※パラレル
 真っ白の壁に黒い鉄柵、その間を埋める草花の緑。目当ての屋敷を見つけたシーザーはやっと肩の力を少し抜いた。もちろんその場にとどまり続けるような愚は犯さず、手にした地図に視線を落としながら道に迷ったふりで次の路地を曲がる。
 人通りのまばらな道ではあるものの、自然なその足取りは見る者に不審を抱かせることはないだろう。そうでなくては困る。ここで人の目にとまるようなことがあっては、彼のこれからの仕事に支障をきたしかねないのだ。


無重力トリップワイヤー



 それから数日。シーザーは人の多い本屋の中でその機を待っていた。

 イタリアンマフィアの構成員であるシーザーがNYの地を踏んでいる理由は、単に上からの指示である。厳しくなる一方の本国の取り締まりから逃れ、新天地に活路を求めたボスの決断が正しいかはまだわからない。彼はその先遣隊の一人だった。

 NYで活動できるだけの下地を整えるのが彼らの使命だが、事はそう簡単に運ばない。警察の監視をかいくぐるだけでなく、地元の裏社会を味方につけておかないとのちのち困ったことになるのは目に見えていて、そのため大掛かりなことは避けておきたいのが本音だ。そうなるとシーザーたち下っ端は小さな仕事が割り当てられるだけになる。幹部たちこそ忙しそうに取引や根回しを続けているようだが、最近のシーザーは本国にいたころよりも時間をもてあましているくらいだった。

 今回命じられた仕事も、本当ならばマフィアが手を出すとは思えないような内容である。どこぞの元貴族が持っているという宝石を手に入れろと指令を帯び、シーザーはここに立っていた。
 周りで噂になるほどだというその宝石はシーザーも確かに目にしている。数日前、例の屋敷から姿を現した黒髪の女性が身につける赤石は信じられないほど大きく、美しい輝きを放っていた。ガラス玉かと思ってしまうほどのサイズであっても、太陽の光を浴びたそのきらめきは確かに本物の宝石だと示している。これならマフィアも目をつけるはずだと納得したものだ。

 所在を確認できたならあとは手に入れるだけだ。最も手間の掛からない方法は気づかないうちに盗んでしまうこと、つまりスリであるが、下見のために数日間宝石の持ち主を観察していたシーザーはそれを断念していた。鮮やかな宝石をネックレスにして歩く女性はどうしても目立つ。そんな彼女を狙う不逞の輩を二回目撃し、そのどちらも目にも留まらぬ動きで叩きのめされていたからだ。
 我流ではあるものの多少は喧嘩の心得と経験を持っているはずのシーザーですら何が起きたのかわからないほどで、危機に陥った彼女を助けて恩を売るという目論見も実現しなかった。さりげなく遠まきから尾行していたシーザーに気づいたようすもなく、彼女は淡々と犯罪者を官憲に突き出す。堂々とした態度に、手慣れていると印象を抱いたのもおそらく間違っていないだろう。

 スリで奪えないのなら次に考えるのは空き巣だ。そのためにシーザーには彼女が住む屋敷の情報が与えられていた。前庭と門扉をそなえた屋敷に忍びこむのは少々骨だが、できないことはない。しかしそのためには家人が出払ったうえくだんの宝石が家の中に置かれている状況が必要だ。
 持ち主である女性、リサリサは外出するときに必ず赤石を身につけているし、屋敷には彼女のほかにも人がいる。そのうえ整備された街路はコソ泥が身を隠すには不向きだった。

 となると取れる方法は限られてくる。あくまでおおごとにせず進めろというのが上からの指示なのだからシーザーは従うしかない。相手が年若い女性であることを考え、シーザーは色仕掛けで事を進めると決めた。リサリサに近づいて警戒心をとき、部屋に上がったときにこっそり頂戴すればいい。それなら宝石が彼女の手元にあるかどうかも確実に判断できるし、たとえリサリサが宝石を離さずにいてもベッドの中では必ず外すのだから、その機を狙えばいいのだ。

 しかし、リサリサは朝早く出かけて夜遅く帰ってくる繰り返しで、彼女が乗り込むキャブの行き先もわからない。そのフォーマルな服装を見るに、たとえ目的地をつきとめたところでシーザーが溶け込めるとは思えなかった。いかなシーザーが色男といえど、場にそぐわない相手を警戒する女性を攻略するのは難しい。さりげなく近づくために彼が選んだのは迂遠にも思える手だった。


 休日だけあって本屋はそれなりににぎわっている。二つ向こうの棚に目当てのシルエットを見つけ、シーザーは実に自然な足取りで近づいていった。顔を合わせたことはないがシーザーはその相手を知っている。そのまま無言で横を通りすぎ、彼が本屋を出るそのわずか前に後ろから声がかけられた。

「なあ、そこのオニーサン! なんか落としたぜ!」

 驚いたように振り向くシーザーを追いかけてきた男が落とし物を差し出す。彼の手の中でずいぶん小さく見えるそれはシーザーの手帳だ。むろん、彼が所属する組織をはじめとした「知られてはまずい情報」は何一つ書かれていない。

「Grazie……あぁ、いや、サンキュー。大事なものなんだ、拾ってくれたのが親切な人でよかった」

 声をかけられたシーザーはわざとらしいほど嬉しそうに笑みかける。母国語で言いかけたのも、もちろん手帳を落としたのも計算のうちだ。シーザーという行きずりの相手が接近するには何がしかのきっかけがなければ始まらない。このあとの展開がどう転ぶかは相手次第だが、シーザーにはそれなりにうまくやる自信があった。

 シーザーが向き合う男の名はジョセフ・ジョースター。リサリサの屋敷で暮らす同居人だ。一つ部屋の下で男女が二人きりと聞けば勘ぐりたくもなるというものだが、単に彼らは親戚であるという話だった。
 宝石の持ち主であるリサリサとの接点を持てない以上、遠回りであってもジョセフを通じて親しくなったほうがいい。警察に目をつけられて追われているという局面でもないのだから、急いて仕損じるよりも着実に進めるべきなのだ。一人でケンカを売り歩いていたころと違い、組織に属したシーザーは慎重さを身につけている。

「礼になるかわからないが、もし時間があればコーヒーでも飲まないか? 奢らせてくれ」

 シーザーが甘い笑みとともに言えば相手は驚いたような顔をした。「拾っただけなのに、そんなの悪いだろ」と断ろうとするジョセフはそれなりに常識を持ち合わせているらしい。と言ってもシーザーの方も引き下がるつもりはなく、受け取った手帳を示しながら更に言う。

「それくらい大切なものなんだ。……それに、実はおれものどが渇いていてな。このへんでコーヒーがうまい店を教えてくれないか?」

 少々の茶目っ気を乗せて言えばジョセフもニヤリと笑う。この誘い文句のために異邦人であることを示しておいたのだ。シーザーの目論見通りに動いているとは気づかず、軽く請けあったジョセフが先導して本屋を出る。気安い口調のおかげか、二人の間から初対面における緊張は消えていた。

 彼がシーザーと同年代なのは幸運だった。必要以上に気を使うこともなく、自然に会話が流れていく。ジョセフに先導された先のカフェでコーヒーを注文し、向かいあったシーザーは聞かれる前から自分の身の上話を始めた。もちろん嘘で固めた経歴だが、すでに罪悪感はない。騙される方が悪いと言い切れる程度には良心が麻痺していた。

 自身についてイタリアの学生であり、バカンス中に渡米してきた旅行者であると名乗る。大学で知り合ったNY出身の彼女に会いに来たのだが、訪れてみたところあっさり振られてしまった。滞在の目的を失い、時間を持て余していたところだと言えば、ストローを咥えるジョセフの表情が驚きから嫌味な笑みに変わっていく。滑稽さを含んだ作り話はリサリサを尾行していた数日間に考えたものだ。

「……そりゃあ、わざわざイタリアから来たのにお気の毒だなァ」
「おい、笑ってんのはバレてるぞ」

 取り繕うのを諦めたようにジョセフが笑い出す。大柄な体が揺れてアイスティーの氷が音を立てた。笑われているとはいえ、真っ赤な嘘なのだからシーザーの方も腹は立たない。彼がすましているのがいっそう滑稽なのか、ジョセフは自分を落ち着かせるように再びストローをくわえた。

「笑っちまって悪いな。おたくみたいな色男でもそんなことあんのね」
「おれだって笑い飛ばしたいくらいだ。おかげで時間を持て余してる」

 シーザーが頼んだのはエスプレッソだが、アメリカンが主流のこの国では見た目だけ似せたまがいものしか出てこない。小さなカップを傾けながら、シーザーは祖国の味を恋しく思った。

「振られちまったのは残念な話だけど、せっかくNYまで来たんだから観光でもして行けばいいんじゃねえの? まあ、おれだって出歩くほうじゃねえけどな」
「むろん、そのつもりだったさ。しかし、今となってはな。一人で観光名所に行ったところで、アリシアが隣にいないさびしさを味わうだけだ」
「ま、そうかもしんねーな」

 アイスティーをすすったジョセフはそこでふいに言葉を切る。シーザーの方もこの機に作戦を練る必要があった。相手の警戒を解くことには成功したが、まだ本題には入れていない。どうにかして彼と親密になり、リサリサに近づかなくてはならないのだ。今までのジョセフの言動を計算に入れ、どう動くのが最善か思考を巡らす。その結論が出る前に正面から声をかけられ、シーザーは好青年ぶった笑みを乗せて首を傾けた。

「それなら、おれがこのへん案内してやるよ。おれも時間はあるからさ」
「……本気か?」

 思わず咎めるような声が出たのはシーザーの本音だ。異国で困っている若者は確かに同情を引きやすいだろうが、初対面の相手にそんな申し出をする人間は少数派に違いない。それに、シーザーが屋敷のまわりで張り込んでいた数日間で、ジョセフがインドア派であることはわかっている。どういう心境の変化だと戸惑うが、「お前はそんなタイプじゃないだろう」と言えば下調べしていたことがばれてしまう。

「…………その、そっちからすれば迷惑かもしんねーけど」
「――いや、違うんだ。あまり親切にしてくれるから驚いただけで、とても嬉しく思っている。本当だ」

 いささか慌てて取り繕えばジョセフはその太い眉をゆるめる。シーザーからすれば彼の提案は願ったり叶ったりで、なんと言いくるめるか思案する手間が省けたというものだ。こうなれば彼の気が変わる前に行動に移してしまいたい。小さなカップを呷る彼にジョセフは指先でストローをいじっていた。

