冬の喘鳴

 小さな咳を聞いて、呼吸矯正マスクをつけてないやつはいいよなと思ったのが昨日。
 朝食の席で聞かされた内容に、ジョセフは思わず大声をあげていた。

「……風邪ェ? シーザーが?」
「そうだと言っているでしょう。熱があるようですから、今日は修業を取りやめて休ませます」

 そう返したのは渦中の人物ではなく黒髪をかきあげる師だった。毎日苦しい鍛錬を共にしているはずの兄弟子の姿が見えないことを問えば「風邪です」と短く答えられ、ジョセフは驚きに目を開く。それだけ言って何事もなかったようにティーカップを傾けるリサリサは朝の光につつまれていた。

 望まぬきっかけで修業の連続に突き落とされ、見目うるわしい恋人だけが日々の慰めであるジョセフは露骨に落胆を浮かべる。ゆうべは早く寝たいと断られて満足にいちゃつけなかったから、顔すら見られない彼は不満もひとしおだった。
 それにしてもシーザーが寝こむなんて意外な話である。ジョセフよりひと回り小さいとはいえ彼は屈強な成人男子で、実はジョセフが組手で勝てたことは一度もない。冬の海に飛び込むなんて震え上がりそうな修業だってこなし、出来に不満だからと「もう一回だ!」と自ら苦行を延長する彼は、ジョセフが知る限りもっとも風邪から遠い人間だった。

「あいつが風邪ねえ。やっぱ、厳しい修行がたたったんじゃねえの? もうちょっと優しくしねえとさあ」
「そうですね。その分、あなたに頑張ってもらうことにしましょう」
「鍛え方が足りねえんだよ。甘やかしちゃダメってことだな」

 リサリサの鬼のような言葉にジョセフはあっさりと前言を撤回した。彼女ならば本当にやりかねない。シーザーの分もと今までの二倍の量を課されたら、風邪でなくても寝込んでしまいそうである。この場にいない恋人に悪いと思いつつも、ジョセフは自分の身がかわいかった。

 きれいに整えられたテーブルにつき、正面の師を眺める。いつもなら、朝食のあとは師範代たちにひきずられるように修業場に連れて行かれ、昼食を挟んだり挟まなかったりしつつ、日没までしごきのフルコースだ。うんざりするような日課を思い浮かべたジョセフは探るような声を出す。

「ほんとに、シーザーは休みなのかよ? 風邪なんて、波紋の呼吸すりゃ治るんじゃねーの」
「熱があると言ったはずです。……ジョジョ、どうして風邪をひくと熱を出すのかわかりますか」

 子どもに対するように問いかけられ、ジョセフは一瞬考える。「そりゃ、風邪だからだろ」と我ながら間抜けな答えにリサリサが軽く息を吐いた。

「体温が高くなるのは風邪に対抗するためです。菌を攻撃するための手段であり、発熱は人間の生命エネルギーがもたらす結果といえる。ここまではわかりますね?」

 まるっきり教師のように続ける彼女にジョセフは曖昧な頷きで答える。生命エネルギー。このひと月の間によく聞いた覚えのあるフレーズだ。彼の思考を見通したようなタイミングでリサリサが口を開く。

「熱を出すのは生命エネルギーによるものです。そんな状態でシーザーが波紋の呼吸をしたら、どうなるでしょうね」
「……」
「人間の体はそれほどの高温に耐えられるつくりにはなっていません。――言っておきますがジョジョ、あなたの修業はいつもどおり行いますよ」

 淡々と告げる彼女は空になったティーカップを置き、食堂を出て行った。やっと次第を飲み込めたジョセフはうすら寒い思いでテーブルのはしに目を向ける。白い光を冷たく跳ね返しているのは、先ほど自身の顔から離れたばかりの呼吸法矯正マスクだ。
 熱を出すのが生命エネルギーならば、波紋の呼吸によってそれを爆発的に増大させればどうなってしまうだろう。膨れ上がったエネルギーが風邪の撃退のために使われれば、際限なく熱が上がり続けるかもしれない。そこまでではなくとも、風邪よりよほど厄介な事態になるのは想像にかたくなかった。

