※現代大学生パラレル
――たった今、おれは失恋した。
それは予定調和の結果でもある。おれだって、このよこしまな思いが実ることは期待していない。
それでも打ち明けたのは愛の告白というよりも罪の吐露に近かった。誰より親しい友人として接してくれている彼をこれ以上だまし続けるのは耐えられなかったのだ。彼の友愛を裏切り、欲のこもった視線を向けるようになったのは昨日今日の話ではない。今、あの美しい瞳におれはどう映っているのだろうか。知るのがおそろしくてそっと目を伏せた。
「だからァ」
ほんの数秒前に「男とか考えらんねーんだけど」と言った唇を動かし、JOJOが言葉を続ける。次に聞こえたせりふがあまりに信じられないもので、おれは思わず顔を上げた。
「シーザーがおれ好みになってくれたら、付き合えるかもネン」
「…………どういう意味だ、それは」
横柄な口調と寛大とも取れる言葉に混乱する。まじまじと見つめるおれに彼はいたずらっぽく笑ってみせた。条件付きとはいえ、JOJOは今「男と付き合ってもいい」と言ったのか。確かにJOJOは自分が理解できないという理由で他者を攻撃するような男ではないが、かといって憐れみで判断を誤るようなお人よしでもない。どう受け取ったらいいのかと考えあぐねるおれにJOJOは人差し指を振ってみせた。
「どういう意味もなにも、そのままだっての。おれは確かに男の恋人がいたことはねえけど、この先だってそうだとは限らないだろ。シーザーがおれの理想の彼女だってわかったら付き合いたくなっちまうかも、ってことだ」
「……あいにく、おれには女装癖も手術の予定もないぞ」
「彼女ってのは身体的な意味じゃねえよ。要は、おれを落としちまうくらい魅力的な相手だったら男でもイケちまうかもってことだ」
JOJOの言葉はある意味で筋が通っているようでもあった。相手の何もかもが好みであるなら好きになれる、というのは確かにその通りだろう。しかし、おれたちは同性同士だ。親しく交際することと恋人関係の間には大きなクレバスが存在するはずである。彼の言葉に対して半信半疑の心地でもう一度問いかけた。
「おれは男だぞ。本当に、付き合えるかもしれないというのか」
「何度も言わせんなよ。おれ、やる前から無理とかヤダとか言うの嫌いなんだよね」
JOJOの言葉はあくまで明快だった。確かに、真実を見抜く目を持っている彼は先入観やステロタイプによるバイアスを嫌う。そういう考え方を持つJOJOであるから、性別を理由にして一切を拒絶しないのはむしろ自然なのかもしれなかった。
彼の中で同性の恋人の存在を検討する余地があることを知り、おれの頭の中は喜びと驚きでいっぱいになる。JOJOの柔軟な思考には感謝するしかない。ついさっきまで、嫌悪感をむき出しにした彼にこの瞬間から絶縁される未来しか考えられなかったのだ。
おれの努力次第ではJOJOの恋人になれるかもしれない。そう思うととたんに心臓が波打って思考がうまく働かなくなる。それくらいに、彼に惚れ込んでいた。
「……なら、お前のタイプはどういう相手なんだ」
「まァ、それはおいおい、な? 言っとくけど、おれの好みはうるさいぜ」
ふざけた調子でウインクを飛ばすJOJOに、男に言い寄られたというショックの影はない。おれの告白を聞いても嫌悪が先に立たないのなら、少なくとも友人でいることは許されるだろう。頭ごなしに否定されないのならそれだけでいくらでもやりようはある。多少要望が細かくても、JOJOの理想に近づけるのならそれはおれの望みでもあった。
たとえこの先JOJOがおれの手を取らなくとも、今すぐ離れ離れにならずにすむのならそれにまさる喜びはない。多くの思いを込めて「グラッツェ」と言えばJOJOはわずかに目をそらした、気がした。
とはいえ、ひとの好みというのは一言で言い表せるようなものではない。嫌いじゃないとか、どちらかと言えば好きだとか、あるいは本人も気づいていないようなささいなこだわりが積み重ねられて理想の相手像が形作られるのだ。それをよくわかっているおれはJOJOの好みを無理に聞き出すようなことはしなかった。念のために一度だけ聞いたところ、「かわいくてスタイルがよくてエロい子」とあまりにも馬鹿馬鹿しい答えが返ってきたからでもある。
そうであるから、おれたちの関係はこれまでとほとんど変わらなかった。変化といえばおれがJOJOの言葉にこれまで以上に注意を払うようになったことくらいで、それも彼は気づいていないだろう。どんな些細なリアクションでも記憶にとどめ、JOJOに好かれるための糧にしていく。いまだかつて、一人の相手のためにここまで努力したことはなかった。
正直なところ、彼のタイプはわかりにくかった。金髪の女性が好きなのかと思えば「歯並びがいい」という理由だけでブルネットの女優が出演する映画を借りてくるし、一方で年かさの評論家の舌鋒を高く評価することもある。わざと好みを悟らせないようにしているのではないか、と思ってしまうほどにJOJOの言動は一貫性がなかった。
彼のストライクゾーンは基本的に女性であり、おれがどう逆立ちしても真似できないこともある。母性を蓄えた胸だとか、折れそうに華奢な腰つきだとかはその最たるものだ。一方でおれにもやればできそうな要望もある。いつものように学食のテラスでバーガーを頬張る彼が「料理上手な彼女は憧れだよな」としみじみ呟くのを聞いておれの腹は決まった。
もともとおれは料理が得意ではない。幼い頃は両親の代わりに食事を用意することもあったが、妹たちが長じるにつれてその役割は交代したし、今はシニョリーナに手料理を振る舞ってもらう側だ。一人暮らしで自炊はしているものの、誰にも出さない料理というのは次第に味よりも手抜きを重視するようになる。彼女に自分の料理を味わってもらうくらいなら近所のバルでおごった方が百倍マシだと考えているくらいだ。