「あー、でも、このあたりじゃたいして見るところもないんだよなァ。せっかくイタリアから来たのに、観光にはならねえかも」
「なんだ、そんなの気にしねえよ。人が多いところはあまり好きじゃないしな。むしろ、少し寂れたところのほうが外国の暮らしを知れて面白い」
「へえ、変わってんな。ま、もともとが観光目的じゃないならそんなもんかね」
「……正直なところ、気をまぎらわせられればそれでいいんだ。失恋の痛手は忘れるしかないからな」

 シーザーが肩をすくめてそう言えばジョセフは再び忍び笑いを漏らす。実際のところは失恋などしていないからいいようなものの、本当に傷心の相手に同じことをやれば殴り飛ばされても文句は言えない。デリカシーのなさに内心呆れつつ、そうとは感じさせない笑顔でシーザーは場を繕う。彼にとってジョセフはリサリサに近づくための手段であり、それ以上の意味を持たない存在だった。

「案内してくれるならよろしく頼む。……まだ名乗ってなかったな、シーザーだ」
「おれはJOJO。NYを楽しんでくれよな、シーザーちゃん」

 ウインクとともに告げられた愛称を彼はとっくに知っている。短い付き合いになることを知っていて、シーザーは完璧な笑顔でそれに応えた。


 それから一週間、シーザーはジョセフとともに遅いランチを取っていた。
 結局彼とは毎日顔を合わせ、近所のバーや小さな展望台、評判のパン屋といった地味なスポットをめぐるのが日課になっている。そう運ぶように策を巡らせたのはシーザーだが、こうもうまくいくとは思っていなかったくらいだ。

 ジョセフと交わす会話の端々からはリサリサの生活も垣間見え、わずかずつではあるがターゲットに向かって前進している。昨日、組織のねぐらにガサ入れがあったせいで目立つ行動を厳しく禁じられ、ほかに打つ手が見当たらないのも本当だった。
 シーザー自身に後ろ暗いところがあるせいで観光名所を避け続けているものの、ジョセフのような切れる男を伴っていればたいていのところは面白い。数日間同行してそれを知ったシーザーは内心に舌を巻く思いだった。おとといなどは彼の人生で初めて美術館に足を踏み入れ、横の男がいかに博識かを目の当たりにして戸惑ったほどだ。
 個人の趣味が高じて美術館の体裁を取ったという規模の小さな展示でも、あるいは作品の成り立ちに触れ、あるいは作者の人柄を話し、ジョセフが知らない作品でもその時代の流行を噛み砕いて教えてくれる。芸術など腹の足しにもならないと小馬鹿にしていたシーザーですら興味を引かれるほどで、彼への評価を改めざるを得なかった。

 その一方で、ジョセフの正体はよくわからない。顔を合わせている間はともかく、普段何をしているのかが探れないのだ。シーザーの所属する組織からの情報で、マフィアや警察の一員ではないと確認できているものの、シーザーとともに曜日を問わず出歩いているところを見るに働きに出ているわけでもない。本人に探りを入れれば「今はァ、充電中?」と捉えどころのない返事が返ってきた。

「……お前、よくそんな派手な色の食い物を食えるよな」
「ん? 何が? どーせ食べるならこっちのほうが楽しいじゃん」

 ジョセフが選んだ、期間限定だというバーガーはシーザーの常識で測ればとうてい人が食べるものではない色をしている。ピンク、黄緑、紫の色彩を放つ大小のパテがバンズの間に挟まり、その上から白っぽいオレンジのソースがかかったそれを一言で表すなら「創造主への冒涜」になるだろう。グロテスクなかたまりをすでに1/3ほど食べ終えたジョセフは不思議そうに首を傾げる。

「アメリカ人のセンスはおれには理解できん。そもそも何味なんだ、それ」
「味は普通のバーガーと変わんねえよ。ソースは……スパイシー、なんとか」
「……理解できん」

 同じせりふをこぼしたシーザーは右手のフォークを動かしてパスタを巻きつける。彼が注文したボロネーゼは茹で具合こそアルデンテなものの、ソースが塩からすぎて半分以上残すことになるだろう。渡米以来、シーザーの最大の不満はこれだった。

「これだけ栄えてるっていうのに、アメリカのメシはまずいな。イタリアが恋しいくらいだ」
「そーぉ? たしかにイタリアは美食だっていうけど、そんなに違うもんかね」
「天と地ほども違いがあるぞ。お前にも食わせてやりたいくらいだぜ、JOJO」

 わざとらしくため息をついたシーザーは塩のきついボロネーゼを口に運ぶ。近くのイタリアンレストランを案内してもらったこともあるが、そこでもアメリカンテイストのアレンジが加えられていて閉口するだけだった。目の前のジョセフを含め、シェフも客も舌が馬鹿なのだと思うほかない。

「そう言われると本場のイタリアンってやつも食ってみたくなるなァ。シーザーって自炊とかできんの?」
「まあ、簡単なものならな」
「じゃあおれに作ってくれよ。今どこに泊まってるんだっけ?」
「作る……って、お前な」

 言われてシーザーは内心に動揺する。彼の現在の拠点は組織の連中と同じ一室であり、当然ながら一般人、それもターゲットの近親を出入りさせていい場所ではない。以前も彼についた嘘を思い出し、「今は知り合いに間借りしているだけだから人を連れ込めない」と答えればジョセフは納得したらしかった。

「あぁ、そりゃ家主からすれば見ず知らずの相手だもんな。最近このへんも物騒だし、そりゃまずいか」
「へえ、そうなのか」
「おれもよく知らねーが、噂じゃ海外の犯罪組織がNYに移動するらしいとか聞いたぜ。どこまであてになるか怪しいけどな」

 無関心に聞こえるよう相槌を打ちながら、シーザーはその情報を胸のうちに書きとめる。彼ら組織の動きがジョセフの耳に届くようなところまで噂になっているとは思わなかった。彼のような一般人に存在を知られたところで害はないにせよ、やりにくくなるのは間違いない。ねぐらに戻ったときにでも幹部に報告するとして、ジョセフの言葉が続くのに意識を向ける。

「じゃあ、シーザーがうちに来てメシ作ってくれよ。必要なものは準備するし」
「…………ん? ……どういうことだ?」

 あまりにも都合のいい幻聴にシーザーの持つフォークと皿がぶつかって音を立てる。戸惑う彼が視線を向ける先でジョセフはあっけらかんと繰り返した。

「だから、おれんちでメシ作ってくれって言ってんの。あ、食材費なら心配しなくていいぜ」
「い、いや……その、いいのか? お前一人で住んでいるわけじゃあないんだろう」
「リサリサなら気にしなくていいって、あいつが家でメシ食ってんの見たことねえし。うち、ここからけっこう近いんだぜ」

 それは知っている。突拍子もないジョセフの言動が理解できずにシーザーはわずかな沈黙を挟んだ。物騒だと言っていたその口でほとんど知らない相手を連れ込むなんて、もしかしてバカなのだろうか。
 しかし彼にとっては願ってもない話だ。ジョースター邸に入り込んでリサリサに近づき、あるいは案外その場で赤石を手に入れてしまえるかもしれない。そのときになってから空き巣のために門扉を開くような行動を悔やんでも遅いのだ。はやる気持ちを悟られないよう不必要にぶっきらぼうに答えるシーザーは浮かぶニヤニヤ笑いを噛みころした。


 買い出しの成果を両手に抱えたシーザーが彼の屋敷の前に立ったのはその翌日だった。
 本当ならそんなつもりではなかった。目の前のうまい話に急に飛びついては不審を抱かれてしまう。機を見て進めるつもりだったシーザーは待ち合わせ場所に現れるなり妙に乗り気のジョセフに背中を押されるようにして近所のスーパーまで連れて行かれ、その場で料理に必要なもろもろを選ばされた。以前言っていたとおり、費用はすべてジョセフ持ちであることに正直助けられる。何が楽しいのか、いつもよりはしゃぐ彼が菓子やコーラをカゴにしのばせるのを見つけるたびに叱るシーザーは子を持つ母親の気分だった。

 シーザーを招いてでもイタリア料理を味わいたいというジョセフの熱意は理解しがたいものがある。もとより彼のことは目標までの足がかり程度にしか考えていないシーザーは深く考えるのをやめ、与えられたチャンスを活かそうと頭を切り替えた。それでも今日で目的が達成できるとは限らない。あくまで赤石を狙いつつ、最優先事項は彼とリサリサに疑念を持たれないことだった。

「……言っておくが、本格的なものは作れないぞ」
「わかってるってェ。まずくたって文句は言わねえよ、イタリア人の料理を味わってみたいだけだからさ」

 言うジョセフはシーザーの腕を引く。リサリサを尾行していた数日間は毎日見ていた屋敷でも、門の中に入るのは初めてだ。前庭はきちんと職人の手が入っており、知識のないシーザーが見ても端正に整えられているのが分かる。重厚感のある扉を開けば、玄関ホールに細いシルエットが伸びていた。

「あれ、帰ってたのかよ」
「ええ、あいにく。JOJO、そちらは?」

 そこに立っていたのはシーザーのターゲットであるリサリサその人だった。初めてまともに顔を合わせた彼女を見てシーザーは一瞬言葉をなくす。遠巻きに見ていたときも素晴らしいプロポーションだと思っていたが、その顔立ちすら美しく整っていることには驚くしかない。横のジョセフが自分の名を口にしたことでやっと現実に呼び戻された。

「前から言ってただろ、シーザーだよ。シーザー、こいつがリサリサ」
「は……じめまして、お邪魔します」

 小さくおじぎするシーザーにリサリサはやわらかくほほえみかける。その拍子に豊満な胸元で赤石が輝き、マフィアとしても一人の男としてもつい視線で追いかけそうになるのをなんとかこらえた。彼女は出かけるところらしく、茜色の空の下をドレスをまとった背中が遠ざかるのを見送る。「夕食は一緒じゃないのか」と言えば、ジョセフは「あいつと差し向かいのメシなんて食った気がしねえよ」と返した。

「……美しい人だな。どことなくお前にも似ている」

 ため息をつくようにシーザーが言えばジョセフは「そうかァ?」と首を傾げる。シーザーの両手をふさぐ荷物を引き取った彼は奥に進み、その途中で振り向いていたずらっぽい笑みを浮かべた。

「惚れるなよ? あいつはダメだぜ」
「……覚えておく」

 皮肉なことに、シーザーはその言葉で自分の立場を思い出す。色仕掛けで近づくつもりが、彼のほうが落とされていては世話はないのだ。しかし、あれだけの美貌なら言い寄る男も多いだろうし、シーザーが近づいたところであっさりはねのけられてしまうかもしれない。成功率を上げるためには地道に信頼を得るしかないだろう。おのれに発破をかける思いで初心に立ち返り、まずは室内をそっと見回した。

