※現代大学生パラレル
一度だけ、シーザーの過去を聞いたことがある。
幼いころに父が失踪したこと、親戚の男に騙されたこと、妹たちと離れ離れになったこと、家族を大切にするイタリアにおいて姓を捨てたこと、施設から脱走して社会の最底辺で這いずるように生きていたこと。物語を読み聞かせるようにおだやかな口調で続く言葉は、たばこを咥える男の白い横顔とあいまってまるで現実味がなかった。
静かに話し終えたシーザーはおれを見て自嘲気味に唇の端を持ち上げてみせた。その表情に、淡々と話した彼の痛々しい傷口が見えた気がして一瞬背筋が震える。シーザーの壮絶な半生には同情すら安すぎるようで、おれはとっさに何も言えなかった。
「……悪かったな、嫌なこと思い出させちまって」
「気にするな、お前のせいじゃあない」
なんとか口にした言葉にあっさり返したシーザーは唇から白い煙を吐き出す。その慣れた仕草は何度も目にしているのに、おれはシーザーのことを何も知らなかったのだと思い知らされた。
その日はいやに蒸し暑く、ときおり吹く風が熱気をかきまぜては不快さを大きくさせる。男二人で真剣な表情で顔を突き合わせて、まわりにはどう見られているのだろう。開け放した窓からは次々と騒音が飛び込むが、なぜだかシーザーの声だけは正確に聞き取れる。すべての影が濃くなる季節に、金色のまつげが瞳の光を覆い隠していた。
「それに、半分はおれの自業自得みたいなもんだ。昔は父さんが悪いと信じていたが、結局は思い違いだったからな。確かに幸せとはいえない時期が長かったかもしれないが、父さんのような立派な人を憎んでいたおれには似合いだ」
「……それは違う、と思うぜ」
シーザーの言葉に言い返した声はあまりにも小さかった。彼が自身に抱く憤りややるせなさの大きさは部外者であるおれには計り知れない。だからといって、シーザーが今までに味わった苦しみがすべて当然のものだとは到底思えなかった。
「オメーだけが悪いわけじゃねえだろ。なんでも自分のせいにするなよ」
差し出がましいとわかっていながら、おれはきっぱりとそう言った。おれの一言だけでシーザーの人生が変わるなんて考えちゃいない。ただ、その瞬間に抱いた怒りに似た感情を伝えたかった。
シーザーが受けた苦しみは罰なんかじゃない、お前は幸せになるべき人間だ。胸の中の思いをまっすぐ伝えられず、言葉に詰まるおれにシーザーはすこしだけ目元をやわらげて「グラッツェ」と礼を言う。おれとシーザーが恋人と呼べる関係になる前のことで、それ以来この話に触れたことはなかった。
Hurt your heart
知り合ってからずいぶん時間が経ち、二人の関係が友人から恋人に変化したあとでもおれはシーザーという男を掴みきれていなかった。もともとのおれはひとの考えを読むのが得意だし、シーザーのような単純な相手ならたいていの反応は予測できる。それでもシーザーを理解できないのは、ひとえに互いの行動原理がかけ離れているからだとしか思えなかった。
学食のテラス席でカツレツをつつきまわしながら、視線だけは数メートル先のシーザーを捉えている。日なたで女の子を口説くあいつとは対照的に、おれの全身は木陰に包まれていて風が吹くたび身震いした。おれの視線を知らないシーザーはこちらに背を向けている。会話の内容までは聞こえないが、声をかけられたシニョリーナは赤い頬をそっと手で押さえた。
シーザーの頭の中を理解できないのはこういう瞬間だ。間違いなく初対面のはずの女にわざわざ声をかけ、警戒心をとき、相手を褒めそやしていい気にさせる。必ずしも下心があるわけではなく、やっと自分の名前を言えるだけのガキや腰の曲がったばあさんまでも同じように口説くのだからボランティア精神と言うほかない。本人に言わせれば「イタリア男の甲斐性だ」ということらしいが、どう見てもシーザーの行動は普通ではなかった。もしイタリア男が全員シーザーと同じ考えだったら、国中の女性は通行人全員に声をかけられてまっすぐ歩くこともままならないだろう。