しかし、JOJOの理想が料理上手な恋人だというのなら話は別だ。ただでさえおれには同性というハンデがあるのだ、ポイントを稼げるところは確実にモノにしておきたい。その日から初心者向けだというレシピを聞きかじっては実践する日々が続いた。
パスタを茹でる、ピザを温めるくらいの自炊しかしてこなかったおれには簡単だというレシピでもなかなかハードルが高かった。調理器具や調味料を揃えるところから始まり、何を作るにもとにかく時間がかかる。朝食も練習の機会にするべく、生活習慣を改めて早起きに切り替えたのは少々つらかったが、これでJOJOの歓心が買えるのなら安いものだ。彼とともに外食するときは何が好みであるかリサーチを忘れない。料理の修業を始めてから一週間ほど経つころ、先週と同じように学食でフォークを動かすJOJOが「そういえば」と口を開いた。
「シーザー、最近手に怪我してるよな。どうかした?」
「ああ、これか?」
彼の言うとおり、おれの両手指には合計四枚の絆創膏が巻かれている。切り傷であったり、やけどの水ぶくれであったりするそれらはキッチンで生まれた名誉の負傷だ。それを言えばJOJOはカツレツにナイフを立てながらニヤリと笑った。
「それ、もしかしておれのため? おれが彼女の手料理食いたいって言ったから?」
「……だったらなんなんだ」
「ワオ、マジかよ。シーザーってほんとにおれのこと大好きね」
JOJOはやけに嬉しそうに言う。確かに、自分に気に入られるために行動する他人を見れば機嫌が良くなるのも当然かもしれない。おれの方は今さら恥ずかしくなって無言でサンドイッチにかじりついた。
皿を空にしたJOJOは指先でフォークを振りながら口を開く。折からの陽光で彼の黒髪がいつもより淡い色に輝いていた。
「そんじゃ、今晩シーザーの部屋行っていい? 練習の成果を見せてくれよ」
「今晩……はだめだ。明日にしてくれ」
「……なんで? まさかァ、女の子とデートの予定があるとか?」
聞き返すJOJOの声はずいぶん低く響く。すぐにいつもの調子を取り戻したが、覚えた違和感にこっそり首を傾げた。彼に好かれようとみっともないほどに苦労しているおれがシニョリーナに気を取られるはずがない。紙カップのコーヒーに口をつけてから返事をした。
「いきなり来られても準備ができねえだろ。明日の夜なら用意しておくから、それでいいか?」
「……そんなにもてなしてくれちゃうの? 楽しみにしちまうぜーッ」
準備すると言ったことで期待させてしまったのか、JOJOがぱっと顔を輝かせる。おれの料理の腕はまだまだ半人前なのだが自分でハードルを上げてしまったかもしれない。小さな後悔を抱えながら「あまり期待するなよ」と言えばJOJOはどう見てもわかっていない顔で大きく頷いた。
翌日は大変だった。午後に入っていた2コマの講義は欠席し、代わりにレポートを提出することで穴埋めにさせてもらえるよう教授たちと交渉する。なんとか話をつけると昼食を取らずに家に帰り、昨日のうちに買っておいた食材たちを引っ張りだした。以前に作ったことがある料理だけを選び、前よりもうまくできるよう慎重に作業を進める。キッチンに立ちっぱなしで4時間が経つころには言い表せないほどの疲労を感じていた。
時計を見ればJOJOがやってくる頃合いだ。ダイニングテーブルを拭き、はじめに作った料理から順に温めなおす。あと少しで盛り付けが終わるというときにインターホンが鳴った。
「よ。お邪魔しまァ〜す」
「JOJO……すまない、まだ用意が終わっていなくて」
「そんなの気にすんなよ。完璧じゃないほうがかえって家庭的だろ」
鍵のかかっていないドアから上がり込んだJOJOはキッチンまでやってきておれの手元を覗きこむ。肩がふれあうほどに近づいた彼の体からは近所に咲いている花のにおいがした。距離が近づいたことでにわかに動揺しそうになる手を押さえ、できるかぎり華やかに見えるよう白い皿に取り分けていく。「うまそー」と言ったJOJOは流し台から離れて食器の入った棚に向かった。
「ナイフとフォークはこっち? グラスも出しとくな」
「あ、ああ。すまないな」
「いいっての。こういうのが恋人っぽいんだって」
一番の友人である彼がおれの部屋に来るのはすでに両手では数えきれない回数にのぼっている。そのうえめざといJOJOはカトラリーのたぐいがどこにあるのかも把握しているようで、おかげでテーブルセッティングの手間がずいぶん省けた。恋人らしいと言うのはおれのよこしまな思いをからかっているのだろうが、ジョークだとわかっていても頬に熱が集まる。心臓に悪いことはやめてほしいくらいだった。
JOJOのおかげできれいにセットされたテーブルに二人分の皿を運ぶ。食前の祈りを済ませてシチューにスプーンを入れる彼を食いいるように見つめた。
「……ど、どうだ?」
「うん、うまいぜ。おれの好きな味」
おれの問いかけに答えたJOJOは安心させるように笑いかけてくれる。キュートなその表情にいろいろな衝動が込みあげるのをぐっと押さえ、おれもスプーンを持ち上げた。JOJOは順にサラダ、パスタ、メインと口に運んでは「うまい」だの「ちょっとしょっぱい」だのといちいち感想を述べる。話がハーブの好き嫌いに及んだとき、おれは小さなノートを取り出して聞いていた。
JOJOには「本気すぎねえ?」と笑われたが、彼の好みを知れる貴重な機会だ。JOJOはおおむねおれの料理を褒めてくれたし、初めて振る舞ったにしては上出来だと思っていいだろう。多めに作ってしまったというのにぺろりと平らげた彼は満足そうにフォークを置いた。
「はー、食った食った。うまかったぜ、また作ってくれよ」
食事を終えてソファに移動した彼は実に幸せそうにそう言う。JOJOの口から次の予定が出たことでおれの胸は高鳴った。またこうやって、JOJOと恋人のように過ごせるのか。それはめまいがするほどまぶしい想像だった。
