーは戸惑うばかりだった。恋人でないのだからある意味当然と言えても、異性とそういった遊びの関係を持ったことのないシーザーはいまだにどう振る舞うべきか悩んでいる。

 ジョセフと寝たことは幸福であったし、幸運だったと思っている。たとえ恋人でなくともベッドの中で過ごす時間は甘美で、だめだとわかっていても求めたくなる蠱惑的な妖しさを持っていた。シーザーに触れるジョセフの手は大きく、熱い。彼の汗が肌に触れるたび、言葉にできない喜びがシーザーの全身を駆けた。
 同衾する関係になってもシーザーが抱える想いを告げたことはなかった。ジョセフに内心を見透かされないためなら嘘だってつける。性欲のはけ口として利用しているだけだと言い訳して、シーザーは痛いほど焦がれる視線を彼に注いでいた。

「シーザーってさ、彼女とかいねえの?」

 唐突に言われたのは休日の午後だった。訪問者であるジョセフは我が物顔でくつろぎ、手には持ち込んだコミックがある。視線すら上げずに聞いてきた彼に、シーザーは大学の課題を片付ける手を止めてそちらを見つめた。

「……今はいないな。それがどうかしたか?」
「んにゃ、ちっと気になっただけ。そりゃ、せっかくの休みも男と二人で過ごしてるくらいだし、彼女なんているわけねーか」
「そりゃお互いさまだろ、JOJO」

 いやみで返せばジョセフは唇をとがらせる。彼の言い草はまさにそのとおりだった。モテることを自覚しているシーザーにとって、恋人を作るのはさほど難しくない。それをせず、ジョセフと過ごす時間を優先したいと思っているのだから惚れ込んでしまっている。二人が顔を合わせている限りはジョセフに近づく女性の影を心配する必要もなく、シーザーは現状におおむね満足していた。

「でも、シーザーならモテるんじゃねーの? なんで彼女作んねえんだよ」
「……別に、お前には関係ないだろう。独り身でいたいときもあるってことだ」

 続いた質問には目をそらして答えるしかなかった。恋している相手が目の前にいて、ほかに誰かと付き合えるはずがない。そう伝えるわけには行かず、雑な口調で突き放す。横目でジョセフをうかがっても、コミックに目を落とした彼の表情は読めなかった。

「……ま、それなら溜まっちまうのも仕方ねえよなあ。彼女いない同士、慰めあおうぜ」

 茶化すように言ったジョセフがシーザーに抱きついてくる。少しだけ高い彼の体温に心臓が跳ねるのを押し隠しても、その手が腰を撫でた瞬間に息を呑んだのはばれてしまっただろう。少しずつ増えていくシーザーの官能小説コレクションにジョセフは何も言わない。単に性欲の強い男だと思われているならそれで構わなかった。シーザーが何よりおそれるのは自身の恋情を知られたうえにそれを拒絶されることだ。何も言わなければこのままの距離でいられる。シーザーはそう信じて、後ろから抱きしめる男に身をすり寄せた。


★☆★☆★


 防音性の低いアパートであるから、隣室で誰かが話していればその気配は伝わる。今日のジョセフはやけに長く電話しているようだった。話の内容まではわからずとも、楽しそうな雰囲気ではない。夕食後も課題を続けていたシーザーがふと気づけば隣室は静かになっていた。昨日彼が忘れていったマフラーを返そうとジョセフの部屋のドアをノックすれば、ずいぶん落ち込んだ様子の返事が聞こえる。上がれと言われて遠慮せずに部屋に入れば、彼は脱力したようにソファに四肢を投げ出していた。

「なんだ、元気がないな。どうかしたのか?」
「んー……まあ、ちっとね……」

 覇気のない様子に苦笑しつつ、とりあえずマフラーをソファの背もたれにかけておく。シーザーが「原稿の催促でもされたか?」と聞けば無言で首が振られた。

「いーや、締切はまだ先。……でもまあ、編集にきついこと言われたのは当たってるな」

 そうこぼして大きなため息をつくジョセフに、日頃のわざとらしいほどの不遜さは見えない。相当へこんでいるらしい彼のためにホットミルクでも作ってやるかとシーザーが提案すれば「ココアがいい」と返ってきた。