今回もシーザーは時間をかけてコマしたはずの女と別れ、気分を害した様子もなくゆったりと歩き出す。呼びかけるまでもなく、ふとこちらを向いたシーザーと目が合った。
「偶然だな、JOJO。この時間は講義があるんじゃなかったのか?」
「今日は休講。でなきゃメシ食ってねーよ」
言いながらシーザーはおれの隣の椅子を引き、断りなしにそこに座る。互いの予定を把握しているのは恋愛関係に至る前からだ。時刻は午後三時近く、ピークタイムを過ぎた学食は実に閑散としていた。シーザーは携帯灰皿を常備しているが、学内の決まりでここらへんは吸えないことになっている。ジャケットの中を探ったシーザーは結局シガレットケースを取り出すことなく、空っぽの片手をテーブルに投げ出した。
「まぁた女口説いたのかよ」
「見てたのか。言っておくが、やましいところはないぞ」
「わーってるよ、オメーがこんなバレバレの浮気なんかするわけねーよな」
そうだ。シーザーが女性に声をかけるのは必ずしも下心があるわけではない。だからこそ、何の見返りもない行為にわざわざ時間を割くこいつの考えが知れなかった。いっそ、体目当てでナンパしまくるほうがまだ理解できる。何の魅力もないような女を相手にご機嫌取りだなんて、おれなら金を出されてもごめんだ。かける言葉こそ違えど、シーザーは毎回相手の女を褒めそやして、ほほえむシニョリーナに手を振って別れる。そこにはおれに計り知れない動機があるような気がした。
「なんでそんなにちやほやして回んの? だいたい、オメーならウインクだけで女落とせるだろ」
安い肉を口に運びながら聞いてみる。シーザーの口説き方は自分に惚れさせるというより、女をいい気分にさせる効果しかないように思っていた。きれいだとか、天使のようだとか、きみに出会えたぼくはなんて幸運なんだろうとか、相手を勘違いさせて恋愛に持ち込むつもりならば、そんな文句よりもっと手っ取り早いやり方があるはずだ。こいつの顔なら初対面の女にキスしたって許されるかもしれない。本気で迫っているようには思えず、だからこそ彼氏であるおれもなんとなく黙認しているのだ。
おれの問いかけには答えず、シーザーはテーブルに頬杖をついて講義棟の方を見ている。その金髪は確かに同じ色のはずなのに、陽の光の下で見たときよりもずいぶんくすんでいるように思えた。
「……女性は褒め称えるべき存在だ。落とすとか、そういうことじゃあない」
しばしの沈黙のあと返ってきた言葉はやっぱりおれの理解を超えていた。そういう信条を否定するつもりはないが、いちいち行動に移していては時間がいくらあっても足りないだろう。雄弁に反論するはずのおれの舌はキャベツの千切りで埋められていて、なにか言い返すことはできなかった。
「――すまんが、そろそろ行くぞ。冷えてきたが、体調崩すなよ」
「はいよ、オメーはおれのおふくろかっての。行ってら」
おれが咀嚼する間に腕時計を見たシーザーは立ち上がり、駅の方へと歩き出す。今日は火曜日だから、これから本屋のバイトのはずだ。夜になったらバーで接客、曜日によってはレストランでキッチンの仕事になる。土日は引越し業者のバイト、仕事が休みの日も単発のアルバイトを入れていることが多い。勤労学生の背中に声をかければ振り返らずに手で挨拶された。
バイトの必要がない境遇であるおれは、毎日のように仕事をこなすあいつに何も言葉をかけられない。故郷の妹たちに少しでも楽をさせられるようにと毎月仕送りを続けているとも聞いた。
シーザーの苦労はわかっているつもりだが、傲慢だとわかっていてもつい考えてしまう。家族のために働き、見ず知らずの女のために時間を割いて、シーザーの喜びはどこにあるのだろう。シーザーの進む先に彼の幸福があるのか、後ろから見守るだけのおれには見通せなかった。