 つまり、風邪をひいている間は波紋の呼吸ができないということだ。となれば修業は望めないし、治療のためにも休養が必要だろう。彼だけがきつい鍛錬を免除されることに不公平な思いを抱いていたジョセフは小さく頭を振った。
 いつもシーザーと一緒だから、師範代に無茶な課題を出されても耐えられたのに。シーザーがいないからおれも、と言って休みたいところだがそれを許してくれるような相手ではない。まじめに修業場に向かうのがもっとも面倒事を避ける方法だと悟り、ジョセフはすこしばかり冷えたティーカップを持ち上げた。



 相手が眠っている可能性を考え、控えめなノックだけで扉を開ける。返事を待たずとも、内側からドアが開かれることはないとわかっていた。

「もしもぉ〜し……」

 病人の部屋だと思うと自然、気を遣った声量になる。そろりと首を伸ばした室内には照明が灯り、視線の先でシーツの山が動いた。

「……ジョジョ?」

 不安定に響く声がジョセフを呼んだ。この島で修業者たちに割り当てられる部屋は寝室としての役割しか期待されておらず、入り口からすぐにベッドが見える。白い布の間から金髪が覗き、ジョセフは知らず安堵の息を吐いた。
 手にした籠からボトルを取り出し、伏せたシーザーにも見えるよう何度か揺らしてやる。「お見舞いだぜ」と免罪符を口にして部屋に入り、内開きのドアを閉めた。スージーQが彼に簡単な食事を用意したことは夕食の間に聞いているから、心配はないだろう。イギリスの流儀では熱のあるうちに栄養を摂りすぎることは歓迎されない。そして、ジョセフが手にしているのはイタリア流の特効薬だ。

「こっちじゃ、風邪ひいたら柑橘なんだろ? 喉痛めてなくてよかったよなァ」

 キッチンから持ってきた籠にはオレンジジュースの瓶が収められている。大きな実もいくつか見つけたのだが、あたりを汚さずに皮を剥ける気がしないのでジュースで妥協した。イタリアでは風邪をひいたらフルーツを食べるのだとメイドの彼女に教えてもらい、そういうものかと実践に来たわけだ。
 一つしかないテーブルに瓶を置き、まずはシーザーの顔色に注意する。半分眠りかけていたのか、ぼんやりしたようすの彼の頬と額に触れて熱がないことを確認した。大分快方に向かっているとはスージーQから聞いていても、自分の目で確かめるとやはり安心する。年代物の丸椅子をベッドのそばに運び、足を組んで掛けた。

「オメーが風邪ひくなんてなあ。逆だったらぜってえ『たるんでる!』とか言ってただろ」
「……おれだって、ふがいないと思っている。だが、ずいぶんよくなったし、今晩寝てれば治るだろう」

 横になったままのシーザーの声は少しだけ聞き取りにくい。ふがいないという言葉のとおり、合わせる顔がないように布団を鼻の下まで引き上げる彼が妙に幼く映りジョセフの唇が持ち上がった。
 もしジョセフが寝込んでいればシーザーはこれでもかというほどの小言と嫌味と説教を降らせ、そのうえでたっぷり甘やかしてくれるだろう。想像にかたくないそれをなぞるようにジョセフは瓶とグラスを取り出す。あえて不満たらたらというふうを装って口を開いた。

「リサリサのヤローに聞いたんだけどよ、波紋の呼吸しちゃいけねえんだろ? おれはこんなマスクしてるってのに、気楽なもんだぜ」
「先生には敬意を払え。……おれも今朝聞いて驚いたが、確かにおっしゃるとおりだろう」
「じゃあよ、熱出てることに気づかないで波紋練ったらオダブツなわけ? 怖いったらありゃしねえな、波紋なんて使えないほうがいいんじゃあねえの」
「馬鹿言うな。――しかし、風邪のおかげで一日分遅れをとってしまったからな。明日の修業は気を引き締めなければならん」