 案内されたキッチンは屋敷の豪華さにふさわしく整えられていて、鍋底は照明を反射して輝いている。家主が言うには掃除には通いのメイドを雇っているそうで、シーザーは上流階級の生活にため息を漏らすしかない。彼の手際をのんきに見守るつもりらしいジョセフの視線を背中に感じ、シーザーは知らず拳を握った。
 ここでジョセフの胃袋をつかむことができれば、今後もジョースター邸を訪れる口実にできる。逆にひどい出来のものを出せば二度とここには来られないかもしれない。招いた本人は預かり知らぬことだろうが、シーザーにとってはまさに正念場だった。

 やや肩に力が入っていたものの、できあがった料理は満足のいくものだった。湯気のあがる皿にジョセフが歓声を上げる。手際よく紅茶が供され、二人が座ったテーブルにはしゃれた花が飾られていた。ジョセフが持ち上げたフォークの先を見守るシーザーの口元は固く結ばれている。パスタを口にした彼はその大きな目でシーザーを見つめた。

「うめーな、これ! イタリア料理って疑ってたけど、美食の国と呼ばれるだけはあるわけね」
「そ、そうか? そう言ってもらえると嬉しい」

 心からの言葉で答えたシーザーは自分もフォークを取る。オリーブとアンチョビのきいた味わいはアメリカでは珍しいのかもしれない。彼の言葉に社交辞令が含まれていたとしても、及第点は取れたことだろう。今後も料理を口実にして屋敷に出入りすることができれば万々歳だった。

「シーザーって料理うまいんだな。イギリスで食ったのとは別物だぜ」
「イギリス? 旅行にでも行ったのか」
「ちげーよ、イギリスがおれの故郷。言ってなかったっけ」

 目の前のプッタネスカをどんどん減らしながら言うジョセフにシーザーは「知らなかった」と返す。てっきりNY育ちだと思ってたのに、同じヨーロッパ出身だと知ると不思議に親近感がわいてくるようだった。移住者となると、広い屋敷にリサリサと二人きりで暮らしているのも謎めいて思える。もしかして祖国を追われるような立場なのだろうか。考えながらもシーザーの興味はそれほど動いていなかった。
 シーザーは上の指示通りに動くだけだ。ターゲットを決めるのは彼の領分ではない。素性が知れない相手といっても、別の犯罪組織に属しているかどうかくらいはすぐにわかる。その懸念がないのなら手を出してしまって構わないはずだ。面倒なことになればその場の全員を殴り倒して逃げればいい。そうなれば赤石も諦めることになるから、できればそうならないことを願うばかりだった。

 白を基調にあちこちに装飾が施されたダイニングは上品な高級感をまとっている。慣れない環境に知らず浮き足立っていたのか、シーザーは呼びかけられてやっと上の空だったことに気づいた。

「なあ、シーザー聞いてんの?」
「……ああ、すまない。なんだ?」
「こういうの、彼女にも振る舞ってるのかって。えっと……なんて名前だっけ」

 言いかけて思い出すように視線をめぐらせるジョセフに、一瞬遅れてシーザーも気づいた。彼が言わんとするのはシーザーの元彼女、という設定の架空の女性だ。会話が不自然にならないよう答えなくてはならないのに、つい先ほどまで料理に必死になっていたせいか以前ついたうそがとっさに思い出せない。NY出身の留学生で、彼女のもとに訪れたシーザーを振った相手。その話を蒸し返されるのは出会った日以来のことで、油断していたのも確かだ。たちまち冷や汗を浮かべる思いの彼に、ジョセフはのんびりした口調で続ける。

「確か、アイリスだったよな。その子にもメシ作ってやってたの?」

 彼の口から名前が出たことでシーザーはほっと緊張をゆるめた。以前ついた嘘をちゃんと覚えておかないと今後うまくやっていけないだろう。さといジョセフのことだ、整合性のとれていない行動は不審をいだかせかねない。そう肝に銘じたシーザーは肩の力を抜いてフォークを動かした。

「ああ。イタリアにいる頃に、何度かな。アイリスも喜んでくれたよ」
「……ふーん」

 急につまらなそうにそう返したジョセフは黙ってパスタを口に運ぶ。どこか不自然さの残る沈黙にシーザーが首をかしげる前に、元の調子の良さを取り戻した彼がにぎやかに話しかけてきてぎこちない空気は吹き飛んでしまう。気分屋のジョセフに苦笑しつつ、シーザーもあたたかな紅茶を楽しんだ。

 それからというもの、シーザーは毎日のようにジョースター邸に足を踏み入れた。
 最初の日のように料理を振る舞うこともあれば、その礼だと高価なワインで釣られることもあるし、ジョセフの好きなコミックを押しつけられたりもする。口実がなんにせよ、屋敷に入り込みたいシーザーとしては願ったり叶ったりの状況だった。

 ジョセフと出会ってからまだ一月も経っていないというのにずいぶんうまくいっている。自身の強運に鼻歌でも歌いだしそうなシーザーはふとその表情を引き締めた。いつの間にか目的を見失っている気がする。彼がジョセフに近づいたところでターゲットである赤石への距離は縮まっていない。
 訪れるたびに屋敷の構造を知れるのは収穫に違いないが、それはあくまでも目的のための準備段階だ。満足するには早すぎる。ジョセフを利用してリサリサ、ひいては赤石に近づかなくては。唇を固く結んだ彼はジョースター邸の門をくぐり、いつものようにノッカーを鳴らした。

 リサリサの持つあの大きな宝石は数百万ドルの値打ちはあるだろう。へたな銀行強盗よりも実入りが大きいというもので、本当なら1年かかっても狙うに値する獲物だ。それを手に入れようというのだから焦りは禁物だが、機を逃すわけにはいかない。
 組織の上層部は異国の地で貴金属の売買ルートを確保するのに手こずっていたらしいが、それも数日中にめどが立つそうだ。シーザーのやることと言えばひょいとくすねてあとは遠くまで逃げるだけ。そのチャンスを引き寄せられるかどうかは自分自身にかかっている。犯罪組織の一員には似つかわしくない生真面目さをもってシーザーは決意に燃えていた。

 しかし、なかなか好機には巡り会えなかった。まずはリサリサとお近づきになり、警戒心を解くべきだと決めたはいいものの、そのためにはジョセフがかえってじゃまになる。二人きりになる時間がほしいと思っても、ジョセフはまるでそれを察知しているように割り込んできた。夜分に屋敷の前で張り込み、彼が外出したのを確認してから花屋に飛び込み急いで戻ってもリサリサに渡す前にジョセフに出くわしてしまう。そんなことが何度か続き、シーザーはこっそり首をひねる。おかげでリサリサとは5分以上会話したためしがなかった。

 相変わらずリサリサは例の宝石を肌身離さずにいるし、彼女と同じベッドどころか同じ屋根の下で一夜を過ごしたこともなかった。つまり彼らの距離は全く縮まっていない。色仕掛けで落としてそのすきにいただいてしまおうという計画に暗雲が垂れこめているのを自覚しつつ、シーザーには今さらどうしようもなかった。

「シーザー! 待ってたぜぇ」
「――〜JOJO、お前、力入れすぎだ……」

 今夜もジョースター邸を訪れたシーザーに、出迎えたジョセフは力いっぱい抱きつく。大学のバカンスを利用して滞在していると嘘をついた手前、残された期限を惜しんでいるのかジョセフが抱きつく力は日に日に増しているような気がする。シーザーが相手だからいいようなものの、華奢なシニョリーナだったら怪我をさせかねないくらいの加減だ。
 そもそもなぜ毎回のようにハグされるのかもよくわからなかった。銃社会であるNYでは来訪者に対してこのくらいしないと不審物持ち込みの懸念があるのかもしれない。及び腰では疑心を持たれかねないと、シーザーも積極的に抱擁を返すようにしたところ抱きついたまま体を持ち上げられたこともあった。
 妙なところで子どもっぽいジョセフに戸惑いつつ、シーザーはいつものように完璧な微笑で持って応える。リサリサ相手ではないとはいえ、ジョセフを懐柔しておくのは間違いなくプラスになるはずだった。

 今日もジョセフのリクエストに応え、彼の好む味付けで手料理を振る舞う。もちろん打算も含まれているが、シーザーがいないときのジョセフの食事はレトルトかファストフードだと聞いて長男気質がうずいてしまったのも本当だ。近いうちにジョセフの元から去るとわかっていても、だからといって今この瞬間からすげなく接することはどうにも心が痛む。それがドライになりきれないシーザーの性質だった。

 食後の紅茶を傾け、アンティークだろう掛け時計を見上げればすでにいい時間だ。そろそろここを辞したほうがいいだろう。シーザーが屋敷から帰るときジョセフはいつも寂しそうな顔をするが、特段の理由もなくとどまっていてはそれこそリサリサの不審を買ってしまう。今日はリサリサも赤石も留守だったが、ジョセフによればまもなく帰宅する時間らしい。廊下からハイヒールが近づく音が聞こえ、シーザーは思わず腰を浮かせた。

「――JOJO、ここにいたのね。今晩のパーティーでおかあさまの好物をいただいたのでいたむ前に届けてきます。戸締まりはしっかりね」

 現れたリサリサは胸元が大きく開いたドレスをまとい、豊かな谷間に埋もれるようにして赤石の輝きが覗く。無防備なように見えて、彼女が武術の達人であると知っているシーザーにはそれがリサリサの自信の表れのようにも思えた。

「おばあちゃんのとこにって、今からかよ? 帰りは夜中になるじゃん」
「ええ、ですから向こうに泊まってきます。……そうね、シーザー」

 言いながらリサリサは二人のいるダイニングを通りすぎ、ごく自然な動作で巨大な宝石の付いたネックレスを外した。それを小さな箱にしまうところまでシーザーの椅子からはっきり見え、彼は驚きに目を瞠る。シーザーにとって赤石がリサリサの肌から離れるのを見るのは初めてだった。

「よければ、今夜泊まっていってくれないかしら? もし嫌でなければ、なのだけれど」
「今夜……ですか?」

 リサリサに問いかけられたシーザーは信じられない思いで視線をさまよわせた。リサリサが外したネックレスは小箱に収められて彼女の手の上にあり、外出の前に屋敷のどこかに置かれることだろう。そのうえ彼が宿泊を許されるなら、一晩かけて盗み出してもいいと言われているようなものだ。
 突然訪れたあまりにも大きなチャンスににわかに鼓動がはやるのを抑え、好青年ぶった笑みで「ご迷惑でなければ」と返す。リサリサを口説き落とすまでもなくチャンスが転がり込んできたのだ、この機を逃すつもりはなかった。