「おれには出版業界の事情はさっぱりわからんが、それでよければ話してみてくれ。少しはすっきりするかもしれないだろう」

 言いながらシーザーがリクエスト通りにココアを出してやれば、甘い匂いにジョセフも多少回復したらしい。すでにミルクパンの位置やココアの常備場所も知っているくらいに彼はジョセフの部屋に入りびたっている。ジョセフがシーザーの部屋を訪れる回数はそれ以上であるから、互いに親密な友人だと考えるのは間違っていないはずだ。セックスする仲であっても友人には変わりない。最近のシーザーはそのことを受け入れられるようになっていた。

「あー、なんつーか……シーザーは知ってると思うけど、うちのレーベルってビッチものに特化してるのよね。要は尻軽っていうか」

 あけすけに語られてシーザーの眉が小さく跳ねる。うちの、と彼が言うのはジョセフと契約している出版社のことだ。社名は持っているものの、一般書も出している親会社の中の一部門という位置づけらしく、確かに似た傾向の官能小説ばかりを出している。特定の層にターゲッティングしたほうが固定ファンがついて売れるのだそうだ。ジョセフのペンネームは知らないものの、小さなその会社で本を出している以上、彼の作品も同じ傾向に違いなかった。

「で、こないだ次の本の案を担当編集に送ったんだよ。さっきまでその電話しててさ」
「それでそんなにへこんでいるなら、ダメ出しでもされたのか?」
「ま、その通りなんだけど」

 ジョセフはココアを一口飲んで言葉を切る。創作上の悩みならばシーザーに言えることは何もないが、少なくとも最後まで聞いてやりたい。彼の言葉が続くのを待ってみてもしばらくは沈黙が続いた。

「…………そのダメ出しっていうのが、『これだとほとんど純愛ものだから、書き直してくれ』ってことでさ。そんなの初めて言われたし、ちょっぴりショック受けてんの」
「……よくわからんが、純愛ものだとダメなのか?」

 ようやく聞き出せたジョセフの悩みはシーザーには少しばかり理解しがたかった。心に決めた相手と愛を育むのは素晴らしいことだ。問いかければジョセフは困ったように頭をかく。その頬が熱を帯びているような気がして、そんなにココアが熱かっただろうかとシーザーは内心に首を傾げた。

「それじゃ売れねえってことなんだよ。一人の相手とイチャイチャするのが好きなやつなら、うちの本なんか手に取らねえの。おれだって「このビッチは燃える」って評判だったのに、編集には他のレーベル紹介しますか、なんて言われちまうし……落ち込むぜ」
「そ、そうか」

 シーザーからすればその評価が喜ぶべきなのかはわからないが、思うように書けないというのは作家にとって深刻な事態なのだろう。しょげた様子のジョセフの隣に座り、優しく背を叩いてやる。これくらいしかできないのがもどかしくもあった。

「そう落ち込むな、スランプだってあるさ。原因に心当たりはないのか?」

 聞いたとたん、シーザーの手のひらの下でジョセフの体がこわばる。悩んでいる当人に原因を聞くのはよくなかっただろうか。シーザーに彼を責めるつもりはなくてもそう取られてしまったかもしれない。取り繕う前に、背を丸めていたジョセフががばりと起き上がった。

「原因……はわかんねーけど、こういうのは気の持ちようだよな! 悩んでてもうまくいかねえし、切り替えるっきゃねえな!」
「あ……ああ、頑張れよ」

 急に調子良くなった彼にシーザーも適当な相槌を返す。さすがに「燃えるビッチを書けるといいな」とは言えなかったが、空元気でも前向きになれたのはいいことだ。明るく振る舞う彼に少し安心してシーザーも自室に戻る。自然とベッドルームに向かい、棚から数冊の本を取り出した。
 それらはすべて英語で書かれた官能小説だ。シーザーの読みが正しければ、この中にジョセフの作品が含まれている。魅力的な体を持ち、小悪魔的で、重たいほどの愛とは無縁な、誰にでも愛嬌をふりまくヒロインたち。それが彼の理想だとすればシーザーの対極と言っていい存在だ。多少スランプに陥ったジョセフも、次作までに調子を取り戻すだろう。そのことにどこか寂しさを覚えてしまったシーザーは、いつの間にか恋人気取りの自分自身に気づいて小さく笑った。


 その翌週、ノックされたドアを開けたシーザーは目の前の男の顔つきにぎょっとした。ここ数日部屋にこもっていたらしいジョセフの目の下にはクマが広がり、髪もぼさぼさに乱れている。このところ執筆作業中だと聞いて声をかけないようにしていたシーザーは驚きつつもとりあえず部屋に招いた。