 瓶の栓を抜くジョセフはシーザーからは見えない角度で小さく舌を出した。つくづく熱心な兄弟子である。ジョセフが同じ状況であれば、翌日は「病み上がりなんだから手加減してくれ」とかなんとか言って楽をしようとするだろう。もっとも、その言い訳が師範代たちに通用するかといえばはなはだ怪しいところであったが。
 手元で輝く色鮮やかなジュースが魅力的に映っても、あいにく彼の口元には鋼鉄製の無骨なマスクが嵌まっている。先にこのマスクを使っていたというシーザーなら外せるはずだが、波紋の呼吸を禁じられている今の彼には不可能な芸当だ。残る方法といえば自分で外すことくらいで、一瞬思考を巡らせたジョセフは一人分のグラスだけをオレンジ色の液体で満たす。横からは恋人の声が届いた。

「それで、今日の修業はどうだったんだ」
「いつも通りだぜ? おれの才能に師範代たちもひっくり返って、リサリサのやつなんかサングラスを海に落っことしてた」
「ほぉ、それは明日が楽しみだな。メッシーナにそのようすを詳しく聞かなくちゃならん」
「すまん嘘だ。あいつら、一人減って暇だからって揃っておれをいじめやがんの。今日だけでおれが何度泣いたか」
「なんだ、そっちの方が見ものじゃねえか」

 どう聞いても楽しそうな声でからかうシーザーに恨めしい気持ちと安心する思いを同時に抱きつつ、ジュースの入ったグラスを伸ばす。もそもそと身じろいだ彼が上体を起こし「グラッツェ」と受け取った。一息には干さず、ゆっくり中身を減らしていくのをなんとはなしに眺める。二人きりの部屋でジョセフが口を閉じればとたんに静寂が耳についた。

「……おまえ、こんな気遣いもできるんだな。見なおしたぜ」
「ん? ああ、まあな」

 空にしたグラスをシーザーの手から受け取り、恋人の賛辞に生返事を返す。視線を落ちつかなくさまよわせながら、ジョセフは内心に誘惑との戦いを繰り広げていた。
 身を起こしたシーザーの上半身はシーツの鎧が剥がれ、寝間着のシャツ一枚が覆うだけだ。襟ぐりの広いそこから首筋が覗き、白い肌はしっとりと汗ばんでいる。一日中ほとんど動かさなかったであろう声帯からはすこしかすれた声がジョセフを呼ぶ。まだ眠気を残した目もとはやわらかくとろけ、まぶたの奥の瞳は潤んでいる。おまけに、あたたかな布団の中から室内の冷たい空気にさらされた胸の尖りがシャツの生地を押し上げていた。

 どこかけだるさを残す恋人にあてられ、ジョセフの頭の中には大小さまざまの花が咲き乱れる。それがすべてピンク色をしていたとしても年若い彼を責めることはできないだろう。空っぽのグラスを手にして思い悩む彼に気づき、シーザーが声をかける。

「ジョジョ? 急に、どうしたんだ」

 意識してしまえば、もうだめだった。
 波紋の呼吸を避けるために無理に短く繰り返される息も事後のさまを思わせ、何度も見た彼の裸体が呼び起こされる。白い肌に汗の珠とキスマークを散らせたシーザーがジョセフを呼ぶ。血色の増した唇から漏れる吐息には情愛と幸福感が込められている。本調子でない彼をいたわってやらなくてはと理性が引き止める一方で、一人きりの修業に励んだことを褒めてほしいと子どもっぽいわがままが募った。

「……あのさ、シーザーはずっと波紋の呼吸してきたんだろ? いきなり禁止されても、無意識のうちに続けちまうんじゃねーの」
「ああ、まあ、ありえそうだな」
「だろ? だからさ」

 ――呼吸が乱れるようなこと、しようぜ。
 声をひそめて続けた内容にシーザーはすぐに思い当たったようで、やわらかくゆるんでいた眉尻が持ち上がる。波紋を練れない彼が腕力に訴えたところで怖くない。代わりに叱られるかと身構えていたジョセフは、しばらくしてから届いた言葉に笑みを深めた。

