散らばった紙切れは確かに紙幣であり、その量はおそらく今までジョセフがシーザーに渡したぶんの総量だろう。夜ごと積んでいた札束が実は受け取ってももらえなかったことを知り、ジョセフは奥歯が鳴るのを聞く。シーザーを見れば、視線から隠れるようにシーツを引き寄せていた。
「……こんな金いらねえって? ほんと、嫌味なヤローだぜ」
吐き捨てた声は思いのほか低く響く。シーザーが自分に甘いのは知っていたから、体を売れなんて無茶を持ちかけても受け入れられるだろうという予測はジョセフの中にあった。実際、男に抱かれた経験もないくせに彼はジョセフの提案に応じ、毎晩のように体を開いてくれる。だからといってそれがシーザーの本意でないことくらいは理解していた。
彼が諾々と受け入れてくれるのは金銭への執着だけでなく、ジョセフへの同情もあるのだろう。あるいは、過酷な修行に引きずり込んだ責任のようなものを感じているのかもしれない。それでも構わなかった。シーザーに触れるためならいくらだって言い訳を重ねる。馬鹿馬鹿しいほどの札束を用意して、友情よりも濁った熱を抱いていることを知られなければいいと思っていた。
零れた夜
彼に渡した金のすべてが手つかずのまま放置されていたのは少なからずショックだった。いつもシーザーの意識がないときに押しつけるような形で置いていったものだから、突き返すタイミングを失って仕方なく保管していたのかもしれない。なにも喜ばれると思っていたわけではないが、今さらながらに拒絶を見せつけられた気がしてジョセフの唇が結ばれる。わざわざ抽斗にしまっていたのは目に入れたくもないからだろうか。
無言で踵を返す。踏みつけた紙幣が乾いた音を立てたが、もう意味のない紙切れでしなかった。悪かったな、と小さく言うとシーザーが慌てて身を乗り出すのが気配でわかる。名前を呼ばれて、振り返るまいと思っていたのにできなかったのは惚れた相手だからだ。
「……なんか用? ずっと嫌だったんだな、悪かったと思ってるよ」
「ジョジョ、違……」
「じゃあなんで手ェつけてないんだよ、おれが寄こしたもんには触りたくもなかったんだろ?」
決めつけるように言っても反論は返らなかった。対価として渡した現金が手つかずということは、そもそもの行為すら彼は内心で拒んでいたのだろう。まがりなりにも関係が続いていたのは、シーザーの見当違いの責任感によるものだろうか。それはひどくありえる気がした。
友人よりも近い距離でいたかったのに、結局仲間でもいられなくなってしまった。シーツの上に座り込んだシーザーの肌は白く、にぶく光っているようにも見える。明日からジョセフは彼の体温に触れることもできない、いや、はじめから許されていなかったのだと思い知った。
どうせ軽蔑されるならいっそのこと、内側に凝った恋情をぶちまけてしまおうか。自暴自棄と投げやりのどちらもがジョセフをひたし、知らず深く息が漏れる。この夜が明ければ、今までのように話しかけることもできないだろう。いいかげん、押し殺し続けることにも疲れていた。
「……さっきの質問、答えてやるよ」
「……」
「なんでこんなことするのか、って聞いたよな。そんなの、おめーが好きだからだ」
告白のようなせりふなのにシーザーの目を見ることはできなかった。誰に否定されても揺らぐことのない思いではあったが、その分だけ彼に拒絶されたときに立ち直れる気がしない。不自然な沈黙が針のむしろのようにも感じられた。
「……今、の」
それなりの意志で口にしたのに告げられたシーザーの反応がないことに痺れを切らし、このまま出て行ってしまおうかと考えた矢先に小さな声が聞こえる。すこしだけかすれた声音は性交の余韻を残してジョセフの耳に響いた。