「……お前、根を詰めすぎだろう。締切が近いのか?」
「いや、そーじゃねえんだけど……とにかく、腹減ったからなんか食わせて」

 横柄な口ぶりも弱ったジョセフの背中を見れば許してしまいたくなる。ひとまず彼をリビングのソファに寝かせてシーザーは冷蔵庫の中をあさった。休日の昼で、シーザー自身はまだ空腹ではないがかまわない。パスタを茹で、トマトとガーリック、それに肉を加えてごく簡単に昼飯を作ってやれば、待ちかねた様子のジョセフに歓迎される。空腹らしい彼を満たすにはボリューム不足は否めないものの、おかわりまで完食したジョセフは人心地ついたようにみえた。

「あー……やっぱシーザーのメシは最高だな、頼ってよかったぜ」
「口ばかり達者なやつだな、腹が減ってるからうまく感じるんだろう。それより、なんであんな行き倒れみたいな顔してたんだ」

 ジョセフの賛辞をかわして問いかければ、彼はいささか面倒そうに片手を振る。シーザーにとって、あれほど生気のないジョセフの顔を見たのは初めてだったのだ。心配そうにうかがうシーザーにやけにあっさりとした答えが返った。

「大したことじゃねえよ、次回作に向けてちっとばかしカンヅメになってただけ。ちっとも進まねえからひでーツラになってたけどさ」
「カンヅメって、篭りきりだったのか? 少しやりすぎだろう、言ってくれれば差し入れくらい作ってやったのに」
「あー……それじゃ意味ねえっていうか……」

 急に困った顔で視線をそらすジョセフにシーザーは首を傾げる。彼はふらふらになるくらい自分を追い詰めていたようだし、誰かと顔を合わせるだけで集中に差が出るのだろうか。小説家の考えは読めないものの、シーザーはへたに声をかけなくてよかったと思っていた。いくら知らなかったとはいえ、惚れた相手に迷惑がられては耐えられない。こうしてねだられたときに料理を振る舞えればそれで満足だった。

「……で、カンヅメになってる間にいろいろ考えたんだけどさ。――おれ、イギリスに帰るわ」
「…………JO、JO」

 あっさりとそう言われ、心の準備もなかったシーザーはそれきり言葉を失う。告げたジョセフはやけにさっぱりした顔をしていて、シーザーはますます何も言えなくなった。わかっていたつもりだった。異邦人である彼がここに留まっているのはただの気まぐれであり、いずれここを去る日が来るのは理解している。そうはいっても突然の別れを突きつけられ、シーザーは打ちのめされたような思いだった。

「そ……そうか、お前が出て行けばここも少し静かになるな。達者でやれよ」

 大きなショックを受けていることを悟られないよう、シーザーはあえてぞんざいな口調で返す。ジョセフが去り、空っぽの隣室に別の住人が入居する。想像するだけでシーザーの胸の奥が冷えていくような気がした。

「……それで、シーザーに伝えなきゃならないことがあるんだけど」
「なんだ、JOJO……」

 言ったジョセフはなぜか両手でシーザーの耳をふさぐ。言いたいことがあるはずなら取らないだろう行動を疑問に思うものの、正面からジョセフに覗き込まれてシーザーの鼓動は大きく波打った。不自然な動悸を悟られないか不安に思い始めるころ、ジョセフの唇が動くのを見る。耳を覆う手がそのままでは彼の声が届くことはなく、聞き返すためにジョセフの手をどけようとしたシーザーは、鼻先にキスを落とされてその動きを凍らせた。

 今、何が起こったのか認識できない。正確には認識しても理解が追いつかなかった。まばたきすら忘れてその場に固まるシーザーを尻目に、するりと身を離した彼は背を向けて逃げ出す。呆然としていたシーザーが我に返って追いかければ、立て付けの悪いドアを開けようとして苦戦していたジョセフに追いつく。シーザーが自身の住むアパートの古さに感謝したのは初めてだった。