「……そのうちな。そうだJOJO、日曜はヘッドフォンを見に行くと行ってただろう? すまないがバイトが入って、付き合えなくなった」
照れ隠しのせいでそっけない口調で返す。無意識にカレンダーに視線を向け、今週の予定に気づいて口早に告げた。新しいヘッドフォンが欲しいというJOJOに付き合って出かけるつもりだったが、その日にバイトを入れてしまっていることにさっき気がついたのだ。
「バイト? 珍しーじゃん、あのカフェだろ?」
「いや、単発のバイトを入れたんだ。このところ出費が続いてしまってな」
テーブルの上には二人分のコーヒーカップが並んでいる。JOJOは根っからの紅茶党だが、あいにくティーポットやカップを用意するところまで手が回らなかったのだ。あまり飲まないというカフェオレを口に運ぶJOJOは小さく顔を歪める。
「それって、料理始めたからか? おれがシーザーの作るメシが食いたいって言ったから、今日だっていろいろ揃えてくれたんだろ」
「……お前には隠し事ができないな。だが、気にしないでくれ。料理というのもやってみると案外面白いものだぞ」
JOJOが言ったとおり、最近の金欠は料理を始めたせいである。こまごまとした器具や調味料を揃え、少し凝った食材を集めようとすると驚くほど金が飛ぶ。今まで交際したシニョリーナたちにもこんな思いをさせていたのかと思うと小さく胸が痛んだ。
しかし、おれはなにも嫌々やっているわけではない。少しでもJOJOの気を引ければと、これ以上ないほど自分のために行動しているのだから後悔はなかった。コーヒーカップを置いて正面に掛けるJOJOを見れば、彼はバイトの予定を書き込んだカレンダーに視線を注いでいる。
「……それじゃ意味ねーじゃん」
小さく動いた唇はそう言ったように聞こえたが、おれには彼の意図は見えなかった。
日雇いのバイトは2回行ったところでやめてしまった。工事現場の仕事で、ガタイのいいおれはそれなりに重宝されたのだが行く必要がなくなったのだ。その後も週に数回のペースでJOJOに食事を用意するのが習慣になり、そのたびに彼が食材代だと言って紙幣を渡してくる。実際に使った食費よりも多い額のそれを断ろうとしてもおれが口で勝てたためしはなく、金欠状態を脱したおれは単発バイトに頼らなくても過ごせるようになった。
練習を始めたばかりの素人の手料理など、そう何度も食べたいものではないだろうにJOJOは「好みの味を好きなだけ食わせてくれるとこなんてそうそうないぜ」と言ってはおれの部屋まで足しげく通う。彼のそういう気遣いがたまらなく嬉しかった。
二ヶ月も経つころにはおれの料理の腕もだいぶ上達している。アルバイト先の一つであるカフェでも軽食のレシピを聞いたりして、店長に「誰に作るつもりなんだ」とからかわれたほどだ。JOJOに食事を振る舞った回数も着実に増え続け、それは同じだけ彼と過ごす時間が長くなったということでもある。JOJOに近づくことができるうえ、「うまい」と笑ってくれるそのひとときはおれにとって至福の時間だった。
「シーザーの料理、ずいぶんうまくなったよな。毎回違うもん出してくれるし、どれもおれ好みでうまい」
「ほ、本当か? 気に入ってくれたなら嬉しいんだが」
「チョーお気に入りだって。シーザーが料理の修業したのはおれのためだろ? こんだけうまいメシが作れるなら、付き合ってほしくなっちまいそう」
「JOJO……!」
喜びが駆けめぐり、並んでソファに掛けているJOJOを横から抱きしめる。陶器がぶつかる音が生まれたのは彼が手にするティーカップとソーサーの間からだ。やっぱり紅茶が飲みたいと言うJOJOがセット一式を持ち込んだせいで、キッチンには彼専用のコーナーができていた。
あぶなく紅茶をひっくりかえすところだったおれは慌てて体を離す。そう言われるのはおれにとって最大の喜びだった。夜もとっくに更け、壁が薄いこのアパートは隣室のテレビの音がかすかに届く。カップとソーサーをテーブルに戻したJOJOはいたずらっぽい視線を投げてきた。
「でもォ、おれってわがままだから? 料理がうまいだけじゃ付き合う気になれないって言うかァ」
「ああ、そうだろうな。お前の好みを聞かせてくれ、JOJO」
恋人への注文がうるさいというのは前も聞いた話だ。聞き逃さないようにわずかに前傾姿勢になるおれの胸にJOJOの手が触れる。後ろに押され、ソファの背もたれに寄りかかったおれは小さく疑問符を浮かべた。
「……おい、なにをしてるんだ」
「別にいーだろ? 遠慮なく甘えられる相手かどうかってのも重視してンのよ」
そううそぶいた彼はソファに掛けたおれの膝に頭を乗せている。いわゆる膝枕というやつで、当然ながら今までこんな触れ方をしたことはない。あお向けで目を閉じていたJOJOは片目だけで見上げてきて、思わず口元をゆるめてしまったおれは諦めて受け入れることにした。
なにも彼を引き剥がしたいほど嫌なわけではない。ただ妙に照れるというだけで。むずがゆさを感じながら、不自然に持ち上げていた手をJOJOの頭に着地させる。跳ねた前髪をかきまぜるように撫でてやればうっとりと目を閉じた彼が気持ちよさそうな喉声を漏らした。
他の男が同じことをすれば再起不能になるまでぶちのめすところだが、相手がJOJOであるというだけで伝わる体温すら心地よく感じる。その日は食後の片付けも後回しにして、恋人のように甘やかな時間を心ゆくまで味わった。
思えば彼は一人っ子で、祖母の愛情を一身に受けて育った男だ。日ごろの言動があまりにも切れるために年下だということを忘れそうになるが、18年しか生きていない彼が人肌恋しさを募らせたとしても責めるのは間違っているだろう。乞われるたびにJOJOを抱きしめ、膝に乗せ、やさしく髪を梳く。昼は名の知れた教授と丁々発止のやり取りをする彼を、夜の帳の中でこうして甘やかすことはおれの胸を疼かせた。