おそるおそる上げた視線がシーザーの瞳にぶつかり、ジョセフは小さく眉を上げた。彼の顔に浮かぶのは当然嫌悪か軽蔑か、そういったものでしかないと思っていたのに、ジョセフを攻撃する色は見当たらない。苦悩するような安堵するような、彼自身感情の整理に困っているようにも見えた。
「今の、本気か……?」
「今さらジョークなんて言わねえよ。シーザーが好きだ」
やっと目を見て言えた。意外なほどおだやかな気持ちで口にできたのは、シーザーがまっすぐにジョセフを見ていたからかもしれない。たとえ拒絶されるにせよ、この気持ちを嘘やごまかしだとは思ってほしくなかった。金で釣っておいて都合のいい話だ、と同時に自嘲もする。
シーツの上でシーザーの拳が握られるのを見て、諦めの笑みが浮かんだ。扉へと頭を巡らせた瞬間に側頭部に枕がぶつかってジョセフの体が傾ぐ。二人しかいない部屋で犯人が他にいるはずもなく、枕を掴んでにらみつけると同じくらい険のある視線が返ってきてたじろいだ。心なしか、その頬が紅潮しているように見える。
「……ひとの気も知らねえで、勝手ばっかりしやがって……!」
「ちょっ、ちょっとシーザーちゃん、落ち着いて!?」
彼の背から一瞬波紋の輝きが見えて肝が冷える。長く修行していると特殊な呼吸法も無意識で行えるようになるとは聞いたが、暴発に巻き込まれてはたまったものではない。慌てたジョセフが声をかけるとシーザーは一度だけ大きく息を吐き、がくりと頭を落とした。先ほどからシーザーの言動が読めないジョセフは首を傾げるばかりで、枕をぶつけられた恨みは忘れて近づいてみる。彼の影の中でシーザーが呟いたのはやっと聞こえる程度の音量でしかなかった。
「……おれだっておまえが好きだよ、クソッ」
「は!? シーザー、今なんて言った!?」
聞こえた内容に大きく目を開き、枕を投げ捨てて彼の肩を揺さぶった。うなだれていたシーザーの顔が上がり、首元に手が伸びてジョセフの体が引き寄せられる。わざとらしいリップ音とともに鼻先にくちづけられて顔が熱くなるのがわかった。何度も肌を重ねたくせ、恋人のような接触にはまるで慣れていない。
「二度も言わせるなよ、スカタン」
目の前で完璧な微笑を見せつけられてはたまらない。そのままなだれこんでしまいたくなるのをジョセフは理性でぐっとこらえる。ベッドサイドには大量の紙幣が散らばり、この札束が免罪符になるのだと思っていた。だが、シーザーは結局この金に手をつけていない。成立しない取引が今まで続いていた理由が同情や責任感だけでないというのなら、にわかには信じがたかった。
「おれが本当に、金を積まれたくらいでプライドを売るような男に見えたか?」
「み、見えないです……」
至近距離でにっこりと問いかけられて思わず視線が泳ぐ。そもそも、男とベッドをともにするなんて絶対にしなさそうな相手だから現金という餌をちらつかせて釣り上げたのだ。ジョセフにシーザーを侮辱するつもりはないが、そう取られても仕方ない。彼に差し出せるのは即物的なものしか持ち合わせていなかった。
「おれは金がほしいんじゃあなくて、おまえだから抱かれてやってたんだぜ」
「……おれが好き、だから?」
シーザーの言葉を確かめるように聞き返すとぐしゃぐしゃとブルネットをかき回される。彼の瞳には確かな愛情が浮かんでいて、どうして気づかなかったのかとジョセフは己の愚かさに頭を抱えたくなる思いだった。シーザーの視線を避けてばかりいたから、彼の心中を察することができなかった。いつもならもっとうまく立ち回れるのに、シーザーが相手だと自慢の頭脳が鈍る理由はとっくにわかっていた。
「おまえこそ、さっきのは本当かよ。寝るうちに情がわいただけじゃないのか?」
「違うっての! なんでおれが金積んでまでおめーを抱こうとしたのか、わかんねえの?」