「てめっ……どういうつもりだ!」

 扉に向かっていたジョセフを力づくで振り向かせ、シーザーは激しい口調で詰め寄る。音もなく動いた唇は愛の言葉をかたどっていたし、触れるだけのキスは夢のように優しかった。愛を謳歌する国に生まれたシーザーであるから、これだけわかりやすい言動に込められた思いに気づかないはずがない。もし、ジョセフに好かれているのなら。あまりに思いがけない展開にシーザーの思考は混乱し、押さえ込んでいたはずの感情が激しく波打った。
 無理やり振り向かせたジョセフの顔を覗き込めば、その頬は熱を帯びて瞳には涙の膜が張っている。感極まってというよりやるせなさに耐えるようなその表情に驚き、胸ぐらをつかんでいたシーザーの手が思わずゆるむ。拘束を解かれてもジョセフはもう逃げ出そうとはせず、泣きそうな顔で目をこすった。

「……そりゃ、おれだってダセえと思ってるよ。言い逃げみたいなやり方、かっこ悪いよな」
「JOJO……?」

 悲壮感すら漂わせるジョセフの面持ちにシーザーも言葉をかけるのをためらった。愛の告白に似つかわしくない雰囲気に、さっき触れた唇の感触も幻だったのかと思ってしまう。うつむいたジョセフが小さく「好きなんだ」と呟くのを聞いてますます混乱した。

「……変なこと言って悪かったな。もう顔を合わせることもねえだろうし、安心してくれよ」
「JOJO……!」

 再び背を向けて去ろうとするジョセフの腕を掴んで引き止める。振り向いた顔にもう涙の気配はなかったが、寂しそうなジョセフにシーザーの胸はうずいた。彼に想われていたのなら、もっと早くシーザーからも積極的になるべきだった。別れと同時に恋情を告げられるなんてつらすぎる。だからこそジョセフも思いつめた表情になるのだろう。いつまでもこの距離ではいられないと分かっていたはずなのに、シーザーはおのれの意気地なさを悔やむ思いだった。

「なんでそんなこと言うんだ。お前が引っ越しても、また会えばいいだろう。……おれも、JOJOが好きなんだから」
「えっ?」

 シーザーが覚悟を決めて伝えた言葉は間抜けにも聞き返された。少しばかりむっとしてジョセフの巨体を見上げれば、彼はぽかんとした顔でシーザーを見つめている。まったくの予想外だと言わんばかりのその表情にシーザーも怪訝な視線を向けた。彼がジョセフに好意を抱いていることはとっくに知られていると思っていたのに。急に伸びてきたジョセフの両腕がシーザーの肩を掴み、子どもに向き合う親のように問いかけられた。

「……シーザーちゃん、おれの言ったことわかってる? 好きってことは付き合いたいってことだぜ」
「当たり前だろう、他に何がある。お前こそ、おれが惚れてもいない相手に股を開く男だと思っていたのか」
「……だって、シーザーああいうの好きじゃん? いろんなやつと遊ぶのが好きなのかと思っててさ……」

 ああいうの、と言われてすぐにはピンとこなかった。少し考えたシーザーが思い出したのは寝室に並ぶ官能小説の数々だ。女好きではあるものの、恋人を泣かせたことはないシーザーが浮気性だと言われるのはあのせいに違いない。しかしあれらはあくまでジョセフが書いたと思うから集めていただけで、その内容に思い入れはなかった。大きな誤解をされていると気づいたシーザーは反対に聞く。

「JOJO……お前、なんでおれがポルノ小説を読んでいるか、わからないのか」
「そりゃ、スケベだからだろ? 他にどんな理由があるんだよ。複数プレイものばっかり集めてたし、元からそういうのが好みってことだよな」
「……それならわざわざ英語の本を選ばないだろう」
「そのほうが本屋の店員に内容ばれにくいからじゃねーの? シーザーってそういうとこ気にしそうだし……いってえ!」

 あまりに的はずれなことばかり言われ、シーザーは腹立ちまぎれにジョセフの胸を殴る。本気でないとはいえ、油断していたところに耐えられなかったのだろう、ジョセフはふらついて一歩下がった。彼は何もわかっていない。怒りさえこみ上げてきたシーザーは自宅の壁の薄さも忘れて怒鳴った。

「そんなわけあるか、スカタン! おれを好きだとか言っておいて、何もわかってねえじゃねえか!」
「シーザー……」
「人を尻軽扱いしやがって、冗談は休み休み言え! 言っておくがな、てめえに会うまでは官能小説なんて手にとったこともなかったんだぞ! お前が……お前が書いてると思ったから、わざわざ探し出して買い漁ったのに」
「……それ、ほんと?」