JOJOがおれの部屋を訪れ、昼食や夕食をぺろりと平らげてはじゃれつく日々が習慣になるころ、いつものように食器を洗っていたおれは後ろから呼びかけられた。自室まで上げる客人は今やJOJOしかおらず、振り向けばもちろん彼がいる。ほとんど終わりかけだった食器洗いを切り上げ、濡れた手を拭いてソファに掛ける彼のもとまで足を動かす。首からかけているエプロンは料理をするようになってから買ったものだ。
「どうかしたか、JOJO」
「いいから、ここ座って」
おれの問いかけには答えず、横暴な調子でJOJOは空いた座面を手で示す。相手が彼でなければ従わないところだが、惚れた弱みというやつでおれは言われたとおりに座った。呼びつけたということは見せたいものでもあるのだろうかと壁側に視線を向けたとき右肩を掴まれる。そのまま彼の方に引き寄せられ、予想だにしなかったおれはされるがままに重力に従って倒れた。
上体を倒した先にはJOJOが座っているわけで、つまり彼に膝枕される格好になる。一瞬硬直したおれが起き上がろうとしても彼の手に優しく押しとどめられてはそれ以上動けなかった。
「……なにを、している」
「膝枕だけど? 何もしねーから力抜けよ」
「だから、なんでこんなことしてるんだ」
おれがJOJOに同じことをするのならばわかる。男の固い膝とはいえ、受け入れられていることを感じる距離は心をやすらがせるものだ。しかし、膝枕する側にとって面白いことはなにもない。おれは自分の膝の上にJOJOの重さを感じるだけで幸せだが、おれに惚れているわけでもない彼が同じ思いを抱くことはないだろう。お人よしや奉仕精神といった単語からほど遠いはずのJOJOの行動に混乱するばかりだった。
「おれだって、甘えてばっかりじゃなくて恋人から甘えられたいって思うんだぜ。だから、確認してんの」
「確認?」
「そ。おれがシーザーを甘やかしたくなるかどうか」
言ったJOJOの唇はやわらかく笑み、少なくとも皮肉やからかいの意図を含んでいないことは知れる。その瞳に見つめられるのが妙に気恥ずかしく思え、おれはあおむけた顔を動かして横顔だけを彼に向けた。これで何がわかるというのかは知れないが、彼がそうしたいと言うのならわざわざ抵抗しなくてもいいだろう。JOJOの手のひらがおれの頭に乗り、あたたかな体温が髪を撫でるのを感じる。いつもおれがそうするのをなぞっているだけだとわかっていても、手のひらから愛情が伝わるような錯覚が生まれた。
二人とも無為にテレビをつけておく習慣はないし、互いにほぼ動けないこの状況で部屋は静寂に満ちている。小さな秒針の音と規則的な動きで撫でる手のひらが気持ちいい。男の膝枕なんてとバカにしていたのに、JOJOが何度もせがむのもわかる気がした。一向に飽きる様子のない彼の手をはねのけるのもためらわれ、されるがままになっていると次第に意識が拡散してくる。眠りに落ちる瞬間に気づいて目を開けた。
JOJOの指はちょうどおれの耳に触れ、その感触を新鮮に捉える。眠りかけていたことは知られたくなくても、おそらく彼には気づかれているだろう。そこで満足したように大きな手が離れ、おれは妙な安堵を覚えながら身を起こした。
それからのJOJOは頼みもしないのにおれの頭を膝に乗せるようになった。彼に触れていられるのは悪い気がしないし、どことなく上機嫌そうなJOJOを見るのも満たされる。観念した気分で何度も付き合ううち、ある日の彼は別のことを言い出した。
「シーザー、そこに寝てくれよ」
「…………どういうつもりだ?」
JOJOが指すのは見慣れたソファだ。彼の言いたいことがわからず、問い返すおれはごくまっとうな反応をしているだろう。一瞬考え込んだJOJOは説明することを諦めたのか、おれの肩に腕を回す。そのまま背中から押されるようにしてソファに投げられた。
「ぶッ……! てめえ、なにしやがる」
「力抜いてろって。痛くはしねえからさ」
うつぶせに沈んだおれをまたぐようにしてJOJOがソファに乗り上げるのがわかる。そうなるとむりやり体を起こすこともできず、顔を上げるのが精いっぱいだった。苦しい体勢を強いられているおれの背中に彼の手が触れる。ぐいぐいと押されてますます戸惑った。
「どぉ? ジョセフ流マッサージは」
「……気持ちいい、が……」
戸惑いがそのまま声に出る。やたらと満足そうなJOJOには悪いが、おれには彼の行動がさっぱり理解できなかった。なぜおれはマッサージを受けているのか。彼の出身であるイギリスの文化に「年上の同性にマッサージをする日」が存在するとしても、おれの知るJOJOなら決して従ったりしないだろう。警戒を解かないおれに背中から声が落ちる。
「今って、シーザーと付き合えるかどうかのお試し期間だろ? フツーなら男の体にさわるなんてゴメンだけど、イケるかどうか確かめようってわけ」
「そ、そうか。……で、どうなんだ」
「うーん……けっこーやわらかくておもしれーかも」
そう笑ったJOJOの手のひらが背中や腰やふくらはぎを這う。女の子たちからはよく誤解されるのだが、鍛えられた筋肉はしなやかだ。服越しに確かめるようにあちこちを揉まれてくすぐったいのを我慢する。せっかくJOJOから触れられる機会だというのに、彼を振り落としでもしたらもったいなさすぎるというものだ。
ぺたぺたと触っていた手は満足したのか、はじめのようにマッサージの手つきに戻る。ごつごつした見た目に反して器用なその指先は素人のはずなのにやけに心地よかった。
「小さいころはおばあちゃんにもやってたんだぜ。おれがでかくなっちまってからはしてないけどな」
「ほう、確かにうまいな」
JOJOのこの行動が悪意によるものでないと理解してやっと力を抜く。体力には自信があるし、どこかが凝っている自覚はなかったがあたたかな手に触れられているというだけで気持ちいいものだ。そのうちにJOJOがおれの体をひっくり返してあお向けにする。体の前面を覆うエプロンが邪魔なのか、脱げと言われておとなしく従った。