「……風邪がうつるだろう」
「でも一晩で治るんだろ? シーザーがくれるもんなら風邪菌でも大歓迎だぜ」
「寝言は寝て言え。おれはいいが、おまえはそのマスクがある。呼吸を乱せないんだぞ」
「へえ、シーザーはいいんだ? なら問題ねえな」

 掛けていた椅子から腰を上げると緑の瞳がジョセフを映す。そこに期待の色を見つけてしまうのは都合のいい勘違いなのかもしれない。彼が飲み干したグラスをテーブルに置けば、シーザーの手の下でシーツが皺を作るのが見えた。


 シャツの裾を首のあたりまで持ち上げ、肌を照明にさらすとシーザーの体が小さく震える。暖房のない部屋は冷たい空気が占めているが、体を揺らしたのが寒さだけでないことは互いに知っていた。いかにも白人らしい肌は今日一日陽の光を浴びていない。筋肉の弾力を確かめるようにゆっくり撫でるジョセフの手のひらがくすぐったいのか、睨むような視線を下から感じた。
 昨日は断られ、その前は口もきけないようなハードなしごきで二人とも気絶するように眠りについた。たった二日あけただけだというのに、シーザーに触れているだけで満たされていく。同時に、腹の底があぶられるような焦燥も渦を巻いていた。経験豊富な恋人にからかわれないようクールに振る舞いたいジョセフだが、今日はそんな余裕がないかもしれない。駆け引きもなにもなくシーザーのボトムと下着を下ろす。短い呼吸を繰り返す彼が引きつった息を漏らした気がした。

 無遠慮な光に震えるシーザーの性器はすでに熱を帯び始めていて、ジョセフが数度撫でるだけで固く張り詰める。見る間に角度を変える欲に気をよくし、横目で伺えば枕に背を預けた彼は必死に目をそらしていた。セックスを楽しみたいジョセフとは違い、愛を確かめる手段だと恥ずかしげもなく言い切るシーザーであるから、必要以上にさらけ出されることに抵抗があるらしい。そのほうが燃えるくせに、つくづくあまのじゃくな恋人だと思う。暗闇の中で感じる一つに溶け合うような錯覚も悪くないが、ジョセフは出会ってからひと月に満たない相手をもっと知りたかった。

 自分の下肢を視界に入れないようつとめているシーザーはうつむき、シーツの上で握った右手を見つめている。その手で抵抗しないのは彼も乗り気なのだと了解して、愛撫する動きを速めた。いつもなら手管を尽くしてジョセフを誘惑するシーザーが今日に限って妙におとなしいのは、一日修業を休んでおいてセックスのときだけ乗り気にはなれないという思いなのかもしれない。閉めきった部屋には次第に湿っぽい音が立つようになり、比例して彼の呼吸が浅くなる。頬が赤くなっていく横顔を眺めながら、ジョセフも体温が上がるのを感じた。
 相手は病人だというのに思いとどまれる気がしない。いつもよりもどこか儚げに見える彼に背徳感を煽られ、その裏で欲が膨らんでいく。呼吸法矯正マスクに窒息させられないよう息を整えるのが精いっぱいだった。

「……なあ、あれどこ」
「引き出しの、三番目……奥に、ある」

 言葉少なに尋ねればすぐに返事が返る。ベッドサイドの小さな棚を探れば、シーザーの言った通りの場所にお目当てのものはあった。小さな入れ物に収められたクリームは本来の目的をとっくに忘れられ、潤滑剤としてしか使われていない。どろりとしたそれをまとわせた指でシーザーの後孔を撫でる。冷えた感触に身を震わせるのに合わせ、彼の固く立ち上がったものが小さく揺れた。
 焦らすだけの余裕もなくジョセフの太い指が入り込む。シーザーの体が一瞬こわばり、すぐに身を任せるように脱力した。昔は荒れていたという彼がまるで無防備にやわらかな肌を見せるくらいには信頼されているし、愛されている。波紋のリズムとはほど遠く繰り返される呼吸は興奮のためだけではないとわかっていても、ジョセフの方まであてられてしまうようだった。