「ありがとう、シーザーがいれば安心だわ。よかったわね、JOJO」
「ちょっとォ〜、おれのことガキ扱いしすぎじゃねえの? ま、シーザーが泊まってくれるのは嬉しいけどさ」
「ではシーザー、すみませんが頼みます。JOJO、火の始末には気をつけるのよ」
「わかったから、早く行けよ!」

 言い置いてやわらかなほほ笑みを浮かべたリサリサは一度自室に姿を消し、それからすぐに屋敷を出る。手にしていた小箱は自室に戻るときに置いてきたらしく、それを確認したシーザーはこみ上げる笑いを殺すのに必死だった。ターゲットの位置は把握した。あとはジョセフの目を盗んで懐に入れ、ジョースター邸を去るだけだ。
 リサリサが一晩帰ってこないのなら、決行はジョセフの眠ったあとでいいだろう。彼の私室はリサリサの部屋とは別の階で、夜半に行動すれば見咎められる危険も減る。となればあとは彼が寝入るのを待つだけで、シーザーはすでにこの計画の完遂を確信していた。

「……そういえば、おばあさまと言っていたな。近くにお住まいなのか?」

 リサリサの行き先にさほど興味はないが、あまり近くであれば逃げ出すときに目撃されてしまうかもしれない。先ほどのジョセフとリサリサの会話を思い出し、念を入れてシーザーが問いかけてみれば彼はあっさりと答えた。

「ああ、ここから車で一時間くらいかな。ほんとは三人で一緒に住むつもりだったんだけど、最近おばあちゃんが体調崩しちゃってさ。今は空気のきれいなところで療養中」
「そうだったのか。お前のおばあさまなら、いつかお会いしたいな」
「いいな、それ。おばあちゃんも喜ぶと思うぜ」

 いつかもなにも、今晩を限りにシーザーは二度とジョースター邸に足を向けなくなる予定なのだがそんなことはおくびにも出さない。社交辞令めいた言葉にジョセフは嬉しそうに笑い、その顔に今さら罪悪感がこみ上げる。明朝、赤石とともにシーザーの姿が消えていればジョセフはどれほどショックを受けるだろう。友人を信じきっているお坊っちゃんへの裏切りに忘れていたはずの良心がかすかに痛み、シーザーはいくぶんぎこちない笑みで返した。
 そういえば、ジョセフの祖母をリサリサは「おかあさま」と呼んでいた。親戚だとは聞いていたが、思えばシーザーは二人の関係をよく知らない。単に姉弟だと思っていたリサリサとジョセフの間柄に小さな疑問を覚えつつ、大した問題ではないと結論づけたシーザーはそのまま忘れてしまった。

「しかし、本当にいいのか? 急に泊まるなんて、迷惑なようなら……」
「そんなの、リサリサから言い出したことなんだし気にすんなよ。それに、客の四、五人くらいいつでも泊められる用意はあるって。あ、シーザーはワインがいいよな」

 ジョセフに念を押せばやたら上機嫌に返される。鼻歌とともに高価そうなボトルを渡され、シーザーはこっそり苦笑を浮かべた。この大男がいまだにテディベアを抱いて寝ると聞いたときには困惑に眉を寄せたものだが、結局彼は相当な寂しがり屋なのだ。母親の監視の目がなくなって舞い上がる子どものように陽気なジョセフに合わせ、シーザーもアルコールで満ちたグラスを傾けた。

 赤石を頂戴してずらかるつもりのシーザーに酒精は邪魔だ。しかし、ジョセフを早々にベッドに入らせるにはアルコールの力も借りたい。ただ相手に酒をすすめるより、自分も盃を重ねたほうが酔わせやすいと判断したシーザーは自身もグラスを何度となく干す。案の定、やたらにこにこしたジョセフも釣られるようにして酒を流し込んだ。盗みの計画を思って気を張っているシーザーと違い、自宅で安心しきっているジョセフはアルコールの回りも早いだろう。彼の選んだウイスキーはシーザーの知らない銘柄で、きっと値が張るに違いない。
 ジョセフと酒を飲むのは二度目だが、前回はパブで一杯ひっかけただけだから互いにしらふのままだった。飽きずにグラスを重ねるジョセフはずいぶん機嫌が良さそうで、シーザーよりも色黒の肌がだんだん朱に色づいていく。狙い通りに頬をほてらせ、アルコールに瞳をうるませるジョセフはいつもより幼く見えた。彼の切れ者ぶりを知っているシーザーとしては妙におかしくて、知らず口元がゆるむ。自然に「かわいいな」と言いかけてはっとした。

 間違っても、自分よりも体格のいい大男に使うべき単語ではない。昼間との落差に惑わされただけで、酒精で頭が働いていないせいだ。そう自分に言い聞かせたシーザーは自覚していない酔いをさますべく立ち上がる。ジョセフの横に置かれたアイスペールはほとんど中身がなくなり、底に溶けた水が溜まっていた。

「氷持ってきてやるよ。新しいつまみでも作るか?」
「サンキュー。でもつまみはいいや、早く戻ってきてネン」
「自分は座ってるだけのくせに、よく言うぜ」

 皮肉で返せばジョセフは照れたように笑った。すでに勝手知ったるキッチンに入り、シーザーは大きく息をつく。今夜は赤石を手に入れるまたとないチャンスだ、むろん確実にやりとげてみせるつもりである。つまりジョセフとも今日を限りに別れるわけで、そのせいで妙な感傷が働いているのかもしれない。彼と気の置けない会話を交わす時間を惜しんでいるなんて泥棒にはふさわしくなかった。

 一人きりのキッチンなら少しは冷静になれるかと、シーザーはわざとゆっくり氷を補充する。ジョセフと出会ってひと月近く、ここまで時間をかけたのだから赤石は確実に手に入れてみせる。ネックレスが置かれたリサリサの私室に至るルートを思い描き、冷たい氷に触れていればそれなりにクールダウンできた。ジョセフとの間に信頼関係が築けたというのはまったくの錯覚であり、彼との別れが寂しいなんて感情も誤りだ。そう自分に言い聞かせるシーザーはのろのろと動かしていた手をやっと止め、氷をいっぱいに満たしたペールを手にダイニングへと引き返した。

「シーザー、なんかあっ……うわ!」
「……ッ、冷てえ……」

 急に顔を出したジョセフとぶつかり、アイスペールを取り落としたシーザーは中に残っていた水を服に引っかけてしまう。氷が溶けたそれは冷たく、思わず甲高い声が出た。

「悪ィ! それ脱げよ、今タオル取ってくるから」

 言い置いてキッチンを離れたジョセフの言葉に従い、濡れたシャツを脱いだシーザーは水とともにあたりに散らばった氷を拾い集める。ただの水であるから、床は拭けば平気だろう。すぐに戻ってきたジョセフがシーザーを見て咎めるように声をかけた。

「片付けなんてあとでいいから、体拭けって。ほら、早く」
「あ、ああ、すまない」

 清潔そうなタオルを渡され、シーザーは濡れた腹のあたりを拭う。バケツを引っくり返したわけではないのだし、水の冷たさには驚いたもののそれほど大げさなものではない。その間に床の氷と水はジョセフが片付けてしまい、シーザーの出る幕はなくなった。

「悪いな、手間をかけさせて」
「これくらい気にすんなよ。おれも急に顔出して悪かったし」

 そう言って振り向いたジョセフは上半身裸のシーザーを見て一瞬思案し、「着替え、貸す?」と聞いてきた。泊まるつもりではなかったシーザーは替えのシャツなど持っているはずもないし、その提案に無言で頷く。二人の体格差を考えるとサイズで妥協する羽目になるだろう。そのことを苦々しく思いつつ、背に腹は代えられないシーザーは黙って頷いた。

 着替えは寝室にあると言われて家主の背中についていく。ジョセフの私室を訪れたことはあるが、階上のその部屋はシーザーも立ち入ったことがなかった。通いのメイドを雇っているだけあって彼の寝室はシーザーの予想よりずっと片付いている。見上げるサイズのクローゼットに頭を突っ込んでいたジョセフはややしてからネイビーのシャツを差し出した。

「昔の服があればと思ったんだけど、みんな寄付しちまってたみたいでさ。ちっとでかいと思うけど、それ着てくれよ」

 そう手渡されたシャツに袖を通せば、たしかに少々ぶかついてしまう。わかっていたこととはいえ10センチ近い身長の差を思いしらされ、シーザーはなんとなく面白くない気分になる。濡れてしまったのは上だけだから全身着替えなくてすむのは助かるところだ。一方のジョセフは不満げなシーザーを見てやけにニヤニヤしていた。

「……なんだ、ひとの顔を見て笑いやがって」
「あれ、笑ってた? ……あー、なんていうか、シーザーがおれの服着てるって思って」

 確かにその通りの状況である。だからどうしたと首を傾げるシーザーにジョセフはごまかすように笑い、酔っぱらいのすることだからと好きにさせることにした。彼のために服を探したおかげで荒らされてしまったクローゼットに気づき、せめて片付けてやろうと考えたシーザーはその前に立つ。乱れた並びを直していると近寄ってきたジョセフが後ろからもたれかかった。
 自分より大きな相手に体重を預けられ、重たいのは確かだが力ずくで振り払うほどでもない。黙々と手を動かしていたシーザーは、ふいにうなじに噛みつかれて小さな悲鳴を上げた。

「なっ……何考えてるんだ、てめえ!」
「……ごめん、我慢できなくなっちゃった」

 熱っぽくかすれた声でささやいたジョセフは後ろからシーザーを抱きしめる。突然のことにシーザーの頭は混乱を極めていた。
 これまで決して短くない時間をともに過ごしていたはずだったが、彼がゲイだなんてまったく気づかなかった。いや、バイかもしれないが今のシーザーにとってはどちらでも同じことだ。ジョセフが投げた賽はシーザーの手のひらで転がり、どの目を出すかは彼にゆだねられている。どう動くのが最善か、シーザーの頭は沈黙のうちにフル回転した。

 ここで彼を殴り飛ばすのはたやすい。だが、今日は赤石を手に入れる千載一遇のチャンスなのだ。それを失うわけにはいかない。そうなると殴ったうえで宝石をいただくにはジョセフを失神させるだけの威力が求められることになり、背後から抱きつかれている今の状況ではかなり難しいだろう。油断させてから不意をつくにしても、ここは彼の縄張りだ。どこに護身用の武器が隠されているかわからないし、殴られてカッとなったジョセフがいきなりズドンときてもおかしくない。確実に赤石を入手してからずらかることを考えると、行きずりの暴漢を撃退するのとはわけが違った。