 胸を押さえていたジョセフが真剣な声音で聞く。シーザーは己の女々しさまで吐露させられたようで、頬が熱を帯びているのを感じた。しかし、彼が何も言わずにいたからこんな勘違いが生まれたのだ。冷静さを取り戻す前に、シーザーは小さく呟いた。

「……JOJOに近づけるなら何でもやりたかった。それくらい惚れてるんだ」
「シーザー!」

 いきなり飛びついてきたジョセフに押されて二人は廊下に転がる。狭い廊下でシーザーが頭を打たずに済んだのは持ち前の反射神経のおかげだった。押し倒された格好に文句を言いたくても彼を見下ろすジョセフの顔は喜色にあふれている。195cmの巨漢をかわいいと思ってしまうのだからシーザーの負けは明白だった。

「それっていつからだよ? イタリアで英語の小説なんてどこでも買えるもんじゃねえし、結構前からおれを追いかけてたってことだよな」
「……うるせえな、そんなのどうでもいいだろうが」
「どうでもよくねえよ。あー……遊んでるシーザーに付き合ってって言っても無駄だろうと思ってたけど、よかった……」

 心底安堵したように言ったジョセフは全身の力を抜き、シーザーの豊満な胸筋に顔をうずめる。跳ね回る黒髪を撫でてもその手のひらは拒絶されず、シーザーはやっと思いを通じ合わせた幸せを噛み締めた。ポルノ小説を集めていたせいでずいぶんと誤解されてしまったようだが、ジョセフへの思いをこじらせるだけで自分から伝えようとしなかったシーザーにも非がある。これでようやく結ばれたのだと思うと妙に気恥ずかしかった。

「……というかだな、JOJO。お前こそ遊んでる女性が好みなんじゃあないのか? 小説でもそんなヒロインばかりだっただろう」

 シーザーが気になったのはそこだった。結局ジョセフの筆名はわかっていないものの、あのレーベルから刊行されている小説はどれも同じ傾向である。もちろんジョセフの作品も同じはずで、性に奔放な女性を魅力的に描いていることだろう。いくら作品と作者の実体験が別物とはいえ、そこに好みが反映されていると考えるのは間違いではないはずだ。それを言えばジョセフは「あー……」と言葉を濁して目をそらす。追及する視線を注いでいれば耐えきれなくなったのか、ジョセフはやけ気味に叫んだ。

「……わかったよ、言えばいいんだろ! 確かにおれはビッチ好きだよ。ちっとばかし頭が悪くても胸がでかくて明るい子がタイプだし、小説もそういうパターンばっかり書いてた。でもそれが急に書けなくなっちまったの」
「前に言ってたな。スランプの時期だったんだろう」
「スランプには違いねえんだけど……おれがビッチもの書けなくなったのはオメーのせいだぜ、シーザー」

 名指しで言われても飲み込めず、シーザーは黙ってまばたきする。彼のスランプの原因だとはどういうことだろうか。締切が近い時期には干渉しすぎないよう気をつけたし、そうでないときには気晴らしになるような場所へ連れ出したりもした。イタリア女性を紹介しなかったのは確かだが、ジョセフもそれを求めているようには見えなかった。執筆活動の邪魔をした覚えがないシーザーが首を傾げるのを見て、ジョセフはがりがりと頭をかく。それは苛立ちよりも照れ隠しに見えた。

「だから……誰か一人を好きになっちまったから、ビッチなんて書けなくなったってこと! おかげで商売上がったりなんだぜ、責任取ってくれよな」
「……お前、それって……!」

 誰かなんて遠回しな言い方でもわかる。ジョセフはシーザーのせいで自身の好みまで変わってしまったというのだ。それほど真剣に思ってくれていることを知り、シーザーの胸は熱い思いで満たされる。こみ上げる衝動に任せて力いっぱいにジョセフを抱きしめれば慌てたような声が響いた。

「JOJO! お前ってやつは本当に……! 離れ離れになったって追いかけてやるからな、イギリスで待ってろよ」
「それなんだけどさ……シーザー、ちょっと離して」

 くぐもった声で言われてシーザーは抱きしめる力をゆるめる。解放されたジョセフはこれくらいでどうにかなるほどやわな男ではないはずだが、力加減に気がまわらないほど高揚していたことに気づいてシーザーは内心恥じた。まじめな表情に戻ったジョセフはのしかかるように押し倒していたシーザーの体を起こし、正面から見つめあう。急に真剣な瞳で見つめられ、やけに意識してしまったシーザーは落ち着かなく視線をそらした。