おれの母親であるリサリサは同じ大学で教授として勤めている。決してあいつの講義は受けないと決めているから基本的に顔を合わせることはないのだが、今日は珍しく向こうから近づいてきた。年齢不詳の鬼教授として学内で妙な注目を集めているリサリサと並んでいると、周りの学生から好奇の視線が突き刺さるのをひしひしと感じる。頭一つ以上低いシルエットに「何の用」とぶっきらぼうに聞けば、タイトスカートにピンヒールの母親は涼しく言った。
「シーザーがどこにいるか、知りませんか」
リサリサの口からシーザーの名前が出るのは不思議ではない。むしろ、ごく当然とも言える。おれが入学する前からシーザーはこいつの研究室によく顔を出し、研究や進路について何度も相談しているらしかった。シーザーとの付き合いはリサリサの方が長いわけで、おれたちの関係もどこまで勘付いているのか知れたものではない。問われて考えるまでもなく「知らねえ」と即答した。
「今日は見てねえよ。大学じゃ、そんなに顔合わせねえし」
「そうですか。では結構」
用は済んだとばかりに踵を返す母親を慌てて捕まえる。考えが読めないといえばこいつもそうで、なんだか身内にばかり苦労させられている気がしてしまう。問われないかぎり余計なことを言わない女に聞けば、身長はずっと低いはずなのになぜだか見下されているような視線を向けてリサリサが答えた。
「シーザーが今日のゼミに欠席したので、なにか聞いていないかと思ったのです。あの子が無断欠席なんて、今までになかったことですから」
「欠席ィ?」
かなり意外な返答におれの眉が持ち上がる。リサリサを女神のように慕っていて、大教室での講義ですら必ずノートを取り続けているシーザーが、より密に接することができるゼミに欠席するとは確かに珍しい。というより、ほぼ考えられないと言っていい。おれが驚いているのを尻目に、リサリサはシーザーと同じ銘柄のたばこを取り出す。もちろん、吸い始めたのはこいつのほうがずっと先だった。
「知らないのであれば、余計な手間を取らせましたね。次にシーザーに会ったら研究室に来るよう言ってちょうだい」
火のついていないたばこを咥え、リサリサは靴音も高らかに喫煙ブースの方へ歩いて行った。あのあたりでたむろっている学生たちは相当震え上がるだろうが、あの女ならそういうことは気にしない。シーザーの欠席を聞かされたおれは少し迷って、自分の携帯電話を取り出した。
おれとシーザーは学部も学年も違うから、大学の中で顔を合わせることは少ない。いつかの学食のように鉢合わせることもたまにはあるが、基本的には待ち合わせでもしないかぎり出くわすことはなかった。加えてアルバイトで忙しいシーザーは夜まで予定が詰まっていることがしばしばで、学生だというのに毎日会うこともままならない。昨日から連絡をしていないことを思い出し、シーザーの番号を呼び出して携帯を耳に押し当てた。
母親のゼミを欠席したからと電話すれば理由を問い詰めるように思われそうだが、「リサリサが探してたぜ」と伝えるくらいならプレッシャーにはならないだろう。リサリサからの無言の脅迫は感じるかもしれないが、それはあの女の人格の問題だ。いつものシーザーなら決して取らないだろう行動に、おれの方もなぜだか嫌な予感がしている。長いコール音のあと、無機質な音声で電源が入っていないと告げられた。
時刻は冬の昼下がり、本当ならシーザーはそろそろバイトのために移動する時間だ。のんきな大学生であるおれはこのあと友人と晩メシに行く約束をしていたが、そちらを断るメッセージを送って正門を出る。シーザーがどこにいるのか確証はないし、おれの予感はまったく外れているかもしれない。それでも、確かめもせずにここにいることはできなかった。
シーザーが住むアパートは大学から遠いし、駅からも遠い。小一時間かけてドアの前に立つころには薄い夕日があたりを照らしていた。年季の入った建物は虫嫌いのあいつが住むのに最高とは言えない。接触が不安定なインターホンを押しても返事はなかった。