「シーザーのそのシャツ、初めて見るかも」
「……ああ、最近買ったんだ」
「キレイな色してんね。おれの好きな色」
「………………偶然だろ」
答えた声は我ながら心もとなかった。最近、おれのクローゼットには鮮やかなマリンブルーの服が増えている。もともとは淡い色で埋め尽くされていたワードローブの一角が少しずつ染められていくのを目にするたび、自分の執着に苦い笑みがこぼれた。
JOJOの好きな色だと聞いて以来、マリンブルーの服を手に取ることが多くなったのは確かだ。特に、どの色を選ぶか迷ったときはつい選んでしまう。彼の好きな色の服を着たところで好きになってもらえるわけではないと理解しているというのに。女々しい思考を悟られたくなくて言葉を濁しても、ニヤニヤ笑いを隠さないJOJOには見透かされているような気がした。
ソファの上であおむけに転がると天井の照明が目に入ってまぶしい。「顔もマッサージしてやるよ」と伸びてきたJOJOの手はおれの頬や鼻をつまむばかりで、人の顔で遊びたいだけだろうと思う。文句を言いかけたところで目を閉じるよう言われ、従えば眼球の近くのツボらしいところを指圧される。さして力も入っていない指先はそれだけでやけに気持ちよくて、祖母に同じことをしていたというのも嘘ではないのだろうと思わせた。
目の近くに彼の指があるせいでうかつにまぶたを持ち上げることができない。黙って甘受していれば小さく笑うような吐息が聞こえ、おれの下でソファが軋みを上げた。
鼻の先に何かが触れる感覚。すぐ近くから響くリップ音がやけに大きく聞こえた。
「……な、JOJO……?」
「はい、マッサージ終了〜。ほら、エプロン返すぜ」
ぱっと体を離したJOJOはおれが着ていたエプロンを拾い上げて寄越す。目を開けたおれはそれ以上何も言えずに受け取るしかできなかった。
鼻に触れたのはJOJOの唇だ。あの瞬間に近づいた体温も、軋んだソファも、やわらかな感触もすべてがそう示している。自身に恋心を抱いている同性に対してそんなことをする意味はなんなのか。混乱するおれに背を向けた彼はいつもと変わらないようすに見えた。
ここで問いただして、気まぐれだとか憐れみだと言われればおれは立ち直れないだろう。何も言わなければ、少なくともこの関係が変化する気遣いはない。なにより振り向いた彼があまりにもさっぱりした顔をしているから、言いかけた言葉を飲み込むしかなかった。
それからもおれたちの関係は変わらなかった。互いを理解し、信頼しあう友人という関係だ。しいて言えば前よりも距離が近くなったように思う。精神的なものというより、物理的な意味である。
JOJOがやたらとおれに抱きついてきたり、肩を抱いてきたり、腕を組んできたり、そういう接触が増えた気がする。本人に言ったところ「気のせいじゃねえ?」とごまかされたが、少なくともおれはそう感じていた。それがどういう意味を持っているかはわからない。彼の体温を感じるたびにおれの鼓動が跳ねることだけが確かだった。
今日も大学から帰るとき、当然のような顔をしてJOJOがついてくる。学部も学年も違うというのに、彼の帰宅時間はなぜかおれとよく一致した。彼の自宅までの所要時間よりだいぶ長い時間を電車に揺られ、JOJOは家主よりも先におれの部屋のドアを開ける。勝手に茶の用意を始める後ろ姿に苦笑した。
いつのまにか、おれの日常の中心に彼がいることが当たり前になっている。もちろん、嫌ではない。彼の胸中が以前よりもおれに好意的であればと願っているが、それは少し虫がよすぎるかもしれなかった。少なくとも、まだ拒絶されてはいない。それを励みにしてミルクを取り出した。
アフタヌーンティーには欠かせないと言い張るJOJOのためにスコーンの焼き方を覚えたのは最近だ。英国流のミルクティーを傾けるおれたちは狭いソファでぴたりと寄り添っている。彼がこうして近づいてくるのは互いの相性を見極めようとしているのかもしれないと考えるようになった。ひとには理屈抜きで生理的に受けつけないタイプというものがある。もちろん、そういう相手とは付き合えないだろう。おれの「好きだ」という言葉を受けたJOJOが真剣に考えてくれているなら嬉しいと思った。
夕暮れの時間をJOJOと過ごすのは幸せだ。バイトは午前中に終えているから時間を気にする必要もない。そういえば、数日前に「バイト辞めねえの?」と聞かれて首をかしげた覚えがある。食費こそJOJOのおかげで多少浮いているものの、アパートの家賃、交通費、大学のテキスト代など自分で稼がねばならないのだ。彼は「せめてもーちょっとシフト減らすとかさぁ」と粘っていたがそれだけの余裕は当分生まれないだろう。深夜や早朝といった人が少ない時間帯のアルバイトは重宝してもらえるので、この頃は日中よりもそちらを優先していた。
「そういや、最近のシーザーってタバコのにおいしないよな。禁煙中?」
「おい、嗅ぐな。……まあ、そんなところだ」
すぐ横のJOJOがおれの服に顔を寄せて言う。首筋のあたりにも顔を突っ込んでこようとするから片手で押しのけた。単にJOJOの前では吸わないようにしているだけだが、彼から見れば禁煙したと思われることだろう。少し前に「煙たい」と邪険に扱われて以来、彼と顔を合わせるときはたばこを遠ざけるようにしている。かといってそれを白状するのはどうにも恥ずかしかった。わざわざ聞き出そうとするJOJOには見透かされているとしても、だ。
そろそろカーテンを閉めようかと窓に視線を投げたおれの視界からは一瞬彼が消える。「シーザー」と隣から呼ぶ声にそちらを振り向く。長いまつげだ、と思った。
やわらかな感触はこれまでの人生で何度も覚えがあるはずなのに、頭が真っ白になって理解が追いつかない。ひどく長く感じた時間は実際には一瞬だっただろう。目を閉じて唇を重ねたJOJOがゆっくりと体を離す。心臓が止まったような錯覚と痛いほどの鼓動を同時に感じていた。