「やっぱおれ、イギリスに戻るのやめるわ。チケットはキャンセルだ」
「……JOJO? どういうことだ?」

 唐突に話をひっくり返され、シーザーは喜ぶよりも前に問い返してしまう。彼が故郷に戻らないというのなら嬉しい知らせだが、急に何があったというのか。そもそもなぜイタリアを出る必要があったのか、その理由もまだ知らなかった。

「ここを離れるつもりだったのは本当だぜ。シーザーのそばにいたら仕事が続けられなくなっちまう。イギリスに戻って頭を冷やせば、前みたいにビッチものが書けると思って引っ越そうと思ったんだ」
「……なら、どうしてやめるんだ。仕事はどうする」
「おいおい、アホな質問しないでくれよ。せっかく両思いラブラブになれたのに、シーザーと離れてビッチのポルノ書くわけねえだろ? 仕事なら、この機に純愛ものに転換するのも悪くねえよな。別の出版社も紹介してもらえそうだし」
「そ……それでいいのか? 今の仕事に手応えを感じていたんだろう、おれのせいでお前が望まない仕事をすることになるなら……」

 あっさりと言うジョセフにシーザーはかえって焦りを覚える。ジョセフがイタリアにとどまるのは間違いなく嬉しいが、そのために彼の仕事が犠牲になるというなら話は別だ。思い直してほしいのかそうでないのかわからなくなりながら、少なくとも熟考すべきだと促す彼にジョセフはウインクしてみせた。

「そんなこと心配すんなよ。ビッチでも一途でも、そのときのおれの理想を書くだけなんだから変わんねえだろ。路線変更したって、きっとまた人気作家になっちまうぜ」

 自身に満ち溢れた言葉に、門外漢であるシーザーが口を挟める点はなかった。誰よりも自身を知っている彼が言うのならきっと大丈夫なのだろう。「まだ、お前と一緒にいられるんだな」とささやいたシーザーが唇を寄せようとした瞬間にジョセフがあっけらかんと口を開く。

「あ、でも引っ越しはするぜ。こんな壁の薄い部屋、これ以上住んでらんねえし」
「……そう、か」

 アパートを出ていくと宣言したジョセフにどうしようもなく寂しさを覚え、シーザーは小さく言って肩を落とした。イタリアとイギリスの間ほどではないとはいえ、彼が引っ越せば今までよりも距離が開いてしまう。抱えた落胆を口に出さないのは、ひとえに子どもっぽいと思われたくないというシーザーのプライドだった。

「……なァんか勘違いしてるみてーだけど、引っ越すときはオメーも一緒だぜ? 今度は防音性バッチリの部屋に二人で住もうな、シーザー」
「――なっ、JOJO!?」

 思いがけない言葉に驚きの声を上げたシーザーは、頬に触れる手のひらを感じて言葉をひっこめる。彼の頬は赤くなっているはずなのに、それ以上にジョセフの体温が熱い。その温度が彼の熱情を表しているように思え、シーザーの心臓はひときわ高鳴った。

「……だめ? シーザー」

 甘えるように瞳を覗き込まれ、何も言えなくなってしまったシーザーの返事は一目瞭然だった。惚れた相手からこんな風におねだりされて抵抗できるはずもない。彼と同棲するのだと考えるだけで感情の波が揺れて押さえ込めなくなりそうだった。

「……一つ、条件がある」

 シーザーがそう答えればジョセフは唇を引き結んだ。緊張した面持ちの彼に小さく笑い、シーザーはゆっくりと口付けを落とす。驚いたように見開いたジョセフの瞳に自身が映っていることに満足して、再び唇が触れあいそうな距離でそっとささやいた。

「お前のペンネームを教えてくれ。……知りたいんだ、JOJO」

 彼に近づきたくて集めた官能小説は小さな山を成している。それでもなお、ジョセフの筆名はわからなかった。それを知ってもっと深く彼自身を理解したい。不器用なやり方しか選べなかったシーザーにジョセフはやさしくほほえみ、答えるために唇を開く。そのペンネームがポルノ小説の表紙に並ぶことはもうない。シーザーは官能小説家から恋愛小説家に生まれ変わった男を抱きしめ、もう一度甘く唇を交わした。