本人が部屋の中にいるのかどうかはわからないが、すでにおれはシーザーが普段通りでないことを確信していた。細い小路から見える窓はカーテンが半分だけ閉まりかかった状態で、そういう怠惰なところはあいつの行動パターン上にない。適当に身支度して出かけようとするおれを叱るのがいつものシーザーだった。
ドアノブを回してみても当然鍵がかかっている。こういうときのために、なんと言いくるめても合鍵をもらっておくべきだった。後悔しながら薄っぺらいカバンをあさり、紙を挟んでいたクリップを取り出して都合のいい形に曲げ伸ばす。即席のピッキングツールを鍵穴に差し込み、少しガチャガチャやれば鍵が外れる手応えがあった。
やっていることは犯罪行為そのものだが、おれの目的は物盗りではない。急く手でドアを勢いよく開け、西日の差し込む部屋に一歩踏み入った。
オレンジ色の光に照らされる部屋はごく狭く、玄関からクローゼットまで見通せるほどだ。半端に閉まったカーテンが暗闇を生み、その影の中に見慣れた金髪を見つける。やわらかい髪をシーツに垂らした彼は、いつものように隙のない格好のままベッドの上で全身を投げ出していた。
おれの来訪にも気づかない様子でぐったりと横たわっている様子はどう見ても普通じゃない。慌てて駆け寄ればシーザーはまぶたを震わせて瞳をのぞかせた。
「JOJO……? なんで、お前が……」
「オメーこそどうしちまったんだよ。ちょっと顔貸せ」
声を聞けたことに少なからず安堵しながらシーザーの額に触れる。応えようとしたのか、抵抗しようとしたのか、白い手が持ち上がったがその動きはぎこちなかった。
触れた場所からじわりと伝わる体温は少しだけ高いような気がする。薄闇に慣れた目でよく見れば頬が上気しているように見えた。重篤なものではないだろうが、だるそうな様子といい体調を崩しているのは明白だ。体温計の置き場所を聞けば細い声で「ない」と答えられる。舌打ちして、シーザーの体を持ち上げて布団の中に押し込める間もずっと視線を感じていた。
「おれにお節介焼く前に、自分の体気にしろよな。連絡一つ寄越さねえし、おれが来なかったらどうしてたんだよ」
冷えきった部屋の暖房をつけ、ついでに近くに落ちていた寝間着を片付ける。半端な状態のカーテンは開いてしまうと日差しがシーザーを直撃するのであえてそのままにした。原因が風邪か過労かはわからないが、こんな冬の日にベッドにも入らず寝ているだけならば症状が悪化しかねない。おれもコートを脱ぎ、ベッドのそばに戻ると布団から顔だけ出したシーザーがゆっくりまばたきした。
「いつから具合悪いの」
「……今朝。大したことはないし、すぐ治るだろう」
「ほんとはその前から無理してたんじゃねえだろうな」
おれが言えばシーザーは黙りこむ。嘘をつけない性格はこういうときに助かるが、恋人であるのに調子を崩していたことに気づけなかった自分が情けない。おととい電話したときはいつも通りの様子だと思ったのだが、そのときから体調が悪かったのだろうか。
「……心配をかけたならすまない。本当に大したことはないから、放っておいてくれ」
「オメーを心配してたのはリサリサもだっての。早く治したいなら黙って世話されてろ」
殊勝にも聞こえるシーザーの言葉にそう返して、返事を待たずに台所に向かう。調理小物やら調味料がきちんと並べられた流し台と同様に冷蔵庫の中も整理されているが、あいにくとおれの手に負えそうな食材はなかった。
一度シーザーのもとに戻り症状を聞き出して、軽い風邪だと見当をつけたおれは胸のうちで必要な買い物を数え上げる。薬、スポーツドリンク、すぐに食べられそうなもの、ビタミン補給には果物があったほうがいいかもしれない。駅までの道にスーパーの看板を見たから、そこで揃えられるだろう。思い出して、体温計も買い物リストに加えた。