「……なんか熱い、かも。やっぱり熱あるんじゃねえ?」
「そう思う、んなら……っン、やめろ……」
「冗談だろ。シーザーだって、今さらやめられねえくせに」
「っ、ぁあ……ッ」

 二本目の指を添えて彼の中を探る。探り当てたところをこすれば腰が跳ねた。指先に感じる温度が高いのは本当だが、風邪の症状なのか他の理由なのかは判然としない。シーザー本人だってわからないだろう。ここまで来て、二人とも止まれないことだけが確かだった。

 ジョセフの指が内側を開くのにあわせてシーザーの体がもどかしげに揺れる。なによりも雄弁なおねだりにやにさがりつつ、気づかないふりをしてことさらゆっくりかきまわした。息を整えようとするたびに波紋の呼吸を禁じられていることを思い出すらしい彼が苦しそうで、同情するはずなのにジョセフの興奮が大きくなる。呼吸をコントロールする日々を送るうち、息を乱すことと性的接触が結びついてしまったらしい。
 熱く狭い感触を指だけで味わうのに我慢できず、彼のうちから引き抜いたジョセフは自分の服に手をかける。それに気づいたシーザーが振り向き、下着を下ろす彼を視界に映してうっとりと瞳を細めた。
 待ち望んでいたように陶酔しきった表情を浮かべるシーザーは彼に抱かれることを望んでいる。ふいに息が苦しくなるのを感じたジョセフは慌てて体になじんだリズムを繰り返した。波紋の呼吸ができないシーザーと、波紋の呼吸しかできない自分の対比を思い浮かべて苦笑が浮かぶ。焦がれる視線を痛いほど感じながら、膨らんだ性器を入り口に押し当てた。

「ちゃーんと、見てろよ……」
「ジョジョ……ぁ、んん……!」

 太い熱を押しこめばシーザーの背がしなる。彼の両足はジョセフが手を伸ばすまでもなく開かれ、迎え入れるように小さく震えた。飲み込まれるような錯覚のまま奥まで穿ち、ひくつく内壁に目を細めたジョセフは熱い息を吐く。思うさま腰を振るのも、恋人に唇を寄せるのも忌々しいマスクが邪魔をしていた。
 衝動に身を任せてしまいたいのをこらえ、緩慢な動きで抜き差しを繰り返す。そうでもなければ、すぐにでも酸素を遮断されて窒息しているはずだ。常とは違う感覚に耐えられないようにシーザーが身をよじる。彼が快感に酔っているのは明白で、天を仰いだ性器から透明な雫がこぼれた。

「ジョ……ッ、ぁ、それ、やめろ……!」
「んなこと言ったって……窒息なんて、ごめんだっての」
「あ、んぅ……!」

 焦れったいような動きは体の中のジョセフを意識させるらしく、逃げ場のないシーザーがシーツの上でのたうつ。その手が持ち上がったかと思うと恋人の口元を覆う鋼鉄のマスクに伸びた。訴えるように10本の指が表面を引っかくが、波紋を練ることができない彼がそのマスクを外すことは不可能だ。背を跳ねさせながら短い息を漏らし、必死に求める姿にジョセフはこっそり口角を持ち上げる。たちの悪い笑い方が隠れるのはマスクの唯一の効用かもしれないと思えた。

「なァに、これ外してほしいの? でも、リサリサの言いつけだからなァ」
「……てめえ、性格悪い……ッ、ぅあ……」

 下から睨みつけるシーザーの言い分はもっともだ。残さず味わうように内側をなぶられているシーザーとは違い、ジョセフには呼吸を気にするだけの余裕がある。本心でないことが容易に知れる声で「しょうがねえなあ」と呟いた彼は一瞬目を閉じ、自身にはめられたマスクに触れた。

 特徴的な呼吸音ののち、呼吸法矯正マスクはジョセフの顔ではなく右手に移動する。こともなげに外してみせたジョセフはすぐに固い金属を放り投げてしまった。
 まばたきする間のできごとに、赤い顔をしたシーザーが驚きをたたえてジョセフを見上げる。得意の先読みをするまでもなく彼の言いたいことを理解しているジョセフは、浮かべた笑みを隠さないまま口を開いた。