反対に疑うようなことを言われ、声に力を込めて言い返す。シーザーを手に入れたくて、そのためにはなりふり構っていられなかった。世間から非難されるやり方だとわかっていても彼が乗ってくれる可能性に賭け、結果成功したと思っていた。しかし、そうではなかったらしい。拒絶されることを恐れて取引を装うくらいなら、一度でいいから真剣に向き合うべきだった。その努力を怠ったためにずいぶん遠い回り道をしたらしいことは、二人ともやっと理解した。
「おまえがおれを抱くのに、金なんていらねえよ」
「ぉ、わっ!」
片手をジョセフの首筋に回したままシーザーが後ろ向きに倒れこみ、二人でベッドに転がる。押し倒すような格好で鼻先がぶつかった。間近で見るシーザーの目尻はまだ赤い色を残しており、そんな顔で口説き文句をささやくのだから手におえない。いいんだよな、と内心に呟いてからジョセフはそっと顔を寄せた。わずかな距離はあっという間に埋まり、初めて知る唇の感触を追いかける。薄い皮膚が触れただけでこれほど満たされるなんてことは知らなかった。
「……シーザー、好きだ」
ほとんど意図しないままにそんな言葉が零れ、遅れて恥ずかしくなる。ジョセフの下でシーザーは満足気に笑み、そんな表情は初めて知るものだと思い至った。体だけでもほしかったのに、それだけでは見えないものがたくさんあるらしい。夢中になりそう、と呟くのは内心にとどめておいた。
「ジョジョ……抱いて、くれ」
そう言って、今度はシーザーからキスを贈られる。金で体を自由にされ、ジョセフに言ってやりたいことも山ほどあるだろうに彼はぜんぶ許してくれるらしい。昨日までなら甘やかすなと唇を尖らせたところだろうが、今はそれが彼の愛情なのだと知っている。喜んで、と返して白い手を握った。
すでに一度開かれた体はたやすくジョセフを飲み込む。奥まで届かせるように腰を押しつけると仰向けのシーザーが小さく叫んだ。抜き差しするたび、内壁がうごめくのが感じられる。彼が性感を得ていることは問いかけるまでもなくわかった。
「……シーザー、なんか……すごい、んだけど……」
身を伏せて彼の耳元でささやけば、荒い呼吸がすぐ近くで聞こえる。ジョセフの手が脇腹をなぞるとシーザーの体が一瞬こわばった。なだめるように性器をしごくと力が抜けてしまうのはどうしようもないようで、意味のない母音が赤い唇から漏れる。唇を噛んで声を殺そうとするからすっかり充血して常より赤味が濃い。同じ白人でもジョセフより色素の薄い肌の中で、そこだけ浮かび上がるようでセクシーだった。
「っ、なに……言って、んっ」
「だって、中、すげー動いてるし……入り口はきついのに、奥トロトロで、めちゃめちゃきもちいい」
「……少し黙って、ろ……!」
熱をもつ粘膜がジョセフに絡みつき、シーザーが荒く息をつくたびに震える。腰を引くと慣らすために使った油が粘った音を立てた。先ほど達しているというのに、ジョセフの熱は張り詰めて柔らかい肉を穿つ。シーザーも同様で、勃ちあがった性器が二人の腹の間で揺れていた。
彼の顔の横に両肘をつけば四本足の檻ができる。シーザーに言われたとおり、なにか言うかわりに無心にキスを続けた。挿入したままわずかに身じろぐだけで息を詰めるのがわかり、ジョセフのうちに支配欲が湧き上がる。女性のあしらいに慣れているシーザーとは違って、彼のキスはつたないものだろうに濡れた舌が応えてくれた。皮膚がふやけるほどくっついた唇を離すとうるんだ瞳が見上げてくる。濡れた金髪が彼の額に張り付いていた。
「いっつもそんな顔してたの」
知らなかった、と呟く。とたんに顔を隠そうとするシーザーの腕をとって彼自身の下肢に導いた。ぎょっと目を開くシーザーに笑い、彼の手を上から握りこむようにして何度かしごいてやる。その動きに反応した内壁に絞られてジョセフも息を詰めた。
「シーザーも、気持ちよくなってよ」
性感に如実に反応を返す体は気持ちいい。形のよい耳殻に歯を立てながら言ううち、ジョセフが手を離しても自身をしごくようになる。シーザーが自らを慰めるさまを見たいと思って上体を起こしかけたが、慌てたように空いた手で引き戻されて叶わなかった。