 シーザーにとって最善の状況はジョセフを遠ざけたうえでリサリサの部屋に忍び込み、気づかれずに屋敷を出ることだ。その目的を考えると力ずくで行動するのは反撃や通報されるリスクがある。逆に、セックスでジョセフの体力を使わせればシーザーの目的は達しやすくなるだろう。
 この体一つであの宝石が手に入るならお釣りが来るほどだ。せいぜい彼を夢中にさせ、消耗させてやる。そう決めたシーザーはジョセフに背を向けたまま唇を舐めた。


 脱がせたいと言うジョセフのせいで、シーザーは手持ち無沙汰な思いを抱えたままベッドの上に座っている。靴から順に脱がされ、そのまま全身剥かれるのかと思っていたシーザーをよそに彼は途中で手を止めた。ジョセフは靴を脱いだだけなのに対してシーザーは裸の上に先ほど渡されたシャツ一枚の格好で、なぜか妙な背徳感が湧き上がる。皓々とともった照明に気おくれし、シーザーは無意識のうちに後ずさっていた。

「なぁに、恥ずかしいの?」
「……そうじゃねえ。だが、せめて明かりは消してくれ。こういうのは明るい中でやるもんじゃないだろう」
「そぉ? 真っ暗で何もわかんなかったらそのほうがつまんねーじゃん」

 心底不思議そうに言ったジョセフも、無言のうちにシーザーが向ける視線に負けたように部屋の照明を消した。シーザーが安堵の息をついたのもつかの間、ベッドサイドに置かれたスタンドライトがオレンジの光を生む。とたんに浮かび上がるシルエットに抗議を込めて睨みつけても、ジョセフは小馬鹿にしたように肩をすくめるだけだった。
 裸の足に触れるシーツの感触は高級そうな肌触りをしている。どこか居心地の悪さを感じるシーザーの内心にはまるで気づいていないようなジョセフはサイドチェストをあさっていた。今のうちに残っているシャツも脱いでしまおうとシーザーがすそに手をかければなぜか慌てて止められる。ジョセフの手で最後の一枚も取り払われ、藍色のシャツを投げ捨てた彼は妙に満足げな表情を浮かべていた。

「……お前、男同士のやり方はわかってるのか」
「まぁ、聞きかじっただけだけどな。そういうシーザーちゃんは経験あるの?」
「…………さあな」

 露骨にはぐらかす言葉にチェストからローションを取り出したジョセフは片眉を上げたが、シーザーはそれ以上何も言わなかった。男に抱かれた経験ならある。固い体といえど、相手さえ選べば女性と同様に金を得ることも目的に近づくための手段にもできた。マフィアとしてならともかく、一介の学生を演じるシーザーに似つかわしくない記憶は伏せておくに限る。口を閉ざす彼にジョセフは一瞬だけ苦しそうな視線を向けた。

 一刻も早く相手を満足させて終わらせるのが今のシーザーの目的だ。経験のある自分が突っ込まれる側なのも文句はないし、ジョセフに協力するつもりもある。ローションでぬるつく指がシーザーの奥まったところに触れ、さらに誘うように足を開けば彼に圧し掛かるジョセフが皮肉げに唇を持ち上げた。

「あらン、ずいぶん乗り気じゃねーの?」
「……そうでなきゃ今すぐ蹴り飛ばしてるところだぜ」

 実際には乗り気というより打算による行動なのだが、今はこう言っておいたほうが都合がいい。「やっぱやめた、もう帰ってくれ」とでも言われたら今晩の目論見はすべて水泡に帰す。せいぜいジョセフに媚び、彼を骨抜きにするのがシーザーの狙いだった。
 久しぶりに男に足を開き、力の抜き方を忘れた体が少しばかり不都合だ。ジョセフの熱い指にこすられるそこは素直に口を開かず、生まれる圧迫感に苦しげな息が漏れる。「ンー」とジョセフの思案するような声が聞こえ、次いで与えられた刺激にシーザーの白い肩が跳ねた。

「――ッ、なん……」
「やっぱ、気持ちよくなさそうだし? シーザーもこっちのほうがイイだろ」
「ぅ、あ……!」

 ジョセフの大きな手がシーザーの性器を握り、そこからぐちぐちと音が漏れる。手淫を施されて頼りない声が出た。性感の束を刺激されればそんな反応も当然というもので、シーザーの指はシーツを握りしめる。器用な指先が性器を這い、すぐにそこは固く張りつめた。

「……熱くなってる。もしかしてェ、最近溜まってた?」
「る、せえ……」

 質問というより揶揄の色を帯びた声にそう返す。シーザーがNYを訪れてからはなじみの店もないし、ターゲットが赤石になって以来リサリサ以外の女性から遠ざかっていた。溜まっていると言われれば確かにそうだ。ジョセフの手で固く勃起した己の体にシーザーはそう言い訳する。ベッドサイドの照明を受けてジョセフが満足気に笑んだ気がするが、すぐに目をつぶったシーザーの勘違いかもしれなかった。

 大きく育った欲望を撫でられ、思わずシーザーの腰が浮く。こわばりのとけた体に二本目の指を入れられる感覚に声を噛みころした。ジョセフの手つきはやけに優しく、妙に落ち着かない心地にさせられる。視界を閉ざすシーザーは下肢を這うぬるつく感触に気づいてまぶたを引き上げた。

「――な、にして……!」
「……何って、ご奉仕?」

 身を伏せたジョセフがシーザーのペニスに舌を這わせている。信じられない思いで問いかけた言葉は心底不思議そうに返された。同じ男でも、むしろ男だからこそ性器を咥えるなんて金でも積まれない限りお断りだ。それをためらいもなく実行に移したジョセフにシーザーの頭の中はぐちゃぐちゃに混乱する。そもそもジョセフが彼に手を出したのは少なからず好意を抱いているからであろうが、こんな行動を取らせるほど強い思いだとは思わなかった。果たして彼は今までそんなそぶりを見せていたかと思い返したくとも今のシーザーにその余裕はない。再び浅く咥えられ、思わず小さな声が漏れた。

 後孔を拡げる指の異物感から気を逸らさせるのがジョセフの魂胆ならそれは成功だった。幹を舐め上げられ、舌先がカリ首を往復し、先端に吸い付かれてシーザーは性感をやり過ごすことに必死になる。響く水音がジョセフの唇の間から生まれるのか、ローションで濡れたシーザーの穴から聞こえるのかもわからなかった。
 シーザーとてうぶではない、どころかジョセフよりよほどただれた世界に身を置いてきたのだ。それなのに彼の施す愛撫に翻弄されてしまう。ビジネスとして奉仕されたことなら幾度もあるのに、今までにないほど刺激的な感覚に声を抑えられない。視線を向ければジョセフの精悍な顔がおのれの性器にキスを落とし、その瞬間にシーザーの全身はわけのわからない高揚に包まれた。

「……先っぽからなんか出てきちゃってるぜ、シーザーちゃん」
「う、るせえ……! ……も、いやだ……」

 性器の小さな穴に舌先を押しつけたジョセフが人の悪い笑みとともに言う。身を焦がすほどの羞恥心にシーザーの唇から泣き言が漏れた。あお向けの顔を腕で覆い隠してしまえば互いの表情はうかがえない。息だけで笑った気配のあと咥えこまされていた指が引き抜かれ、ベルトの金具が鳴る音にシーザーはそっと顔を出した。
 ボトムを脱ぎ捨てたジョセフは普段の余裕ぶった表情も人を食ったような雰囲気もどこかに消え、まっすぐに見下ろす視線はシーザーだけを射抜く。腰の奥が痺れるような錯覚を味わったシーザーは言葉もなく息を止めた。初めてでもないのに、どうして彼に翻弄されるのかわからない。まだ触れていないジョセフの性器が硬くなっているのを見てシーザーの喉が鳴った。

 それと同時に、このままだと彼のペースで事が進んでしまうと今さらながら気づく。なんにせよ相手に合わせるのは少なからず体力を使うはずであり、それだけ早く疲労する。シーザーからすればジョセフにはくたくたになってほしいわけであるから、今のままでは望む状況には至らないだろう。
 今からでも遅くはない、主導権を握ってしまいたい。半分熱に浮かされた頭でそう決めたシーザーはシーツの上で身を起こす。高められるだけで吐き出していない体はどこか浮わついているようだったが、ジョセフの胸板を押し返して彼の上にまたがる。むきだしの肌が触れて小さく肩が跳ねた。

「急にどうしちゃったの、もう我慢できないとかァ?」
「……そうかもな」

 計算ずくであることは隠し、シーザーはできる限り色を乗せた声でささやく。とたんにジョセフの頬がほてり、その反応をやけにかわいらしく思った。男の経験はないと言っていたし、このぶんでは女性相手でも怪しいものだ。初めて知る性感で骨抜きにしてしまえばいい、それからゆっくり赤石を頂戴してずらかる。シーザーは皮算用に唇の端を持ち上げた。

 重くなった腰を浮かせ、引き締まった尻をジョセフの熱にこすりつける。天を仰いだそれは彼がシーザーに欲情していることを示し、本気であることを思い知った。ジョセフはどこまで彼を欲しているのだろう、たとえばシーザーが将来を望んだときなんと応えるのか。実現しない悪趣味な想像はそれ以上広がらず、肌に触れる熱さだけがリアルだ。ジョセフの固い腹筋に手をつき、ゆっくりと腰を落とす。割り開かれる感覚にシーザーの呼吸が揺れた。

「……ッん、ぅ……」
「焦らされると、こっちもきついんですけど……ッ」
「黙ってろ、スカタン……!」

 とっくにわかっていたことだが、ジョセフの性器は平均よりずいぶん大きい。太さも長さも同性として嫉妬したくなるほどで、そんなサイズを咥え込まされるシーザーの動きはごくゆっくりしたものだった。一瞬入りきるだろうかと心配になるもののもう引っ込みはつかない。慎重に結合を深くし、大きく張ったかさがシーザーの弱いところをかすめる。ほとんど本能で動きを止めるシーザーの腰にジョセフの手が触れた。

「……悪いけど、おれってそんなに気が長くないのよね」
「JO……ッ、まだ、待っ……! ひ、あぁーっ……!」

 両手でシーザーの腰を掴んだジョセフが力任せに引き下ろし、いきなり深くまで飲み込まされたシーザーは悲鳴を上げた。避けようもなく前立腺をえぐられ、目の前が白く明滅する。彼が慎重を期していたのは思わせぶりに焦らしていたのではなく、こうなることを予見していたからだった。
 性感帯となりうるそこを刺激されれば大きな快感が生まれる。それもジョセフほどのサイズであればそれだけ隘路を押し広げる刺激が大きくなり、シーザーは声もなく悶えた。ジョセフの手のひらから伝わる熱すら毒に思える。何も言えずに動きを止める彼に、ジョセフは不満をつのらせたらしかった。