「そんなにびっくりすんなよ。シーザーだって、おれの波紋は劇的に強くなっているとか言ってただろ。オメーにできることがおれにできないわけねーの」
「……な、おまえ、一言もそんなこと言っていなかっただろう!」
「そりゃ、自分でマスク外せるようになったってばれたら、今まで以上に監視が厳しくなるだろ。こっそり息抜きくらいさせろよな」
「まじめに、修業……ぅあ、ん……!」

 驚きから小言に移行しそうなシーザーを腰を揺らして黙らせる。なおも彼は捨てられた呼吸法矯正マスクに一瞬目を向けるが、着脱に波紋を必要とするそれを今のシーザーが扱えるはずもない。すべて織り込み済みのジョセフは目の前の唇を思わせぶりに撫でた。

「お望み通り、外してやったんだぜ? これで遠慮しなくていいだろ」

 そう言えばあわい緑の瞳が揺れる。シーザーはジョセフの前ではことさらに厳格ぶるが、聖人君子でも何でもない彼がこんな状況で欲を抱くのは当然だ。ジョセフがゆっくり顔を近づけても拒まれることはない。どころか、まぶたを下ろすのが素直だった。
 唇を合わせ舌を交わす。合間に短い呼吸を繰り返すシーザーは苦しそうだが、そうでもなければ体になじんだ波紋のリズムを思い出してしまうのかもしれない。久々にリードを握るキスは気分がよく、飽きずに求めてしまう。唾液を飲み込むのもままならないシーザーがそれでも拒まないのは、相手がジョセフだからだとわかっていた。

 彼の読みを裏づけるように、やっと唇を離しても訴えるように見つめられる。無粋なマスクのおかげで人目を盗んでくちづけもできず、ジョセフを縛るはずの金属を一番うとんじているのはシーザーかもしれなかった。名残惜しげな恋人の頬をなだめるように撫で、その手を彼の腰に下ろす。聞こえた吐息が期待に満ちているように思えるのは勘違いではないはずだった。

 抜け落ちそうなほどに引き、勢いよく穿つ。ほとんど泣きそうな悲鳴とともにぬるつく粘膜に絞られ、ジョセフは快感に身を震わせた。男に抱かれたことはないというシーザーの体は彼のためだけに作り替えられ、彼を喜ばせるためだけにひくつく。一番深くまで許されているという優越感と自信がジョセフの中を満たしていった。

「んぁ、あ……っ! そこ、すご……あ、だめ、だっ……ああっ!」
「はー、びくびくしてて、きもちいー……」
「ジョジョ……あ、はぁ……っ……!」

 呼吸を気にせず、好きなように腰を振る。一日中布団の中で少し湿った肌はジョセフの手に吸いつくようで、彼の機嫌を上向かせる要因の一つになった。シーザーの弱いところをこすれば絡みつくように内壁がうごめき、絞られる心地よさにうっとりと目を細める。荒く息をつくシーザーが両手を伸ばし、応えるために身を伏せると待ちわびたように熱い手のひらがジョセフを抱きしめた。

 エア・サプレーナ島で体力の限界に挑む毎日と、それに至るまでの経緯は決して歓迎できるものではないが、その中でシーザーに出会えたことは疑いようもなく幸運だと噛みしめる。肌を合わせるたびに離れがたく感じるのは彼も同じだと信じていた。火傷しそうなほどに熱を持ったシーザーの性器がジョセフの下腹にこすれる。すぐ近くで響く悲鳴を楽しみながら、手加減なしのストロークを何度も叩きつけた。

「あ、やだ、ジョジョ……! は、んぁっ! あぁっ……!」
「は……すっげ、締まる……」

 激しいセックスから生まれる快感に酔う。はじめはシーザーの体を熱っぽく思っていたはずが、今や互いの体が火のように熱い。頭の中が溶けていくようで、体の端から混ざり合う錯覚にひたされた。舌を絡ませればジョセフを包む粘膜が震え、体を引き寄せる腕に力がこもる。全身で彼が好きだと訴えるシーザーにあてられ、なにかが背筋を駆けのぼる感覚に小さく声が漏れた。