おれを目で追いかけるシーザーは頭が回っていないように見える。うるみがちな瞳はときおり光を反射し、色づいた頬は子どものようだった。普段ならガケから落ちたって平気で助かりそうな男だというのに、今だけはどこか儚さを漂わせているシーザーに調子が狂う。安心するだけの余裕ができたおれは少しばかりあせた金髪に手を伸ばした。
「バイトだなんだって、頑張りすぎてるからそうなっちまうんだ。おれがついててやるから、今は寝ろって」
「……帰らない、のか……?」
「あのなあ、帰るわけねーだろ」
どこか心配そうに言うシーザーにあきれて返す。弱っている相手を無視できるほど冷血ではないつもりだし、それが恋人ならなおさらだ。そうか、と小さく呟いたシーザーは目を伏せる。こいつのバイト先に電話して、今日は休めないか交渉しなくては。本人は行くと言い張りそうだが、赤い顔をしていては客にも店長にも渋い顔をされるのは間違いない。だいたい、こいつは働きすぎなのだ。いくら体が頑丈だと言っても体力は無限ではない。代わりに連絡してやるべく、携帯電話を探すおれの後ろで人が動く気配があった。
ベッドを振り向けばそこにいるのは当然シーザーだ。つい今まで寝ていたはずの彼は身を起こし、シャツのボタンを外している。息苦しかったのだろうか、着替えはどこだったかと考えを巡らすうちに、前をはだけたシーザーが下着ごとズボンを脱ぎ捨てる。掛け布団と一緒にすみに追いやられた服はカーテンの生む影に隠れていた。
「……シーザー? 暑いなら……」
「いいぞ、JOJO」
そう言ったシーザーは裸のひざをベッドについてこちらを見ている。おれが何も言えずにいると、頬をほてらせたまま不思議そうにまばたきした。
シーザーの頭の中は相変わらず読めないが、誘われていることはわかる。弱っていると論理的な思考ができなくなるものだし、今の彼は寝起きのようなものだ。けだるい雰囲気をまとうシーザーは確かにセクシーだが、おれは優しい彼氏だから今のこいつに手を出すなんてやらない。「しねえよ」と苦笑して布団の中に押し戻そうとすれば、シーザーはわずかに抵抗した。
「……セックス、しないのか?」
「そりゃーお誘いは嬉しいけど、自分の体調考えてから言えよ。薬買ってきてやるから、それまで寝とけ」
「だが……せっかくお前が来たのに、意味がないだろう」
シーザーの言葉に違和感を覚え、そちらを見ると思いのほか強い視線にぶつかる。ベッドの上で半身を起こした格好の恋人に聞き返すと、シーザーは当然のような顔をして答えた。
「セックスするつもりじゃないなら、なんで来たんだ。そのためじゃあないのか」
言われたおれは言葉を探して考えこんでしまう。確かに、シーザーの部屋でエッチしたことなら何度もある。というよりも、来るたびにエッチしていたと言ったほうが正しい。とはいえエッチするためにデートしているわけではなく、互いの都合を優先して健全に別れて帰ることもある。体目当てだと思われるような振る舞いをしたか、すぐには思い当たらなかった。
暖房が静かな音を立てる室内で、シーザーの頬は熱を持っている。肌を晒したシーザーは普段よりずっと力ない声で小さく呟いた。
「……しない、なら……お前にとって、おれの価値はどこにあるんだ」
その声が意味を伴った言葉として認識されるまで少し時間が必要だった。価値? 恋人に向けるには無味乾燥すぎる単語はどんな意図を持つのか。その瞬間にひらめいたのは、これまでのシーザーすべてを説明できる可能性だった。
シーザーの頭の中はおれとまったく違うつくりをしていて、いつだって先読みできない。今回だって、こいつがそんなことを考えていただなんてこの瞬間まで気づけなかった。胸のうちに怒りとも悲しみとも憐れみともつかない感情が渦を巻く。オレンジ色の夕日が届かないベッドは薄暗く、冷たい風が窓を揺らすのを聞いた。
「――思い上がるんじゃねえよ。おれが、エッチできるからってシーザーと付き合ってると思ってんの」