「……やっぱ、イケるかも」
そうささやくJOJOの瞳は夕日の名残りを映して複雑な色に輝いている。キスされた、それだけの事実を理解するのに時間がかかった。
「なんで……おま、え……」
「だァから、実験だって。男と付き合うとか考えたこともねーけど、シーザーならイケるかもって思って、今のはその確認」
驚きのあまりかすれる問いかけに彼はあっけらかんと答える。そんな動機でキスされたおれの身にもなれというものだ。可憐なシニョリーナならともかく、ごつい男相手にキスなんて相当の好意を持っていないとできない。いや、JOJOはイケると言ったのか。それがどういう意味を持つのか、混乱した思考はぐるぐると回るだけで結論を出せない。おれの動揺を見透かしたようにJOJOはすぐ近くでウインクしてみせた。
「で、ちゅーしてもイヤじゃなかったんだよな。これで体の相性もバッチリならァ、シーザーと付き合っちゃうんだけど〜?」
言いながら熱い手がおれの腰に触れる。その体温がこの先の行為を暗示しているようで心臓がひときわ高鳴った。
JOJOがおれと付き合えると言った。まさかという驚きと、大きな喜びと、わずかな疑心が胸のうちに吹き荒れる。誰よりも輝きを秘めた男が、おれのものになる。正直なところ、まるで現実味のない想像だった。
「……お前がそう言ってくれて、本当に嬉しい。夢じゃないかと思っているくらいだ」
「夢でもリップサービスでもないっての。なんならシーザーのほっぺたつねってやるよ」
「すまない、まだ信じられなくて。…………でも、続きは明日にしてくれないか。……その、心の準備ができてないんだ」
我ながら生娘のような言い草に笑いそうになる。同性との恋愛は初めてなのだから間違っていないのかもしれないが、恥じらう姿はみっともないだけだろう。おれの情けない言葉にもJOJOは笑わず、二本の腕で強く抱きしめられた。
伝わる鼓動がどうしようもなく嬉しい。彼の歓心を買うためならばどれほどの労力も惜しくはなかった。夕食もともにしたがるJOJOを苦心して追い返し、一人きりの部屋で夢見心地のまま息をつく。JOJOが、おれと。この喜びはどれほど言葉を尽くしても表現できないだろう。力が抜けてしまった指先を動かし、冷えきったモバイルを手にした。
それから数時間ののち、シャワーを浴びたおれは都心部に向かう。人が多いだけあって、夜が更けた時間でもあたりのネオンは皓々と輝いていた。今のおれの目的地はここではない。駅通りから少し外れた、薄暗い路地が待ち合わせ場所だ。
待ち合わせといっても相手は顔も名前も知らない。ネット上で約束を取りつけただけの男だ。このあたりに足を踏み入れるのは初めてで、怖いわけではないが土地勘はさっぱりだ。風俗の客引きらしい男や酔っぱらいの男女を避けつつ、目的の場所には案外あっさりたどり着く。時間に余裕を持って出てきたせいで取り決めた時間には15分ほど間があった。知らされている連絡先に今の服装を伝えて目印にしてもらう。あとはやることがなくなって携帯を片手にため息をついた。
どうにも落ち着かない。馴染みのない場所で人を待つからというのもそうだが、もっと大きな理由がある。おれはこれから、初めて男に抱かれるのだ。
JOJOに好きだと告げたとき、まさかこの思いが報われるとは考えていなかった。同性と交際した経験もないし、この先もその機会はないと思っていたのだ。しかし、彼はおれと付き合うと言ってくれた。身勝手な欲望を受け入れようとしてくれるJOJOのために、おれができることはなんでもしたかった。
子どもでもあるまいし、恋愛の先に肉体関係があるのは当然のことだ。そのときに経験がなくては彼をよろこばせることはできないだろう。女性が相手でも初めてならスムーズには進まないというのに、ただでさえ体のつくりが向いていない男ならなおさらだからだ。
もしJOJOが抱かれる側を望むならシニョリーナ相手の手管が活かせるだろうが、おれが抱かれるのなら勝手はまったくわからない。同性間でのセックスを知るためにも、抱かれる練習を他の男で済ませておく。それが今ここにいる理由だった。
平常心で相手を待つなんて到底できそうもなく、落ち着かない足が勝手にあたりをうろつきだす。周りの建物はどれも健康的とはいいがたい看板を掲げ、覗き見する趣味も持ちあわせていないおれは駅に通じる道に踏み出した。明るい大通りは多くの人でにぎわっている。時間までに待ち合わせ場所に戻ればいいと考えたおれはぴかぴかと光るショーウィンドウを覗き込んだ。
ふいに肩を叩かれて振り返れば見知らぬ男が立っている。もしかして、と確かめる前に口にされた名前に納得した。その場で考えた偽名はネット上でやり取りした一回に使ったきりで、つまり、彼がこれからおれを抱く相手だ。思っていたより年かさの男はにやついておれの腰に手を回し、反射的に駆け上がる嫌悪感を悟らせないよう視線をそらして歩き出した。駅前の時計を見れば約束の時間の少し前になっている。「近くでいいかな」と言われ、頷いて裏通りのホテル街に向かった。
「――シーザー!」
怪しい通りに数歩入ったところでおれを呼ぶ声がする。まさか、と振り向いた瞬間に視界の端で男が吹き飛んだ。慌ててそちらに視線を向ければ今までおれの隣に立っていた相手が歩道のゴミ箱に頭を突っ込んでいる。すぐ近くで派手な服装の女性が悲鳴をあげていた。
「シーザー……!」
「……JO、JO」
名前を呼んだのも、おれを抱きしめるのも間違いなくJOJOだ。その両腕には痛いほどの力がこもり、驚いたおれは小さく返すしかできない。しかしあたりの視線はおれたちに突き刺さっている。場所柄だけにトラブルを警戒しているのか近づいてくる人間はいないものの、暴行の現行犯だ、すぐにでも警察がやってくるだろう。