「もーおれ、やばい……」
「ジョ……うぁ、おれ、ッも……」

 濡れた唇を開き、必死に酸素を取り入れる彼の下肢に手を伸ばす。濡れた性器を数度しごくだけで高い声とともにシーザーが達し、ジョセフの手は白い精液で汚れた。全身を弛緩させるシーザーに構わず、張ったところが彼の弱点に当たるよう腰を揺らす。芯のない声で抗議するのがかえって興奮を煽るようだった。

「ひ、ん、今……動く、なっ……」
「だって、おれイってねえし。シーザーだって、中にぶちまけられてえんじゃねえの?」
「ッん、ぁあ……!」

 満足に言葉を続けられないのをわかっていて口にすれば、想像だけで感じたようにシーザーの内側がうごめく。気をよくして白い首筋に吸いつくうち、背中に感じる重みに視線を向けると彼の長い脚がジョセフを捕らえていた。乞われるまま奥まで突きいれ、組み敷いた体が震えるのを全身で感じる。

「じょじょ、ふぁ、ジョジョぉ……!」
「もー、ほんと……ッ!」

 ジョセフが息を止めるのと同時に性器が脈打ち、シーザーの中に熱い液体を注ぐ。長い射精を受け止めるシーザーはこらえきれないような声を細く漏らし、合間に幸福に満ちた吐息をこぼした。ぼんやりした視線が交わるのに顔を寄せ、熱っぽい舌でキスを繰り返す。
 互いの体は汗と体液でどろどろだというのに、触れたところからぴったりくっついてしまったようで離れられる気がしない。シーザーとセックスした女の子たちも同じように思ったのだろうか、と浮かんでしまったジョセフはもう一度頭を空っぽにして恋人の唇を味わった。


 寝室としての役割しか持たない部屋では、互いのほかに興味をひくものがない。すでに部屋の照明は落ち、小さなランプだけが頼りない光を投げている。普段ならここでタバコに火をつけるシーザーだが、今日はシガレットケースに手を伸ばした姿勢でしばらく逡巡したのち諦めた。それをぼんやり眺めていたジョセフが尋ねれば「風邪で一日休んでいたのに、心配してくださった先生に申し訳ないだろう」と返される。つくづく、ジョセフが踏んだとおりの反応をする男だ。誰も見ていないが、シーザーにとっては見咎められることが問題ではないのだろう。体を重ねたあとのけだるい時間を無粋な煙に邪魔されなくてすむジョセフにとっては歓迎するべき話だ。

「つーか、昨日までなんでもなかったろ? 今朝になって風邪ひいたんなら、心当たりとかねえの」

 皺だらけのシーツに転がり、すぐ横の金髪に問いかける。ジョセフとシーザーが同じベッドに入れば窮屈なことこのうえないが、恋人と肌を合わせる感覚は悪くない。シーザーのやわらかな髪を指先でもてあそびながら待っていると、はっきりしない調子で「あるといえば、ある」と返ってきた。

「…………そんだけ? 教えてくんねーの?」
「聞かなくてもいいだろう。べつに、面白い話じゃあない」
「そうかもしんねーけど。心当たりがあるんなら、聞かせてくれてもいいんじゃねえ? 同じ理由でおれが寝込んだらばかばかしいだろ」
「安心しろ。おまえは風邪ひいたりしねえよ」
「そんなに言いたくないなら、俄然気になっちまうなァ」

 言ってジョセフは深い色の瞳で彼を見つめる。噛み合わない会話ではぐらかそうとしているのは瞭然だったし、口先の駆け引きで負けるつもりはなかった。
 無言で数秒、至近距離から突き刺し続ける視線に観念したのか、目を閉じたシーザーが長く息を吐く。ジョセフの方を向いていた体がごろんと動き、見るものもないはずなのにじっと天井を見上げた。その頬はさきほどの余韻を残すように色づいている。