彼の枕元にはいつも聖書が置かれている。シーザーが祈るのを見るたび、どうしてできるのか疑問に思っていた。この世界を作りたもうたのが神であるならば、シーザーの生涯を翻弄し、苦しめ続けたのも神であるはずだ。自身の境遇を憎まず、代わりに感謝を捧げるシーザーの信仰心はおれの目には不条理にも見えた。
カトリックであるシーザーのもとにもたらされるのは苦難ばかりだ。それでもなお神を信じ続ける彼は、それこそが自分が受けるべき罰だと解釈しているふしがある。高潔な父を憎み、無残に死なせてしまったことは一生残る傷なのだろう。深く悔いるあまり、自分はひとから求められるような存在ではないと言い聞かせているようにも見えた。
自由な時間を割いてまで女に奉仕するのも、身を削るほどの労働に精を出すのも、そうすることでしかシーザー自身を許せないのだ。父を裏切り、家族を傷つけた自分が必要とされるはずがない。女たちが求めるのはとけるような甘い言葉だけ、上司たちが求めるのは都合のいい労働力だけ、恋人が求めるのは体だけ。それが、シーザーの目に映る世界でなくてはならなかった。
おのれを責め続けているシーザーにとって、背負った十字架ごと許されるのは恐怖なのかもしれない。自分の犯したあやまちが肯定されるようで、それが怖くて今まで逃げ続けていたのだ。必要以上に褒め言葉を振りまいて、女たちの好意の視線は口がうまいせいだと言い聞かせる。呼ばれれば必ず駆けつけて、上司たちのねぎらいの言葉は便利に扱える存在だからだと納得する。『愛されない理由』を用意して、自分の罪が罪であることを確かめていたかった。
本当に、こいつの頭の中は謎で満ち満ちている。おれとはかけ離れた思考回路はまったく理解不能だ。それと同じように、シーザーもおれの考えを知らない。ぐらぐらする頭を押さえて口を開く。
たぶん、これからおれが伝える言葉はシーザーにとって受け入れられないものだろう。長い間、自分の犯した罪と後悔にすがって立っていた男だ。それでもおれは言わなくてはならない。なぜならおれはこいつの彼氏で、こいつを心から愛しているからだ。
「――シーザーなら、おれのタイプくらい知ってるだろ? 明るくて、ちっとぐらい頭が悪くても、胸がでかくてスタイルバツグンの女の子。部屋のエロ本は巨乳ばっかりだし、グラビア見ても興奮しなかったことなんて一度もない。まかり間違っても男に手を出すわけねえんだ」
「……なら、なんで……」
「なんでおれがオメーみたいな男と付き合って、エッチまでしてるのか、自分で考えてみろよ。おれがその気になれば、明日にでもかわいー彼女が作れるんだぜ」
一瞬視線を持ち上げたシーザーはすぐにうつむき、その表情は薄闇に隠れて見えなくなる。女の体に興奮するおれが、よりにもよって親友の男を抱く理由。愛に生きるイタリア人なら乳児でも答えられそうな正解にシーザーが気づかないはずがなかった。
本当なら不快に思うはずの男の裸に触れて、抱きたいと思うのはシーザーだけだ。この頑固男は理由をおれの性欲だと思い込もうとしていたようだが、女に欲情する以上その理屈は成り立たない。興奮しないはずの相手と寝るなら、そこには性欲以外の何かがあるはずだった。
何も言わないシーザーに、さっき脱ぎ捨てられたばかりの服を拾って投げる。おれがここに来たのはシーザーが心配だからで、おれが帰らないのはシーザーを愛しているからだ。おれにとってのシーザーの価値がセックスだけだなんて、そんなわけあるか。
ベッドの上でシャツ一枚のままうつむく体を抱きしめる。たとえシーザーが二度と起き上がれなくても、おれが向ける感情は変わったりしない。触れる肌は冷たく、体の真ん中で心臓が燃えているのを聞いた。
「覚えとけ。……おれは、お前が好きだ」
今まで自分の殻に閉じこもり、過去ばかり見ていたこいつにおれの言葉が届いているのかはわからない。少しでもシーザーの背負うものが軽くなるように、その荷物を捨てるのは忘れることではないと伝えられるように。聖書に背を向けるシーザーはおれの腕の中で小さく震えている。今はそれだけでも十分なのかもしれなかった。