「も……イきそ」
本音を言えばもっとシーザーの体を堪能していたいのだが、そろそろ限界が近い。ごく近距離で告げると彼の瞳がこちらを捉えるのがわかった。大きく開かせたままの足がジョセフの腰に絡みつき、引き寄せて結合を深いものにする。その刺激で達さなかったのはほとんどジョセフの意地だった。鼻にかかったシーザーの声は普段聞くよりずっと甘い。
「ん、中に、出し……!」
「……ほんっと、ばかじゃねーの!」
同性でのセックスは少なからず負担を伴う。知識として知っていたからこそ今まで無理をさせないよう気を遣っていたというのに、一言で吹き飛ばされた。シーザーの白い鎖骨に歯を立て、深く穿つと同時に大きな波が駆ける。精液を内側で受け止めて震える彼の性器を何度かこすってやるとジョセフの手もすぐに汚れた。
余韻に小さく喘ぐシーザーに顔を寄せると鼻先を甘く噛まれる。寝室に響く二人分の荒い呼吸が子守唄のように心地よく聞こえた。
後始末を終えてベッドに寝かせるとシーザーは今にも眠りそうだった。いつのまにか意識を飛ばした彼の面倒を見ることはあったが、こんなふうにまどろんだ表情を見たことはない。意思の強い眉と口元がゆるむとずいぶん幼く見えるな、とじろじろ眺めていたから、ゆっくり話しかけられたジョセフは慌てた。
「……あの、金だが」
「え? あー、あれね……」
はじめに持ちかけたときは我ながらうまい作戦だ、と考えたものの今になってみれば実に滑稽な思いつきだった。むしろ、体を買わせろなどと迫ったために互いの関係が回り道したことは否めない。今さらそのことに触れられると肩身が狭い思いだった。
「あれ、使ってないから、ぜんぶおまえに返すぜ」
「あー? んなのだせえじゃん、シーザーにやったんだから貰っとけよ」
シーザーに札束を受け取る意思はなかったとはいえ、ジョセフにも返してもらうつもりなどない。投げやりに返答すると横になっていたシーザーが起き上がって詰め寄ってきた。
「施しならいらねえって言ってるんだ。だいたいてめえが稼いだ金じゃねえだろうが、もっと大事に使え!」
「わ、わかったって! わかったから!」
ほとんど怒鳴られて思わず身がすくむ。もっと優しくしてくれてもいいんじゃねえの、とはジョセフも思うがそれも含めて惚れた相手だ。とはいえ、一度渡したものを引っ込めるのも格好がつかない。互いのメンツを潰さないために、と考えて名案が浮かんだ。
「じゃあ返してくれよ。集めたら結構な額になるよな」
「……ああ。数えてもないがな」
さっそくベッドから降りようとするシーザーを押しとどめて目の前でニヤリと笑う。「返してもらった分で指輪でも買ってやるよ」とにっこり言うと彼の白い肌がさっと赤くなった。ふざけんな、と唸る彼を「返してもらった金をどう使おうとおれの自由だろ?」といなすと不満気な視線が返る。これならシーザーも無理に返すとは言わないだろう、と踏んだ通りの反応だった。
「……そんな馬鹿げたことに使うくらいなら、おれが貰っておく」
「だろォ? だから言ったんだって」
目論見通りに事が進んでジョセフは短く口笛を吹いた。すぐに「その金でおまえに指輪買ってやるから、サイズ教えろよ」とやり返されて笑いしか出ない。首輪のほうがいいか、とやけに真剣な顔をするシーザーをベッドに引きずり込んで彼の頭を抱えるように寝転がる。息苦しいらしいシーザーはばたばたと暴れていたが、睡魔には勝てないのかだんだん緩慢な動きになっていった。
「使い道はあとでゆっくり考えようぜ。時間はたっぷりあるんだしな」
その言葉もシーザーに聞こえているかどうか怪しい。ふわりとあたたかい体温を腕の中に感じながら、ジョセフもゆっくりと目を閉じる。今日だけはいい夢が見られる気がした。