こうなっては逃げ出すほかに策がない。馬鹿力を引き剥がしてJOJOの手を取り、全速力で走りだす。つながった手の先で戸惑うような声が聞こえたが、おれの方がよっぽど驚いているはずだった。
しばらく走れば小さな公園に行き着いた。明日が近づいた今の時刻に子どもが遊んでいるわけもなく、ひとけのない空間は都合がいい。この静けさならば警官が追いかけてきてもすぐに気づけるだろうと考え、やっと足を止めた。
手を離して振り返ればJOJOは立ったまま膝に手をついて休んでいる。更に距離を詰めて声をかければのろのろと視線が持ち上がった。小さな街灯の光を受けるその目はやけに暗い。何も言わない彼に重ねて言葉をかけた。
「なんでいきなり殴ったりしたんだ。ムショにぶちこまれてえのか」
「…………」
「おい、JOJO」
「…………なんで、だって?」
思いがけないほど冷えた声に眉を寄せる。明らかに怒気をはらむ彼の言葉に心当たりはなかった。おれたちはまだ恋人関係にないのだし、そのために明日まで待ってくれと言ったのだ。あの男とは金銭をやりとりする予定はなかったから、法に触れるおそれもない。深夜の公園におれたちの声だけが響いた。
「二人であんなとこ行って、何するつもりだったんだよ? 仲よさそうに腰抱かれちゃって、おしゃべりしてサヨナラってわけじゃねえよな」
「それは……」
「誰なんだよ、あいつ。シーザーの彼氏? 女の子大好きって顔して、ほんとはパパと遊んでたんじゃねえの」
「……だとしても、お前には関係のないことだろう」
見つかるとは思っていなかった気まずさで歯切れが悪くなる。しかし、おれ自身が決めたことなのだからJOJOに口出しされるいわれはないはずだ。そう言い切って顔を上げれば少し高い位置にある彼の目がよく見える。海のような色の瞳がその瞬間に燃え上がり、ついでぼろぼろと涙をこぼした。
険悪な空気を振りまいていたJOJOが涙を流すのに驚いてしまい、言いたかったはずの言葉も吹き飛んでいく。あたりに人影がなくてよかったと心底思ったほどだ。慌ててハンカチを取り出す前に彼は自分の手のひらで涙を拭っていた。
「……おれには関係、ないのかよ。ひとの気も、知らねえくせに……」
「JOJO、少し落ち着け。話なら聞いてやるから泣きやめって」
ティッシュをあてがえばずびずびと鼻を鳴らす彼はおとなしく受け取る。日ごろはひとからどう見られるかを計算しているフシのあるJOJOがこんなふうに泣くだなんて、正直想像もできなかった。公園のくず入れに鼻紙の山を築いた彼は真っ赤な目でおれを見つめる。
「シーザーの初めてがおれじゃないなんて、嫌だ」
「………………は? どういう、意味だ……」
子どものわがままのようなせりふに意表を突かれて間抜けな声が出る。まるでおれに対して特別な思い入れがあるような言い草だ。しかし、JOJOは好きだと言ったおれに頷かず、「付き合ってもいい」と返事しただけなのだから言動が矛盾している。ただでさえ読めない彼の思考に困惑していると鼻をすすったJOJOが思いのほか明瞭な声で続けた。
「オメーのこと、他の誰にも触らせたくねえんだ。……好きなんだよ」
今度は声も出なかった。好きって、どういうことだ。彼はあくまでおれの執着にほだされただけで、はじめから恋心は抱いていなかったはずだ。途中で気が変わったとしてもそう言い出せばいいだけの話で、JOJOがおれに惚れているのならとっくにこの関係は恋人に昇華している。疑う視線を向けるおれにJOJOはそっと目をそらした。
「……どうなっているんだ。JOJO、今の言葉は本当か」
「もちろんだって。シーザーが好きなんだ、信じてくれ。……悪かったと思ってるんだぜ。ほんとは、告白されたときにはもう好きだった」
「それなら、はじめからそう言えばいいだろう」
「わかってるよ。だから……その、好きって言ってくれるのが嬉しかったっていうか……おれのためにどこまでしてくれんのかなって、試したくなって……」
言いながら、おれより高いはずの背が小さくなっていくようだった。下を向くJOJO言葉は不明瞭だったが聞き逃してやるつもりはない。腕を組むおれに、彼は涙の気配を振り払った声でもごもごと続けた。
「……シーザーって、頭固くてプライド高いだろ。それなのにおれの言うことは全部聞いてくれるのが嬉しくて、つい悪ノリしちゃった……みたいな……」
「……それで、気のないふりをしてわがまま放題だったってわけか。お前の自己満足のためにおれがどれだけ振り回されたと思ってるんだ」
「悪かったって! ちゃんと言わなきゃなって思ってたけど、おれ的には両思いだから楽しくてやめられなくってさァ」
だんだん開き直りじみてきたせりふを聞き流しながら小さくため息をつく。とっくにこの思いは成就していたのに、JOJOのやつはおれを勘違いさせて引き伸ばしていたというわけか。なんてヤローだ。急にいろいろなことがばからしくなって、ポケットの中からタバコとライターを取り出し火をつけた。
「あ、おれの前じゃ吸わねーんじゃなかったのかよ」
「うるせえスカタン。てめえのための気遣いなんて残ってねえ」
わざと煙を吹きかけてやればJOJOはげほげほとむせていた。やっぱり、おれがタバコを吸わなかった理由は悟られていたらしい。この数ヶ月を思い返しては頭が痛くなる思いだ。コイツは「ひとの気も知らないで」と言ったが、一体どの口がそんなことを言えるというのか。おれの好意をダシにしてもてあそぶなんて信じられないやつだ。
頭ではもっと怒らなくてはと考えているのに、彼を前にしているとそんな気も失せてしまう。落ち着かなく視線をさまよわせるJOJOを許してしまいたくなるのだから手に負えなかった。大きく吸い込んだ煙を吐き出し、静かな空気に溶けていくのを見つめる。JOJOはおれを好きなのだ。それも、ずっと前から。