「……なんだよ、リードしてくんねーの? じゃあ、好きにさせてもらうぜ」
「JOJO、待て……頼む、から……」
「それってあとどんくらい? こんな状態で、お預けなんてできるわけねえじゃん」
「ゃ、あっ……! ぁ、JOJOッ……!」

 下からゆるく突き上げられ、シーザーは切れぎれに喘いだ。他の相手に抱かれたときはこんなふうにならなかった、こんなに奥深くまで暴かれなかった。長い性器がシーザーの奥底まで犯し、未知の感覚を連れてくる。経験のあるシーザーの方が手綱を握れると計算していたはずがまるで思い通りにならない。さらに奥まで押し込まれ、まだ先があったことを思い知った。

「すげ……中、熱くて気持ちいい」
「ぅあ、JOJO……ッ深すぎ、ひぁ……っ!」

 もたらされる刺激が大きすぎて身じろぐこともできない。それほど追いつめられたシーザーをなぶるかのごとく腰を揺らすジョセフにかすれた悲鳴を上げた。彼の白い背はすっかり丸まり、性感を逃がしたくとも縋る先はジョセフだけだ。すっかりおとなしくなったシーザーを慮ることもなくジョセフは好きなように揺さぶっている。童貞に違いない、とシーザーは確信を持って彼を睨みつけた。
 玉の汗が浮いた肌をジョセフの視線が舐め回すように這う。それに居心地の悪さを感じながらも今のシーザーにはどうしようもなかった。今まではこうではなかったのだ。興奮に鼻息を荒くした男に突っ込まれても適当にいなし、あしらう余裕があった。感じ入ってみせるのは半分以上が演技だったというのに、この体たらくでは誰も信じてくれないだろう。動きを止めたジョセフの手のひらがいたずらにシーザーの腰を撫で、その感触にも背筋がざわつく。シーザーの過去の経験は今夜なんの助けにもならなかった。

「……なあ、わかる? シーザーの奥、おれに吸いついてきてんの」
「――〜ッ!」

 ジョセフの言葉に顔がカッと熱くなる。意識したとたんにまた締めつけたようで、ジョセフの唇から情欲にまみれた息が落ちた。誰にも触れられたことのないほど深いところをあばかれ、初めて知る感覚におのれの体が喜んでざわめいているのがわかる。ジョセフの熱にキスを繰り返すように波打つ内壁に、シーザーは羞恥のあまり死んでしまいたいほどだった。

「……なあ、シーザーも気持ちいいだろ? おれたち、めちゃくちゃ相性いいみたいだな」

 照明の下でジョセフはなぜか嬉しそうに唇を持ち上げていた。ときおり見せる皮肉げな笑い方ではなく、年相応な喜びがあらわれたその表情にシーザーの胸はなぜかうずく。
 その口ぶりではジョセフの方も感じ入っていることだろう。体の相性がよくても、快感を求めているわけではないシーザーにとって利点にはならない、一番いいのはジョセフだけが溺れてくれることだ。しかし今や彼の方が呼吸を乱してジョセフにしがみついている。思い通りにならない体に歯噛みするシーザーはいっそ泣き出してしまいたかった。

「……もしかしてェ、シーザーちゃん、よすぎて動けないとか?」
「うるさいって、言ってるだろうが……!」
「――ワォ、そういうのすっげーそそる」

 低くささやいたジョセフはシーザーを見据えて舌なめずりする。肉食獣を思わせるその仕草にシーザーは自分の心臓が高鳴るのを聞いた。食われる焦燥であって高揚ではないと必死に言い聞かせてみても、胸のうちに生まれた興奮は消えない。葛藤する彼に構わず突き上げられてそんな思惟は千々に乱れて消えた。
 ジョセフの上にまたがるシーザーのほうが有利だというのに、下から突き上げられて細く喘ぐ。スプリングのきいたベッドの上で白い体が何度も跳ね、こみ上げる快感にシーザーは声を殺すのがせいいっぱいだった。

 激しい動きではなくとも、性器の先が一番奥をこするたびに悪寒にも似た感覚がシーザーの背筋を這いのぼる。それほど深いところが性感帯になりうると今まで知らなかったのだ。逃げられない体勢で揺さぶられ、じわじわと高められる感覚にシーザーは身をよじる。切ない声でジョセフの名前を呼び、それ以上は続けられなかった。

「――ッ、ひ、ン……!」

 声にならない悲鳴とともに達し、彼の背が弓なりに反る。体を震わせたシーザーはそれ以上身を起こしていられず、ジョセフに抱きつくように倒れ込んだ。汗で濡れた肌が触れあって不快なはずだというのに、彼の体温を感じてなぜか安らぎを覚える。芯をなくしたようにもたれかかるシーザーに、ジョセフは笑わずにその金髪を撫でた。

 男性器と違い、後孔で達した感覚は尾を引く。その快感の波が去る前にもう一度揺らされてシーザーは息を詰まらせた。頑強な彼とて体力に限りはあるのだ、せめてもう少し休みたい。しかしその願いは届かず、ゆるやかな刺激で確実に追い詰められていく。思わず漏れた声はやけに掠れていた。

「JOJO、だめだ、頼む……から、ひぁっ!」
「まだもったいぶるつもりかよ? 観念しろって、こんなに絡みついてきてるくせに」
「んぁ……! 動く、な……!」

 シーザーは主導権を握るために焦らしているのではなく自分の身を守るために懇願しているのだが、男を抱いた経験のないジョセフには理解されなかっただろう。二人が繋がった部分から耳を覆いたくなるような音が響き、シーザーはジョセフの広い胸板に爪を立てる。力の入らない指ではかえって甘えているようにも思われたかもしれないと気づいたのはあたたかい腕に抱きしめられてからだ。
 絶頂の余韻が抜けきらず、感じやすくなっている体は簡単に高められてしまう。思うようにならない体で快感を逃がしたくても、みじろぐほどに性感帯への刺激が大きくなるばかりだった。ジョセフの肩口で金髪が揺れて小さな音を立てる。敏感になった後孔が彼を締めつけるらしく、ジョセフの熱っぽい吐息が聞こえた。

「……あーくそ、持たねえ」

 どこか腹立たしげに言ったジョセフは限界が近いのだろう、荒っぽく突き上げられてシーザーはぎゅっと目を閉じる。体が浮き上がる不快感に身を縮め、彼の熱を一層刺激してしまった。ジョセフの両手がシーザーの腰を押さえつけ、同時に突き上げられて一番奥まで開かれる。
 先端を押し付けられたまま熱い液体が注がれるのを感じて彼の白い背中が小さく痙攣した。血管を浮き上がらせた性器が脈動するのに合わせ、シーザーも絶頂を迎える。細い悲鳴がまるで自分の声でないように響いた。

 二人分の荒い呼吸が落ち、それが滑稽にすら思える。全身を汗で濡らしたシーザーは指先を持ち上げるだけの気力もなく、四肢をぐったりとジョセフに預けた。間を置かずに続けて達し、さすがに疲労が色濃い。リサリサの私室に忍び込むのはもう少し体力が回復してからになるだろう。ほてった体もそのころにはどうにか落ち着いているはずだ。熱い栓が自身の中から抜かれ、次いで粘ついた液体があふれ出すのを感じる。久しぶりに味わうその感覚にシーザーは小さく息を詰めた。

 広いベッドに転がり、乾いたシーツに頬をつける。全身を包む倦怠感に負けそうになりつつ、シーザーはぼんやりした思考でこの先を考える。夜明けまではまだまだあるはずだ、できればジョセフが眠ったのを見届けてから行動に移したい。赤石を盗み出す前に後孔の後始末をする必要もあるが、それはこの部屋を出たあとでもいいだろう。このまま眠ってしまいたいのをこらえ、体を転がしたシーザーはスタンドライトのまぶしさに目を細めた。
 狭くなった視界に太いシルエットが入り込み、半分眠りの海に落ちていたシーザーはそれが何なのか判断できなかった。彼より濃い色の肌を持つ腕がシーザーの肩を掴み、シーツに強く縫いつけられる。触れる体温に意識を引き上げたシーザーが目を開けば、雄の色香をまとったジョセフが彼を見下ろしていた。

「……ちょっと待て、お前……」
「なんだよ、いいだろ? シーザーだってまだイってねーんだし」
「ッ、それは……!」

 ジョセフが言うのはいまだ吐き出していないシーザーの男性器だ。仰向かされた両足の間で切なく張りつめたそれは解放されるのを待ちわびている。シーザーの中のプライドが邪魔をして、彼とは違うやり方ですでに絶頂を味わったのだと訴える声は言葉にならなかった。うまく力の入らない体はろくな抵抗もできず、後孔に性器が押し当てられるのを感じる。若さゆえか、ジョセフの熱はすでに固くふくらんでいた。

「JOJO、待っ――あ、あぁ……!」

 犯される感覚に耐えかねてシーザーの唇から喘ぎが漏れる。慌てて口をつぐめば濡れた後孔からぐちゅりと生々しい音が響いてどうしようもなくなった。なし崩しで事に及ばれたというのに力の抜けた体はジョセフを押しのけることもできず、翻弄されるままに荒い呼吸を繰り返す。正常位で好きなように抜き差しされ、シーザーは声もなく身悶えた。

 漏れる声はいつかの日のような演技ではない。媚びを売るためのリップサービスであればまだ救いがあったものの、今のシーザーは自分の体を制御できなくなっていた。噛みしめるはずの唇がだらしなく開き、そこから甘ったるい声があふれ出していてもどうすることもできない。ジョセフの性器が浅いところをひっかき、そのたびにシーザーの全身が跳ねた。
 聞きかじったというジョセフにもその知識はあるのか、あるいはシーザーの反応から学んだのか、すぐに前立腺を探り当てられてまぎれもない快感がふくらんでいく。遠慮のないストロークでかき回され、与えられる性感の大きさで次第に抵抗する意思もしぼんでいった。

「ン、JOJO……ひ、ぁっ……! そこ、ぅ、いい……」
「……素直になっちゃって、カワイーの」

 シーザーの上に覆いかぶさったジョセフがそうささやく。かわいいとからかわれるのは腹立たしいものの、今の彼はその戯言を受け入れるしかなかった。密着する二人の間でシーザーの性器が刺激されてますます追い詰められていく。敏感になった後孔が不随意にひくひくと波打ち、そのたびに短い嬌声が漏れた。