「……ゆうべ、夕食のあとすぐに部屋に戻っただろう」
「ん? ああ、シーザーがつれなかったからな」

 昨日の夜はいつもよりよほど早く別れた。休みたいというシーザーにジョセフは粘ったのだが、結局聞き入れられることはなく長い夜を互いに一人寝で過ごしたはずだ。すげなく断られたことを思い出したジョセフの唇が自然と尖る。いつもならそれを隠すはずの呼吸法矯正マスクは、床の上でベッドの中の恋人たちの会話を聞いていた。

「すぐに寝るつもりだったんだ。疲れきっていたし、休んで明日に備えようと思っていた。だが、なかなか寝付けなくて……ずっと、ジョジョのことを考えていた」
「……うん?」
「それで、頭を冷やそうと思ってバルコニーに出たんだ。この部屋は海が見えるし、落ちつくからな。しばらくそうしているうちに、いつのまにかうたた寝していたらしくてだな……部屋に戻ったら3時間経っていた」
「…………」
「急いでベッドに入ったが、朝起きたら熱があった。それだけだ」

 話し終えたシーザーはそこで口をつぐみ、二人きりの部屋に沈黙が落ちる。短い静寂を破ったのはジョセフの声だった。

「オメー、アホかァ?」

 あからさまにばかにした言葉にもシーザーは答えなかった。居心地悪そうに肩を揺らすあたり、分の悪さを悟っているのだろう。確かにジョセフが同じ理由で風邪をひくことはないに違いない。同時に、今日一日積み上げた心配や不安がすべて吹き飛んだ思いだった。

「……おれのこと考えてるうちに体が火照ってきて、夜風にあたったから風邪ひいたっての? そんなの師範代たちに知れたら、島100周じゃすまねえぜ」
「わかっている。本当に、先生には申し訳なく思っているんだ」

 言うシーザーは確かにしおらしく見える。かたくなにこちらを見ようとしない彼が叱られた子どものようで、ジョセフは呆れと憤慨がするすると消えていくのを自覚した。ベッドで恋人を思ううち恋しさが増して眠れなくなるとは、まるで処女の言い草だ。少し下にあるシーザーの体を引き寄せ、首筋の匂いをかぐように肩に顔を埋める。小さな光に照らされる体は光っているようで、汗でしっとりと湿った肌は先ほどまで抱き合っていたことの証明だった。

「まさかおれのせいでシーザーが熱出すなんてなァ。ほんと、罪作りな男だぜ」
「おい、調子に乗るんじゃあない」

 シーザーの爪がジョセフの腕を引っかく。くすぐったさしかもたらさないそれは彼を増長させるに十分で、やにさがった顔を隠すようにシーザーの肩に顔を押し付ける。密着しているうちに別の熱が上がるのを感じたジョセフは小さく咳払いした。

「……なあ、シーザーちゃん? おれがいないのが寂しいせいで熱出したんなら、こうして寝てれば風邪予防になるんじゃあねえ?」

 わざとおどけた物言いをしてみせたのは、断られるのを考えてのことだ。彼のほうが負担が大きいのはわかっているし、年若いジョセフはおのれの性欲のほうが大きいことも理解している。いつだったか、こういう関係になる前の短い間に「セックスしか考えない関係は恋愛じゃない」と諭されたこともあった。付き合えないと言われれば、聞き分けよく引き下がる用意はある。
 それなのに言われたシーザーは頭を持ち上げ、ジョセフの瞳を覗き込みながら返した。

「――悪くないな。毎日おれの薬になってくれよ、ジョジョ?」

 期待する以上の答えにジョセフは両腕で恋人を抱きしめる。体ごとこちらに向き直ったシーザーにのしかかられながら舌を絡ませるジョセフは、恋人の傾ける愛情を思って目を細めた。つれない相手だと思っていたのが、部屋を隔てて隣で一晩悶々としていたとはまさか想像できなかった。
 こちらの思うようにならないくせ、あふれるばかりの真情をぶつけてくる彼に翻弄されるのが楽しいとすら思えてくる。明日からは二人とも寝不足の日々が続くのだろう。ふやけるほどに唇を重ね、ただひとつ残った照明に手が伸びて密室は闇に包まれた。