「……で、シーザー。その……さっきのおっさんと、エッチしたのかよ」
言いにくそうに切り出したJOJOの目は強い光を持っておれを射抜いている。どうしても聞き出したいという強い意志のこもった視線に、おれはふいにJOJOの気持ちを理解できた気がした。一言でひとを、それも自分が惚れた相手を翻弄できるというのは確かに悪魔的な誘惑だ。かといって、もしここで「そうだ」と言えば彼は打ちひしがれるのだろう。それはあまりに忍びない想像で、結局おれは駆け引きなしの事実を伝えた。
「してねえ。そのつもりだったのは確かだがな」
「つもりって、なんでだよ。オメーはおれにベタ惚れなんじゃねえの?」
当然のように言い切るJOJOに力が抜けるが、客観的に見ればそうだろう。数ヶ月をかけて彼好みになろうと奮闘していたおれは間違いなくJOJOに骨抜きだ。言い返すことはせず、代わりに白い煙を吐き出した。
「考えてもみろ、男同士なんだぞ。付き合うと言ったところではじめからうまくいくはずがないだろう。相手には悪いが、今日は練習するつもりだったんだ」
言えばJOJOは大きく目を見開いてその場に凍りついた。自明の理を言い聞かせるつもりで口を開いたのだが、彼の表情は驚きに染まっている。理解できないと言わんばかりの反応を訝しむおれに、硬直状態から脱したJOJOは思い出したようにまばたきした。
「……はあああ〜〜? テメー、ほんっと……あークソ、バカじゃねーの! あんとき見つけられてマジでラッキーだったぜ……」
しおらしい態度を示していたはずのJOJOは急におれをなじったあと、脱力したようにその場にしゃがみこんだ。何なんだ、一体。罵られてカチンときたのは確かだが、おれのうちに芽生えた幸福感が苛立ちをすぐに包み込んでしまう。大きな体を小さく丸める彼は子どものように見えた。
「そういえば、なんであんなところにいたんだ。お前の家からも離れてるだろう」
考えてみればJOJOと鉢合わせたのは本当に偶然だった。おれは目的があって訪れたものの、彼もあのあたりまで買い物や食事をしに来たわけではなさそうだ。今さら問いかければ、JOJOはしゃがみこんだまま心なしか顔をそむける。
「……そのォ、夜のお散歩? みたいな? ここらへんまで来たのはたまたまだけど」
「お前、休日はいつも部屋にこもってるタイプなのに珍しいな。散歩なんて今まで聞いたことないぞ」
「エート、だからァ…………あーもう、そうだよ! シーザーとキスして、これで恋人同士だと思ったらいてもたってもいられなかったの! 部屋にいても落ち着かねえし、外に出たら気もまぎれるかと思ってここまで来たんだよ!」
「JOJO、お前……」
言い切った彼の耳はさっきよりも赤くなっている。つい「かわいいな」と漏らせばますますあさっての方を向いた。浮かれるJOJOというのも想像が及ばないのに、その原因がおれだなんて信じられない思いだった。数ヶ月間おれをだましてからかっていた彼が落ち着きをなくす程度には本気なのだと知り、満ち足りた思いが胸を占める。居心地の悪さに耐えられなくなったのか、JOJOは仕切りなおすように「とにかく!」と声を上げた。
「他の男に触らせんなよ。シーザーに近づいていいのはおれだけだろ」
やっと顔を見せたJOJOが立ち上がり、伸びた手がおれの頬を撫でる。あたたかな手のひらから彼の愛情が伝わる気がして、思わず目を細めた。彼の言い草がどれほど傲岸であってももはや嫌いになることはできなかった。
「……ああ。約束する」
大きな手に頬をすりよせるようにして言えばJOJOも表情をゆるませる。彼が好きだ。そして、彼もまたおれを求めている。長い遠回りすらいとおしく思えるほどにおれの世界は光で満ちていた。
「……それに、練習なんて必要ねえよ。おれがどれだけシーザーとのエッチをイメトレしたと思ってんだ」
「おい、なんだそれ。そんなこと考えてたのか」
「そりゃそうだろ。シーザーはそういうことしてねえの?」
「おれは……その、お前と付き合えるなんて想像もできなかったから……」
耳を疑うような言葉にそう返すとJOJOの瞳が三日月形にゆがむ。「悪かったって」と言う彼をにらみつけても、おれ自身の怒りが持続していないのだから効果はまったくなかっただろう。実際、彼は少しも気後れしていないようだった。
大きな図体が抱きついてきたかと思えばその指が背中や腰を思わせぶりに這う。指に挟んだタバコの火を遠ざけながら、彼の胸板を片手で押し返せば不服そうな顔をされた。
「待て。……イメトレの成果だか知らんが、ここじゃいやだぞ」
「――そーね、やっぱベッドの上じゃないとネン」
おれの言葉に一転してニヤニヤ笑いを浮かべたJOJOは上機嫌に笑う。早く帰ろうと促されて異論はなかった。
前触れなしに顔を近づけてきたJOJOと唇が重なる。深夜とはいえ公園でのキスは一瞬だった。オレンジ色の街灯を受けた彼の頬は常より熱っぽい色をしていた気がする。視線を合わせるために少しだけ見上げるおれの唇をあたたかな指が撫でた。
「……やっぱ、タバコ吸わないほうがいいぜ」
「なんだ、お前好みじゃなくなったら愛してくれないのか?」
そう返せばJOJOは一瞬だけ虚を突かれたような表情を浮かべ、それから悔しそうに口元を結んだ。ヤケになったようにもう一度キスされ、くるりと背を向ける彼は公園の出口に向かって大股で歩いて行く。
「どんなシーザーでも愛してやるよ、バーカ!」
最低の口説き文句に苦笑して、おれもJOJOを追いかけて歩き出す。素直じゃない男だ。それでもいとおしいと思ってしまう自分の盲目さには呆れるほかない。
彼好みになりたいと思うのも、相手のありのままを愛するのも同じ気持ちを持っているからだ。近々、JOJOの部屋には灰皿が置かれることだろう。彼の愛情はきっとそういう形をしている。あの部屋にはどんなデザインが似合うかを思い巡らせ、公園の片隅に置かれた灰皿にタバコを投げ入れた。