「中、トロットロ……。エッチな音してるの、聞こえる?」

 妙に嬉しそうなジョセフがわざとらしく腰を揺らす。ついさっき彼に注がれた液体が空気と混ざって露骨な音を生み、そうとわかっていてもシーザーの頬は熱を帯びた。まるで感じ入った女性のようであるし、実際何度も絶頂を迎えさせられている。そう思うと倒錯的な興奮が彼の胸の中で渦を巻き、たちの悪いしびれとなって腰の奥を疼かせた。

 シーザーが今まで男に足を開いたのはそれがもっとも簡単な方法だったからだ。体一つで日銭を得ることも、ただの時間稼ぎにも、相手を罠にはめることもできる。男の歓心を買う仕草もすべて計算ずくで、そこにシーザーの意思はない。経験した回数は限られていたが、いつだってうまく演技できていたはずだった。
 だというのに、今や彼は取り繕うこともできずに翻弄されて喘いでいる。ジョセフの長大な性器に内壁をこすられるたび、シーザーの唇からはみっともない声が漏れた。一番奥と浅いところの両方にある性感帯を突かれると頭の中が白くなる。赤石もファミリーのことも忘れて、何も考えずにジョセフの肩にすがっていたかった。

「は、ぁあ……っ! JOJO、っん……!」
「……たまんねえ。シーザーのやらしい顔、よーく見えるぜ」
「ッ、見るな、ぁっ!」

 ぴったりとシーザーに寄り添ったジョセフが熱っぽく吹き込む。その視線にだらしない顔を晒していることを自覚して白い頬に朱が走った。無理に顔をそむけてもこの体勢では逃げられず、消えてしまいたくなってもシーザーの全身はジョセフに組み敷かれている。それでもできる限り首を回して視線から逃れようとする彼の横顔に唇が落とされる。やけに甘やかなその感触にシーザーの胸中でさざ波が立った。

 せめてと視界を閉ざした彼は下肢をさいなむ快感に目を見開く。ジョセフの大きな手がシーザーの性器を握り、手でできた筒がいやらしく上下する。皮膚を伝った汗とにじんだ先走りが水音を生み、どうしようもなくシーザーの羞恥を煽った。

「ゃ……あっ! ん……ぁ、ああ……!」

 手加減を知らないように腰を打ちつけられ、開きっぱなしの唇から喘ぎ声が次々にこぼれる。聞くに堪えないと口をつぐもうとしても、もはやシーザーの体は何一つ思うようにならなかった。性感帯を同時に責められ、興奮の波が引く間もなく次の高みへ押し上げられる。シーザーの目尻に浮かんだ涙を舐め取ったジョセフに驚いてそちらを向けば、美しい色の瞳が彼を映していた。

「……シーザー、気持ちいい?」

 律動の合間にそう問われてシーザーは言葉に窮した。彼の乱れようを見れば言わずとも伝わりそうなものだが、ジョセフの声は揶揄と呼ぶには真剣だ。あるいは彼にはシーザーが演技しているように見えるのかもしれない、そう考えるとなぜか索漠とした思いに駆られる。そうではないのだと伝えるにはどうしたらいいのだろうか。快感にさいなまれるシーザーはまとまらない思考のままJに手を伸ばした。

「……いい、気持ちいい……から……!」

 両手で彼の首筋にすがり、うまく声にならない喉でそう告げればジョセフの頬が赤くなる。あるいはシーザーの見間違いかもしれなかったが、ジョセフが身を伏せたためにその表情を確認することはできなかった。彼が顔を埋めたシーザーの胸元からうなり声が聞こえたような気もする。早まった鼓動を聞かれてしまうかもしれないと気づいたのは少しあとだった。
 後孔から性器が抜け落ちそうなほどに腰を引かれ、すぐに奥まで打ちつけられる。乱暴とも言える交わりにシーザーは白い喉を晒して喘いだ。性器にこすられるたびに内壁がうごめくのを自覚する。彼を歓迎するかのような動きに羞恥を煽られるが、意識すればするほどシーザーの体は甘くとろけていった。これではまるでジョセフを恋うているようだ。

 彼の方も限界が近いのか、にじむ汗がしたたってシーザーの肌を濡らす。ジョセフの頬を伝う雫に唇を寄せれば丸く見開かれた瞳と目が合った。とっくに理性が溶け落ちているシーザーはそのときやっと恥ずかしいことをしたと認識し、焦るあまりに何も言えなくなる。ジョセフを引き寄せる両腕をほどいて離れようとする前にあたたかい手がシーザーの頬を包んだ。

「シーザー、シーザー……好き」
「……ッ!」

 切なくささやかれた言葉にシーザーの全身が震える。どこまでも愛情のこもったそれは彼の心の乾いた部分を溶かすようで、ジョセフを信じたいと思ってしまった。それほどまっすぐな思いを向けられたシーザーは、しかし何も言うことができない。二人の関係がすべて幻影だと知っているのはシーザーだけだ。同じだけの愛を求められてもそれは叶わない。唇を噛む彼にジョセフはやけに甘い声で続けた。

「なあ、名前、呼んでくれよ」
「――? JO……」
「そうじゃなくってさ。おれの、名前」
「……ジョ、セフ……ッひ! や、あぁ……!」

 乞われて彼の名を口にしたとたん、奥深くを突かれてシーザーは声を上げる。乱暴な律動にも敏感な反応を返してしまい、思い通りにならない体を呪った。ジョセフを骨抜きにしてやるつもりだったのに、シーザーの方が翻弄されて甘い声を上げている。こんなはずではと歯噛みしたくとも彼の唇は浅い呼吸で酸素を取り込むのに手一杯だった。体を強くかき抱かれて厚い体の間でシーザーの性器がこすれる。耳孔に濡れた舌が入り込み、その瞬間に彼は限界を迎えた。

「ひッ……あ、あぁ……!」

 切ない声とともに精液を吐き出し、シーザーの体ががくがくと痙攣する。その刺激に引きずられるようにしてジョセフも達したのを腹の奥底で受け止めた。大きすぎる快感に翻弄され続けた頭はろくに働かず、鼻の頭にキスを落とされてもされるがままに受け止めた。
 シーザーにはこれからやらねばならないことがある。体を清めてジョセフが眠ったのを見届けてからこの部屋を辞し、リサリサの所有する赤石を手に闇夜に消える。それは今夜しかできないのだ。わかっていても疲労した体は休息を求め、重たくなったまぶたが次第に下がってくる。少しだけ、とおのれに言い訳して目を閉じたシーザーの体にはジョセフが覆いかぶさったままで、その重みすら心地いいような気がしていた。

「……最初じゃなくても、シーザーの最後の男はおれだぜ」

 まどろみに落ちる刹那、彼の声を聞いたのが夢かうつつかシーザーにはわからなかった。


 シーザーが再び目を開けたとき、室内のようすは変わっていなかった。
 ベッドに落ちるスタンドライトの光がまぶしくて、覚醒しかけのシーザーは照明から逃げるように顔を動かす。乾いた肌にシーツのサラサラした感触が心地よく、彼のまぶたは自然と落ちていった。そのまま眠りの海に身をひたしていたシーザーは濡れた内股とやけに重い腰に気づいて直前の記憶を思い出し、その両目を見開く。

「――あらァン、キスもなしにお目覚めなんてマナーのなってないお姫様だこと」
「……JOJO」

 見計らったようなタイミングでジョセフが現れ、ベッドの上で身を起こした彼はそちらを振り向く。ドアを閉めたジョセフの右手に金属のきらめきが揺れ、気づいたシーザーは自分が息を呑む音をひとごとのように聞いた。

 ジョセフが手にするのはおもちゃのように大きな宝石、リサリサがいつも身につけている赤石に間違いない。ベッドサイドの小さな照明だけの空間でもそれは美しい輝きを放っている。狙い続けていた獲物が眼前に現れ、事態を把握できないシーザーはしきりにまばたきを繰り返した。

「ずっと、これを狙ってたんだろ?」
「…………」

 ジョセフの言葉に沈黙で返す。事実を言い当てた彼はシーザーの正体を見抜いているのだろう。こうなればもう無害な友人を装うことに意味はない。感情の読めない瞳を見つめ返しながらシーザーは必死に計算を巡らせた。

 赤石がこれほど近くにあるというのは間違いなくチャンスだ。しかしそのネックレスは彼よりも大きな体格を持つ男の手の中であり、シーツに覆われるシーザーの体は全裸である。隙を見てジョセフから奪うことができたとして、3階に位置するこの部屋からどうやって逃げ出せるだろう。窓を破るにも大怪我は免れないし、血を流したままはだしで走ったところですぐに行き先が知れる。扉はジョセフの背後にあり、そちらも望みが薄い。勝ち目がないことを感じつつ、時間を稼ぐつもりでシーザーは口を開いた。

「――いつから気づいてたんだ」
「そうねン……決め手は、オメーが大好きな彼女の名前を間違えたときだな。イタリアから追いかけてくるぐらい惚れちまってる相手を間違えるわけねえだろ? 気になってシーザーの周り調べてみりゃビンゴ、ってわけ」
「……そりゃ、マヌケな話だな」
「そういうとこがかわいいんだってェ。ま、物騒な組織とつながってるってのはちっと驚いたかな。ちゃんと調べてマークしてたんだろ? おれの名前だって、教えてないはずなのに知ってるくらいだし」
「JOJOの、名前……」

 シーザーは言われて初めて気づく。彼、ジョセフ・ジョースターが本名を名乗ったことはない。愛称しか知らないはずのシーザーが彼の名を呼んでいては不自然だ。そう思い至ると同時に「ジョセフ」と口にした瞬間を思い出し、熱の引いていたシーザーの頬に朱が走る。名前を呼んでとねだったジョセフの思惑はここにあったのかと今さらながら彼を睨みつけた。
 彼女の名前を間違えたというのも大失態だ。ひとは、たとえ根拠がなくとも信用できる人物と思えば少々の粗は見逃してくれるものだ。それを自分から尻尾を出して疑いを抱かせるなんて笑い話にもならない。ジョセフと接するうち、いつの間にか警戒がゆるんでいたのかもしれなかった。

「こいつが狙いなのにおれに近づくなんて、回りくどいことするよな。リサリサを落としてどうにかするつもりだった?」
「……ああ、そうだ。お前がもっと頭の悪い男ならうまくいっただろうな」
「いーや、おれがいてもいなくてもシーザーは盗み出せやしねえよ。だってあいつ、おれの母親なんだぜ」
「…………あいつって、誰だ」
「リサリサだって。若作りしてるけど、50過ぎたババアだぜ。今さら息子と同じくらいの若造によろめいたりしねえっての」

 ガツンと頭を殴られたような衝撃にシーザーはその体を凍りつかせた。乾いた目が痛んでやっとまばたきを思い出し、無為に唇を何度も動かす。あまりに信じられない言葉も、ジョセフが持ってきた写真立てに視線を落として納得せざるを得なくなる。そこには幼子を抱えてほほえむリサリサの姿が写っており、シーザーの唇から「マンマミーヤ……」と力の抜けた呟きが漏れた。今になればジョセフの祖母がリサリサの母、あるいは義母にあたることも理解できる。なんのことはない、はじめから成功するはずのない犯罪計画だったのだ。

「…………お前は、おれをどうするつもりなんだ」

 事ここに至ればシーザーが逃げ出すのは難しいだろう。盗っ人として私刑か、警察に突き出すか。問いかけたシーザーにジョセフはきょとんとした顔を向ける。彼がどちらを選ぶにせよ、シーザーが逃亡する算段はそのあと立てることになる。自身の属する組織にまで官憲の手が及んでいないことを願うばかりだが、今のシーザーには何もできなかった。

「どうする、って……イヤーン、シーザーちゃんたらエッチ〜」
「ふざけるんじゃあない。くだらないおしゃべりならたくさんだ」

 そう突き放す彼に、ジョセフはなぜか少しだけ目を細めた。緊張した面持ちのシーザーは何も言わずに返される答えを待つ。二人きりの部屋に張り詰めた空気をまるで気にしていないようにジョセフは軽く肩をすくめた。

「どうもこうも、何も起こってないだろ。宝石はここにあるんだし、部屋に招いた友人と酒を飲んだ、それだけだ」
「……お前は、おれが何のために近づいたかを知ってるだろう。おれの正体だって。それなのにお咎めなしなんて話があるか」
「なんだよ、無罪放免じゃ気に食わないみたいじゃねーの」
「それが信じられないと言っているんだ」

 シーザーが厳しい表情を崩さずにいれば、ふいにジョセフが踏み出して距離を詰めてくる。裸のままではベッドから出る気にもならず、シーザーは半身を起こしたままジョセフを見上げた。彼がリサリサと一番似ているのは目だ。意志の力を感じさせる、光を宿した瞳。その輝きは美しいと言ってもいい。もう告げる機会のない感慨にシーザーはひそかにひたった。

「安心してくれよ。オメーをサツに突き出すようなことはしない」
「……とんだ甘ちゃんだな。おれがマフィアの一員だってわかってるんだろう」
「それなら心配しなくていいぜ。シーザーはもうマフィアとの関わりはねえんだから」
「…………はぁ? 何言ってるんだ、お前……」

 断定するようなジョセフの言葉にシーザーは首を傾げる。当事者でもないのにどうしてそんなことが言えるのか。答えないジョセフは手にしたネックレスを広げ、その大きな宝石をシーザーの首にかけた。むき出しの肌に触れる硬質の感触が冷たい。
 相手が盗っ人だと知っているはずのジョセフにシーザーは怪訝な目を向ける。彼が逃げ出せないとわかっているからだとしても、奇妙な振る舞いであることは確かだ。意図の読めない行動に戸惑うシーザーは続く言葉に驚きの声を上げることになった。

「えーと、ナントカいうマフィアだっけ。そんなの、消えちまったぜ」
「………………は、あ?」
「正確にはまだ消してる最中かな。地元の警察とも折り合いが悪かったっていうし、時間の問題だったらしいけどネン」
「…………待て、JOJO……説明してくれ。消えたって……いや、どうしてお前がそれを知っているんだ」

 あっけらかんとしたジョセフの言葉が理解できず、シーザーは痛むこめかみに手を当てる。彼の所属する組織が警察から再三追い詰められているのは確かだ。だからこそNYに引っ越すという分の悪い賭けに出たのだから。しかし、なくなってしまったなどという話を聞かされてそうですかと信じるわけにはいかない。真偽を見定めるように視線を向ければ、ジョセフはシーザーの隣に腰を下ろした。

「ま、シーザーからすれば寝耳に水だよな。信じられねえのも当然か」
「……」
「言っとくけど、おれが手を出したわけじゃないぜ? 時間の問題だったって言っただろ。確かに、ちっと早めてくれとは言ったけど」
「誰にだ?」
「SPWのじいさん。知ってる? 石油を掘り当てて一躍長者になった、SPW財団のトップで」
「知っている……が、……お前、知り合いなのか?」

 ジョセフが口にした人物は異邦人であるシーザーも名を知るほどの相手だった。全世界に支部を置く巨大な財団の創設者であり、義に熱い好人物。彼が警察に協力すれば、イタリアの片田舎に位置する小さなマフィアなど造作もなく一掃できるだろう。それほどのビッグネームと目の前のジョセフが結びつかず、シーザーは途切れ途切れの声で問うた。

「そ。イタリア支部のスタッフがマフィア同士の抗争に巻き込まれたことがあってさ、前から撲滅に向けて手をつくしてたらしいぜ。でなきゃおれのお願いくらいで動いてくれねーもんな」

 彼が語る内容はまるで現実味がなかったが、ここで嘘をつくメリットがあるとは思えない。どうせ明日になればニュースで知れることなのだ。シーザーのファミリーである組織が消滅してしまったのなら、彼の胸で輝く赤石を手に入れたところでもう意味はない。なにせ、個人で売りさばけるようなありふれた代物ではなかった。

「……つまり」

 呆然として肩を落としたシーザーの手をジョセフが握る。やっと焦点を合わせた彼が視線を向ければジョセフは見覚えのある表情を浮かべていた。あれはカードで勝利を確信したときの笑みだ。強気にきらめく彼の瞳に吸い込まれたようにシーザーの視線は動かなかった。

「もうシーザーに命令するボスはいないぜ。帰るところだってない」

 その言葉は判決を告げる槌の音のように重く響いた。足元に大きな穴があいたようで、シーザーの視界はくらくらと揺れる。ジョセフに言われるまでもなく、ファミリーが消えるとはそういうことだ。それを思い知らされたシーザーの全身からは口を開くだけの気力も消えてしまったようだった。

 これも忍び込んだこそ泥には似合いの報復かもしれない。曲がりなりにも寄る辺としていた組織を失い、シーザーの胸中は暗澹とした思いで占められた。自然と視線が落ち、うつむく彼の視界には己の左手に添えられたジョセフの手が映る。もう一度呼びかけられて顔を上げれば背の高い彼とまともに視線がぶつかり、その手のひらが熱いことに気づいた。

「だから、おれのもんになってよ」

「………………は、あ? 今、なんて」

 突然聞こえたとんでもない言葉にシーザーはマヌケな声を出す。間違いなく目の前の彼、ジョセフ・ジョースターが口にしたはずだがとても現実味がなかった。おれの物になれ、とはどういう意味だ。愛の国で生まれ育った色男でもそんなせりふを口にしたことはない。何より、盗みに入られた側が入った側に言う言葉ではなかった。

「行くところなんてもうないだろ? これからはぜんぶおれが面倒見てやるって」
「おい、誰のせいだと思って……」

 恩に着せるようなジョセフの言い方が流石に腹立たしく、シーザーは呆れ返る思いで返した。いくらマフィアの人間でも、居場所を奪われた文句くらいは許されるはずだ。シーザーの冷たい視線も物ともせずにジョセフの口が動く。

「おれと一緒なら、もう痛い思いも危ない思いもしなくていい。あったかいごはんにふかふかベッド、めったにない好条件だと思うけど?」
「冗談もたいがいにしろ。……第一、そんなのいつ気まぐれで捨てられるかもしれねえだろ」
「あらァン、信じてくれねーの? なら、そんな気起こさせないくらい骨抜きにしてくれよ」

 たった今ハメられた相手の甘い言葉など頭から信じられるわけがない。彼がさらなる報復を考えているかもしれないのだ。疑うシーザーにジョセフはわざとらしいウインクで応える。取り合うのも馬鹿馬鹿しく、シーザーは深い溜め息をついた。

「それに、このジョセフ・ジョースターもついてくるんだぜ」
「……だからなんだって言うんだ」

 それが最大のメリットのように瞳を輝かせて言うジョセフにシーザーは重い口調で返す。彼らの思考回路はまるで噛み合わないらしく、互いに互いの考えを理解できないことが多々あった。そっけないシーザーの返事に、ジョセフはわざとらしく彼の視界に入り込んでニヤニヤ笑いを浮かべる。それがひとをからかうときの性格の悪い笑い方だということも知っていた。

「えー、そういうこと言っちゃう? さっきまであんなにメロメロになってたくせに」
「あれは……ッ!」

 己の痴態を思い出してシーザーは言葉に詰まる。彼がずいぶん乱れたのは確かだ。それも、今までのどの夜よりも。その理由がどこにあるかなんて考えたくない。罠にかけたつもりで罠にかけられていた相手に惚れているなんてマヌケな話があるだろうか。彼の矜持にかけてそれだけは絶対に認めたくなかった。

「ま、認めたくないってんなら今はそれでいいけどな」

 何も言えず無言で返すシーザーにジョセフはどこか楽しそうに言う。彼の眼差しはシーザーの胸中まで見透かしているようで居心地が悪かった。気まずい思いに視線をそらした先でリサリサの持つ赤石が揺れる。このサイズでこの純度を持つ宝石ならば数百万ドルはくだらないはずだ。それほどのお宝を餌にして、彼はこそ泥であるシーザーを誘っていた。
 決して小さくないリスクを背負ってまで、ジョセフはシーザーを求めていたのだ。そこに彼の真剣さを見いだした気がしてシーザーの胸は一気にざわめく。湧き上がる感情が喜びに一番似ているなんて、何かの間違いだと思いたかった。

 シーザーの素性を知られた今、ジョセフが彼を口説くはずがない。自分の家に忍び込んだ泥棒に好意を抱くわけがなかった。それをわかっているからジョセフの言葉もあしらえたのに、彼の執着を知って揺らいでしまいそうになる。もし彼が本気でシーザーに焦がれているのなら、その手を振り払える自信はなかった。

「――なあ、返事聞かせてくれよ」

 熱を帯びた吐息がシーザーの頬に触れる。知らないふりでひとをさんざん騙してくれた彼の唇に噛みついてやりたい。それでもたぶん、シーザーにはそんなことはできないのだ。重なる唇を目を閉じて受け入れる。ジョセフの嬉しそうな笑みが想像できて、それでもいいかと思ってしまった。